●本阿弥書店発行の「俳壇」8月号に上島祥子さんの新作6句「虎渓山」が掲載されました。祥子さん、おめでとうございます。
下のコメント欄に感想をお書きください。よろしくお願いします。
虎渓山については、花冠7月号(No.375)の祥子さんの「ひとり吟行記」の散文に掲載していますので、あわせて、お読みください。
虎渓山
上島祥子
一息に坂登り来て青紅葉
土岐川に若葉の潤む風の朝
青鷺の松に身を寄す水鏡
本堂の余香に拝し山の涼
滝音や巌に還る石仏
山涼し落石知らす手書き文字
(「俳壇」8月号「現代俳句の窓」に掲載。)
————————————————-
【感想】
④吉田晃(2026年7月25日)
どの句も清らかで静かですね。作者の落ち着いた姿が見えるようです。言葉の遣い方が綺麗ですから、読み手にすんなり伝わってきます。
〔一息に坂登り来て青紅葉〕
季語青紅葉がいいですね。登り切ってかいた汗、息切れが季語によってす~っと消えていくようです。
土岐川に若葉の潤む風の朝
青鷺の松に身を寄す水鏡
〔本堂の余香に拝し山の涼〕
お寺独特の匂いの中に手を合わせる。大樹に囲まれたお寺の冷気の中に手を合わせている作者を思います。
滝音や巌に還る石仏
山涼し落石知らす手書き文字
③土橋みよ(2026年7月25日)
『俳壇』8月号掲載おめでとうございます。
『花冠』375号の「ひとり吟行記」を拝読した上で、以前、詩情豊かに、「ワイシャツの干されて自由春の風」と投句された祥子様が、名刹を歩き、その風景をどのように俳句として捉えられたのか、六句を興味深く読み進めました。
一句目の「一息に坂登り来て青紅葉」から、禅院へ向かう坂道における作者の息づかいと、登り切った先に広がる青紅葉の鮮やかさが伝わってきました。「一息に」という言葉で、寺院を包む清新で荘厳な世界へ一気に引き込まれました。
続く「土岐川に若葉の潤む風の朝」と「青鷺の松に身を寄す水鏡」には、朝の光や水、風の気配が静かに響き合う様子が感じられました。「若葉の潤む」という表現は特に素敵で、川辺の若葉が朝の湿気を含み、柔らかく輝いている様子が思われました。また、水鏡に臨む青鷺の句では、青鷺が「松に身を寄す」という慎ましい姿に、周囲の静寂へ溶け込んでいるように感じられた鳥を思いました。
「本堂の余香に拝し山の涼」では、「余香」という目には見えないものに導かれるように手を合わせ、再び山道へ歩み出していくお姿に、私自身も心が澄んでいくようで、とても高貴なものに思われました。
そして、一連の句も最高潮を迎え、「滝音や巌に還る石仏」と詠まれます。この寺の滝の音は仏の声にも例えられるそうですね。絶え間なく響く滝の音の中で、石仏が長い年月を経て、やがて巌そのものに還っていく時間の流れを作者と一緒に感じ取らせて頂きました。
そして最後の「山涼し落石知らす手書き文字」では、それまでの幽玄な世界から、急に現実の山道へ戻されました。「手書き文字」には、単なる注意書きにはとどまらない人の気配と温かさがありました。”落石への注意”という緊張を含みながらも、ほっとする余韻が残り、一連の句を静かに現実の世界に着地させている心地がしました。
六句を通して、実際に私自身が巡礼の道を辿ったような読後感がありました。自然、信仰、歴史、そしてこの世の人の営みがつながった、私にとって新たに記憶に残る一連の俳句となりました。
②多田有花(2026年7月日24日)
「俳壇」8月号への掲載おめでとうございます。
花冠7月号の『ひとり吟行記』も拝読しました。
YouTubeで「虎渓山永保寺」の動画を探してみました。
とても立派な庭園で観音堂に通じる無際橋の形が印象的です。
これだけのお寺と庭園が無料で拝観できるというのに驚きました。
土岐川に若葉の潤む風の朝
虎渓山永保寺の東を流れる土岐川。
愛知県に入ると庄内川になりますが、多治見市あたりでは
豊かな自然が残っていることでしょう。
滝音や巌に還る石仏
こちらは梵音岩から飛瀑泉へと流れ落ちる滝の音と
その反対側の斜面にある石仏の様を詠まれたものですね。
静かに移り行く時の流れを感じさせます。
①高橋秀之(2026年7月21日)
「俳壇」8月号「虎渓山」掲載おめでとうございます。
一息に坂登り来て青紅葉
最後の急な坂道を一息で登る切る。その先に広がる青紅葉。
やり切った充実感と相まって素晴らしい光景をそこに感じます。
滝音や巌に還る石仏
滝の音には不思議な落ち着きを感じさせてくれます。
その落ち着いた雰囲気が石仏さまをより厳かに見せてくれます。
優しい手触りの紙に、原点への「帰還」に相応しい白、無駄のない、きりりとした装丁がすてきですね。
これらの詩は、正子先生のリルケへの詩返に寄せられた、西村先生のお手紙を契機に生まれたとのこと。西村先生の価値判断の確かさと、それを受け止める正子先生の姿勢が、胸に響きました。私も、西村先生から頂戴したお言葉を、深く受け止めたく存じます。
詩集は、まだ一読したばかりですが、正子先生の俳句と同じく、ややこしい言い回しや象徴、暗喩のための言葉がなく、呼吸をするリズムで読み進むことができました。
詩人、リルケに誘われ、信之先生に迎えられ、ご自身の言葉が生まれた場所に帰還されたのでしょう。これまでの人生の記憶、お祖母さまやご両親のお姿、故郷やヨーロッパの景色、そして信之先生とのお別れまで、それらすべての経験が「言葉の泉」であったと振り返る、一冊の旅のような詩集と感じました。
また、ほぼ全ての詩には、季節と自然が描かれ、俳句のように、その季節でなければ完成しない出来事が綴られています。
けれど、私の読んだ限りでは、『チェロ』だけに、自然の描写が見当たらなかったように思います。
「チェロが背負われていく」という出だしから、ロマンティックな内容も想像しますが、最後は「私は / ただ 都会に置かれている」と締めくくられます。「都会に置かれている」孤独のために、ここには自然も季節も書かれなかったのかもしれません。
特に共感した作品は、『サフラン』です。サフランは、母が父の釣果でブイヤベースを作るため、わが家に常備していましたが、こんなふうに大切に作られている様子は、存じませんでした。
「いとおしみ」と呼ぶほど、サフランを愛し、育て、くすりとしたお祖母さまは、きっと「土とサフランの匂い」がしたことでしょう。「くすのきのふくろうを知っていた」のも宜なるかな。
「くすのきのふくろう」には、童話のような奥行きを感じますが、そのために作られた言葉でなく、自然を描写する中で選ばれた言葉が、象徴や暗喩を想わせるのでしょう。これも、俳句らしさかと感じます。
『楽隊』にも、共鳴いたしました。身体に溢れるほど音楽を詰め込んだ学生は、楽器を抱え、佇むだけで、音楽を立ち湧かせます。
2歳からヴァイオリンを抱えている友人は、楽器を背負っているのに気づかれないことがある、と話していました。体と一体化するほど、馴染んでいるのでしょう。
そんな楽隊の学生達が「沈黙の音楽」を奏でることに、不思議はありません。その気付きの過程が、夏のライン川の岸辺に無駄なく紡がれた、美しい詩。詩の静かさからも、音楽が聴こえるようです。
まだ、ぱらぱらと捲ったばかりですので、これから折に触れて何度も拝読したいと存じます。新たな詩の楽しみを授けていただき、ありがとうございました。再読が楽しみでなりません。
このような「帰還」と創作を成し遂げられた後ですから、お疲れもおありのことと存じます。どうぞしばらくはご無理なさらず、お体をおいといくださいませ。
川名ますみ