消えない炎──世紀末ウィーンからの俳句的示唆

「消えない炎」
──世紀末ウィーンからの俳句的示唆

俳句を作っていると、俳句は日本の精神の深いところから生まれた、独特の詩のかたちだと思うかもしれない。西洋とは、遠い場所にあるように感じられることもあるかもしれない。しかし、西洋の詩や小説、エッセイなどを読むと、人間には通底するものがあることに気づかされ、思いがけない驚きに出会うことがある。

 信之先生の本棚に『世紀末ウィーンの知の光景』(西村雅樹著/鳥影社/2017年刊)が今も静かにある。著者から贈られたものだが、このたび読み、遠いウィーン文化の精神に静かに触れた。著書の広大な文化史的射程──建築・都市文化・ジャポニズム・ユダヤ系知識人の位置──まで深く読み解くには私の力の及ばぬ領域もあるが、第5章に登場する人々への言及から、俳句とは結びつけていない著者の記述にも、私は俳句的示唆を受けた。俳句の生まれる前に、宗教ではないが祈りのような体験が、世紀末ウィーンの知識人や芸術家の人々にあったことを知ることにもなった。

 十九世紀末のウィーンは、政治的不安と精神的揺らぎの時代であり、言語・芸術・学問の基盤が揺らいでいた。そのただ中で、民衆劇の石割り人の一言「おまえには何も起こりえない」(方言で言われている)が、ヴィトゲンシュタイン、マーラー、クリムトらの心に静かな明るさをもたらしたという事実は、深い示唆を含んでいる。この「おまえには何も起こりえない」は、オーストリアで広く言われてきた民衆の言葉だという。

ヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という思想に至る前に、民衆の言葉「おまえには何も起こりえない」が彼を憂いから解放したという事実は、深い示唆を含んでいる。この言葉が彼の深層に静かな明るさをもたらしたのである。

その後に彼がたどり着いた沈黙の思想は、俳句の沈黙ともどこか響き合う。俳句の沈黙は、言語の内側に余白を生み、気配として立ち上がる。一方、ヴィトゲンシュタインの沈黙は、言語の限界の外側にあり、言葉で言い得ない世界を指し示す。位置は異なっても、言語の外側にある価値を静かに尊重する姿勢は共通している。

少し詳しく言えば、俳句の沈黙は余白を生むためのものであり、省略と間を含み、言語の内側での沈黙という処理である。美について語るとき、私たちが言えるのは、美をめぐる経験や印象、かたちのことだけであって、‘絶対的な美そのもの’は、言葉では言い表せない。ヴィトゲンシュタインの沈黙は言語の限界の外側にあり、言葉で言い得ない世界のことを沈黙と呼ぶのである。ともに、沈黙の意味が重要なのである。

そして、また、この民衆の言葉は、音楽家にも及んでいる。マーラーの音楽には、圧倒的な響きの奥に小さな灯りがある。
著者が記す1938年、ユダヤ人のワルター指揮によるユダヤ人マーラーの第9番の演奏は、二か月後にオーストリアがナチス・ドイツに併合されるという迫りくる危機の中でも、決して感傷的にはならず、「光へ向かって」という精神を示した演奏だったという。そこに石割り人の「何も起こりえない」という平安の境地が重なると言う。どんな状況でも心の奥に小さな平安を保とうとする姿勢は、人間の崇高さを示すものだと言えよう。

それから画家や、作家にもこの言葉の精神がある。
クリムトの『ピアノを弾くシューベルト』の画をめぐって、作家ヘルマン・バールの言葉が引用されている。それはオーストリアの精神を示すものであるが、一枚の画への感受は、俳句を作る、東洋人の私自身にも「つつましさ」という点において、そのまま当てはまると感じられた。著者が引用したバールの文章は次のようである。

「市民的なつつましさのかもし出すこの静かさ、この穏やかさ、この輝き――これこそ、私たちオーストリア人の本質だ。私たちのオーストリア的感覚がここにはある。その感覚とは次のようなもの。人間はいかに小さくても、生の途上で遭うどんな嵐によっても消えることのない炎を自分の中に宿している。私たちは、運命に踏み込まれることがありえない聖なるものを、それぞれが持っている。嵐がいかに吹き荒れようとも、私たちには何も起こりえない。小さな炎は消え失せたりしない。私たちの奥深い価値は、誰によっても取りさられはしない。これが、人生についてのウィーン的感覚だと私が呼びたいものだ。」(ヘルマン・バール)

 『ピアノを弾くシューベルト』の焼失を悼む  
焼失の名画や画集に秋の夜 正子

人間の奥に宿る小さな炎を見つめるまなざしは、俳句が照らしてきた精神の静けさとも響き合う。

終わりに。
石割り人の劇中の言葉「おまえには何も起こりえない」(元はオーストリアの方言)は、平安の心をもたらしはするが、著者はさらに深く、それに安住して傍の苦悩の人の存在が目に入らない場合の罪深さを語っている。そのことはあるであろう。他者の小さな炎に気づくことを忘れては、ならない。
 そして、また、著者は「自分の方言で読み替えてよい」と述べている。私の故郷の広島弁なら「あんたにぁなんも起こったりしゃあせん」となるだろう。このように言われた時の気持ちを想像してみるといいと思う。胸の奥でふっと力が抜けるような気持になるかもしれない。

生活語が精神の深層へ届くという構造は、俳句の営みそのものだ。信之先生の「よい生活から、よい俳句を」という言葉も同じ水脈にある。わかりやすく、「よい生活をすれば、よい俳句ができる」を信じれば、よい句ができるという点で、どこか祈りのような響きを帯びている。実際、この言葉を深く信じていると、私に伝えてくれた人もいた。そして信之先生は「人は理想がないと生きられない」とも言っていた。「理想」は大きなものでなくても、明日があるということである。人間の尊厳としての消すことのできない命の小さな炎が、だれにもあるということである。そして、日々の生活の、生活の基底にある「世界の静かな肯定」を言葉に託すこと──それが、いま私たち花冠の俳句に求められる平安のかたちなのだろう。

(2026.9.25 花冠 No.376 掲載予定)

 

 

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

Ⅰ 俳句史の盲点について
俳句史から亞浪の系統が消えている――この事実に、私は深い衝撃を受けた。 俳句における「中八」をめぐる形式主義の源流を探るうち、藤田湘子の厳格な形式観がどこから来ているのかを辿る過程で、亞浪の弟子・大野林火のあたりから、系統の記述が事実に基づかないものになっていることに気づいたのである。 生年没年さえ誤って記され、臥風の名も、信之の名も、俳句史からは静かに消えていた。

俳句史が「結社史」として書かれがちであることが、この盲点を生んだのだろう。 『旧制松山高校と俳句』(大野岬歩・髙橋信之共著)に詳しく記されているにもかかわらず、亞浪→梵の流れで記述が途切れ、精神の水脈が見えなくなっている。

Ⅱ 系統が消えた理由
亞浪は少数精鋭の俳人であり、結社を大きくすることを望まなかった。 そのため、俳句史の「組織中心の記述」から自然に外れていった。 さらに、弟子であった大野林火が後に虚子へ傾斜したことにより、系統の輪郭が揺らぎ、精神史としての流れが見えにくくなった。
俳句史の記述は、どうしても大きな結社を中心に構成される。 その構造の中で、亞浪の精神は「記録されない水脈」として沈んでいったのである。

Ⅲ 私自身が見たもの
私は、亞浪の墓所のある中野・宝仙寺で行われた亞浪五十回忌法要(2001年)に、信之先生の代理として参列した。 法要の記念写真には、私自身が写っている。読経の後、墓参したとき参拝者から、「幸人さんはようやった。」と五十回忌の法要をきちんと執り行ったと褒める声も聞いた。
そしてこの記録を花冠(当時水煙)に記録した。それを読んだ、西垣脩夫人とご子息の通氏の話として、「正子が法要に出席した」ことが話題になったと葉書をいただいた。西垣脩夫妻は小さいお子さんを連れて亞浪先生のお宅を訪問したと言うことも聞いた。
また十年ほど前までは、亞浪の孫である臼田幸人さんご夫妻から年賀状が届き、水煙にお祝金も送られてきていた。
こうした記憶は、俳句史の空白を埋めるための一次資料である。 知らぬふりはできぬ、という思いが静かに胸に残っている。

Ⅳ 精神史としての系譜
亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、 結社史の記述からは消えているが、 その水脈は確かに存在した。私はその末端に立つ者として、 この静かな流れを記しておきたい。

Ⅴ 結語
俳句の系統を明らかにすることに、どれほどの意義があるのか。 亞浪の精神性は、結社が異なっても、俳句の深層に浸透していると言える。 しかし、現状は憂うべき事態であり、俳句がテレビなどで騒々しく扱われる風潮も、精神史の見えにくさに拍車をかけている。

この記録は、私には重荷である。 けれども、俳句精神史の断絶を防ぐために、 ここに静かに記しておく。

亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、
結社史の記述からは消えているが、
その水脈は確かに存在した。
私はその末端に立つ者として、
この静かな流れを記しておきたい。
(髙橋正子)
(2026.9.13 —花冠No.376掲載予定原稿)