このたび、「俳壇」10月号の特集『秋の野鳥歳時記』に髙橋正子の俳句5句とエッセイが掲載されました。
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定価1000円ですが、著者割引が適用され800円になります。
送料は103円です。あわせて、800円+103円=903円となります。よろしくお願いします。
なお、出版社への発注は、みなさんの注文が出そろった時点でいたしますので、少しお待ちください。
2026年9月14日 髙橋正子
【感想】
②吉田晃
啄木鳥やリルケを慕い木を叩く
ちょっと視点を変えて鑑賞してみたい。たいへんユニークな、「啄木鳥とリルケ」「リルケを慕う」「木を叩く」のこれらにどんな関係か成り立つのかを自分なりに想像してみた。
花冠には、正子先生のエッセイ「リルケと俳句と私」が連載されていて、第三七五号で四回になる。その中に以下の一文がある。
▽リルケの四行詩を読むことは、俳句の根に触れ直すことでもあった。短い詩形のなかで、沈黙と光が交錯し、風景が外界ではなく内面の深みに沈んでいく。その動きを俳句の呼吸で受け止めようとする時、私は自分の言葉の源泉にもう一度手を触れていると感じる。
▽私は俳句を読むとき臥風先生から「本人(の身)になって読む」方法を教わり、それを六十年近く実践してきた。その姿勢は、リルケの詩を読むときも引き継がれている。
つまり、挙句の啄木鳥を作者自身と理解すれば、啄木鳥が叩く木はリルケの文学である。そして、啄木鳥である作者は、リルケの心を知りたいと木を叩いて隠れているリルケの心に触れようとする。リルケを深く理解したいと叩くほどに、リルケに魅かれるのである。作者は、木を叩き始めたばかりであり、リルケを読み進めるほどに、更に心酔し、木を叩く作業はこれからも続くのであろう。
▽花冠第三七二号では、「リルケの初期の詩を読み始めたことで、彼の目と自分の俳句を読む視点が全く違うものではないと気付いた」と作者は言っている。では、そのリルケはどこからきたのだろう。
信之先生は、愛媛大学でドイツ文学を教えておられ、トーマス・マンを研究しておられた。そのための資料に購入されたのだろうか、遺された蔵書の中に「リルケ作品集」があるという。
作者は、その作品を紐解き、読み進むほどに作者の俳句の心と通じ合うことを知ったのである。そのリルケ文学への思いが挙句なのだと解釈した。
①柳原美知子
俳壇10月号の特集としてクローズアップされた秋の野鳥歳時記への正子先生の作品5句とエッセイのご掲載おめでとうございます。
5句とも別の鳥を詠まれ、それぞれの特徴をよく捉えられ、秋の水の清らかな流れや秋光に包まれた鳥たちが生き生きと眼前に見えるようです。
★啄木鳥やリルケを慕い木を叩く 正子
啄木鳥と同化されたような正子先生のリルケへの真摯な熱情がうかがえる若々しいお句に感動します。
★鵙の声夕べの月を呼び出だす 正子
鵙の鋭い声と姿、静かな夕べの空に浮かんだばかりの柔らかく温かい月の対比が美しく、孤高の鵙の淋しさも感じられ、物語がはじまりそうです。
エッセイも秋に飛来する鳥たちを迎え愛しみ、日々の生活のひそかな喜びとされる俳人らしい優しい文章で感動しました。
コメント
吉田晃さん、1冊注文
土橋みよさん、1冊注文
1冊お願いいたします。
祥子さん、ありがとうございます。
俳壇10月号への「野鳥歳時記」俳句とエッセイのご掲載おめでとうございます。
珍しい内容で、読ませていただきたく思います。
一冊注文いたします。よろしくお願い致します。
美知子さん、ご注文ありがとうございます。
藤田洋子さん、1冊注文です。
高橋秀之さん、1冊注文です。
9月24日/洋子さん、晃さんへ到着。
本日「俳壇」拝受しました。
有難うございました。
柳原美知子(9月26日)
俳壇10月号の特集としてクローズアップされた秋の野鳥歳時記への正子先生の作品5句とエッセイ
のご掲載おめでとうございます。
5句とも別の鳥を詠まれ、それぞれの特徴をよく捉えられ、秋の水の清らかな流れや秋光に包まれた
鳥たちが生き生きと眼前に見えるようです。
★啄木鳥やリルケを慕い木を叩く 正子
啄木鳥と同化されたような正子先生のリルケへの真摯な熱情がうかがえる若々しいお句に感動します。
★鵙の声夕べの月を呼び出だす 正子
鵙の鋭い声と姿、静かな夕べの空に浮かんだばかりの柔らかく温かい月の対比が美しく、孤高の鵙の
淋しさも感じられ、物語がはじまりそうです。
エッセイも秋に飛来する鳥たちを迎え愛しみ、日々の生活のひそかな喜びとされる俳人らしい優しい文章
で感動しました。
俳壇 二〇二六年 十月号
秋の野鳥歳時記 「水際まで」より
一句観賞
吉田晃
啄木鳥やリルケを慕い木を叩く
ちょっと視点を変えて鑑賞してみたい。たいへんユニークな、「啄木鳥とリルケ」「リルケを慕う」「木を叩く」のこれらにどんな関係か成り立つのかを自分なりに想像してみた。
花冠には、正子先生のエッセイ「リルケと俳句と私」が連載されていて、第三七五号で四回になる。その中に以下の一文がある。
▽リルケの四行詩を読むことは、俳句の根に触れ直すことでもあった。短い詩形のなかで、沈黙と光が交錯し、風景が外界ではなく内面の深みに沈んでいく。その動きを俳句の呼吸で受け止めようとする時、私は自分の言葉の源泉にもう一度手を触れていると感じる。
▽私は俳句を読むとき臥風先生から「本人(の身)になって読む」方法を教わり、それを六十年近く実践してきた。その姿勢は、リルケの詩を読むときも引き継がれている。
つまり、挙句の啄木鳥を作者自身と理解すれば、啄木鳥が叩く木はリルケの文学である。そして、啄木鳥である作者は、リルケの心を知りたいと木を叩いて隠れているリルケの心に触れようとする。リルケを深く理解したいと叩くほどに、リルケに魅かれるのである。作者は、木を叩き始めたばかりであり、リルケを読み進めるほどに、更に心酔し、木を叩く作業はこれからも続くのであろう。
▽花冠第三七二号では、「リルケの初期の詩を読み始めたことで、彼の目と自分の俳句を読む視点が全く違うものではないと気付いた」と作者は言っている。では、そのリルケはどこからきたのだろう。
信之先生は、愛媛大学でドイツ文学を教えておられ、トーマス・マンを研究しておられた。そのための資料に購入されたのだろうか、遺された蔵書の中に「リルケ作品集」があるという。
作者は、その作品を紐解き、読み進むほどに作者の俳句の心と通じ合うことを知ったのである。そのリルケ文学への思いが挙句なのだと解釈した。