『世紀末ウィーンの知の光景』第5章の俳句的示唆

●『世紀末ウィーンの知の光景』
—5章「平安の喜びを告げるある表現」の俳句的示唆

『世紀末ウィーンの知の光景』(西村雅樹著/鳥影社・2017年刊)は、信之先生の本棚にある、著者から贈られた一冊である。遠いと思われるウィーンの文化を、このたび、私自身の身に引き受けて拝読した。ここに記したことは学術的な論ではなく、あくまで私自身の感受したことの随想である。この章を読んだとき、私は俳句の基底にある静かな肯定を思い返した。新しい年の初めに、この静かな「平安の喜び」を胸に置きたい。

世紀末ウィーンの知識人が求めた「平安の喜び」は、俳句の営みとも深く響き合う。著者がウィーン留学で体験した、あの都市特有の光のような文化の豊かさ、その後のまぶしいほどの文化・芸術の体験、そして学問研究の脈絡が静かに息づいている。私はその場を経験することはできないが、著者の歩んだ道筋を著書を通して辿ることで、わずかにその気配に触れられるように思う。

とりわけ最終章の第五章「平安の喜びを告げるある表現」は、俳句を作る者として深く心に迫る章である。それを読んでみたい。

十九世紀末から二十世紀初頭のウィーンは、ハプスブルク帝国の衰退という政治的不安だけでなく、科学・芸術・言語の基盤が揺らぎ、世界そのものが不確かになっていく時代だった。ユダヤ人たちは官職や大学での昇進が反ユダヤ主義的慣行によって妨げられ、芸術・音楽・批評・学問の領域で才能を開花させ、ウィーン文化の新しい層を形づくった。

その不安の時代にあって、アンツェングルーバーの民衆劇に登場する素朴な一言――「おまえには何も起こりえない」(方言で書かれている)――が、哲学者ヴィトゲンシュタインや音楽家マーラー、画家クリムトらの心に静かな明るさをもたらしたという事実は、深い示唆を含んでいる。不安の底にある平安。それは俳句の水脈にも通じるものが感じられる。

世紀末ウィーンの知識人たちが直面した「言語の限界」と「精神の平安」という二つの主題は、ヴィトゲンシュタインの沈黙の思想にも、マーラーの音楽にも、クリムトの絵画にも通底している。それは、生活の言葉から精神の深層へ降りていく俳句の営みとも響き合う。

現代もまた、ITやAIの急速な変化、気候の不安定さなど、危うさを感じる時代である。だからこそ、世紀末ウィーンの知識人たちが求めた精神の緊張を照らす源泉として、民衆的な「平安の喜び」を読み解くことは必要なのではないかと思う。マーラーの演奏回数も増え、クリムトも広く知られ、ヴィトゲンシュタインの沈黙も現代の知として浸透している。この「平安の喜び」は、俳句を作る者にとって大きな意味をもつ。俳句は生活の底にひそむ静かな肯定から生まれる。その肯定の気配は、ウィーンの民衆の言葉と、著者の深い読解から受け取ることができると思える。

(一)ルードウィッヒ・ヴィトゲンシュタインの場合
「語りえぬものについては沈黙しなければならない。」という『論理哲学論』の言葉に魅かれる。この命題に至る前、憂いの状態に陥った彼は、民衆劇の石割り人の「おまえには何も起こりえない」という言葉に解放されたという。高度な抽象的思想の前に、素朴な民衆の「語りうる」言葉に慰められている。多くの人に共通する、人間らしい姿だと思える。

「語りえぬもの」の中には、美、生の意味、世界の感じ方など、俳句でも重要にしているものが含まれている。そして、それは沈黙によって浮かび上がるものなのである。

ヴィトゲンシュタインは彼自身が書いた『論理哲学論』について「二部からなる。ここにあるこの本と、もうひとつ──実際には書かれなかった第二部である。」と言い、その書かれていない第二部の方が重要だと述べている。物理的に存在するものを提示し、より深く、物理的に存在しないものを対置する。この構造と示し方は、私は俳句の本質が通じていると思っている。

(二)グスタフ・マーラーの場合
私が知っている少しのマーラーの作品を思い浮かべても、「マーラーが好き」とはどうしても言えない。それは、神様が好きと言うような、どこかためらいを伴う感覚に近い。圧倒的な音の奔流にさらされるとき、私はこの世で最も遠い場所へ連れて行かれるように感じる。その遠さは、夕焼けの果てのような寂寥を帯びている。悲しみの歌も、今ここにある哀しみを深く歌い、哀しみのまま温かく浄化される気持ちになる。一句俳句ができると気持ちが浄化される(すっきりする)という感覚にも通じる。

著者は、民衆の言葉に安住することが「苦悩の内にある者、絶望の淵に立つ者を顧みない」場合に罪の深さを帯びることがあると述べ、そのことを「思い知る」と書いている。それでもなお、この言葉が、私には信仰に近い明るさを帯びて受け取られと思われる場面を、著者は次の事実から教えてくれている。

1938年、ナチス・ドイツ併合直前のウィーン学友協会大ホールで、ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターが、ユダヤ人作曲家マーラーの交響曲第9番を指揮した演奏である。ユダヤ人の音楽が公の場から排除されるかもしれない状況下で行われたその演奏は、「光へ向かって」というマーラーの言葉とともに、決して感傷的ではない仕方で鳴り響いたと著者は記す。  私には、そこに「おまえには何も起こりえない」と言う明るく平坦な境地が見える。その平坦な境地が、より崇高に思える。

どんな場面にあっても、心の奥に小さな平安を保とうとすること。それは感傷ではなく、状況に屈しない精神の姿勢としての明るさなのだろう。人間の崇高さが、やはり見える。

この書は学術書でありながら、単なる分析を超えた「人間の精神史」として私に響いてくる。そしてまた、信之先生が「人間は理想がないと生きられない」と語ったことも思い出された。

(三)ヘルマン・バールとグスタフ・クリムトの場合
クリムトの『ピアノを弾くシューベルト』は画集で見るので、現存しているものと思っていた。しかし焼失していると知った。この絵はクリムトの画というより、誰か他の個人的な画家の画のように私には思っていた。

この画を評して、オーストリアの作家ヘルマン・バールが述べた言葉が著書に引用されている。私は、つつましさのなかにある優雅さを感じた。

「市民的なつつましさのかもし出すこの静かさ、この穏やかさ、この輝き――これこそ、私たちのオーストリア人の本質だ。私たちのオーストリア的感覚がここにはある。その感覚とは次のようなもの。人間はいかに小さくても、生の途上で遭うどんな嵐によっても消えることのない炎を自分の中に宿している。私たちは、運命に踏み込まれることがありえない聖なるものを、皆それぞれが持っている。嵐がいかに吹き荒れようとも、私たちにはなにも起こりえない。小さな炎は消え失せたりしない。私たちの奥深い価値は、誰によってもとりさられはしない。これが、人生についてのウィーン的感覚だと私が呼びたいものだ。」(ヘルマン・バール)

  『ピアノを弾くシューベルト』の焼失を悼む
焼失の名画や画集に秋の夜 正子

「おまえに何も起こりえない」は、言葉の形を変えてもオーストリア人の生活に流れ伝わっているのだと知った。そして、これほど丁寧にゆるぎなくオーストリア文化を研究され、その精神が俳句を作る者にも響いてくることに、私は著者にあらためて敬意を表したいと思った。

(四)俳句への示唆
劇中人物の石割り人の一言「おまえには何も起こりえない」は、著者が「自分の方言で読み替えてよい」と述べている。私の母語である広島弁なら、「あんたにぁなんも起こったりしゃあせん」となるだろう。生活の場から生まれた言葉が、哲学者や芸術家の精神の核心に届くという事実は、俳句の本質にも通じている。

俳句もまた、生活の言葉を通して精神の深層を照らす短詩型であり、生活の底にある静けさを表現する私たちの俳句は、いまの時代にこそ求められる表現であろう。信之先生の「よい生活から、よい俳句を」という言葉も、この水脈に響き合っている。現代を生きて俳句を作る私たちにとって、この水脈を俳句の根として据えることは、信之先生が「水煙」(現「花冠」)創刊の言葉で掲げた「明るくて深い現代語による俳句を目指す」という理念を、いまの時代の具体的な目標として受け継ぐことになる。
(2026.9.13 花冠 No.376 掲載予定原稿)

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

Ⅰ 俳句史の盲点について
俳句史から亞浪の系統が消えている――この事実に、私は深い衝撃を受けた。 俳句における「中八」をめぐる形式主義の源流を探るうち、藤田湘子の厳格な形式観がどこから来ているのかを辿る過程で、亞浪の弟子・大野林火のあたりから、系統の記述が事実に基づかないものになっていることに気づいたのである。 生年没年さえ誤って記され、臥風の名も、信之の名も、俳句史からは静かに消えていた。

俳句史が「結社史」として書かれがちであることが、この盲点を生んだのだろう。 『旧制松山高校と俳句』(大野岬歩・髙橋信之共著)に詳しく記されているにもかかわらず、亞浪→梵の流れで記述が途切れ、精神の水脈が見えなくなっている。

Ⅱ 系統が消えた理由
亞浪は少数精鋭の俳人であり、結社を大きくすることを望まなかった。 そのため、俳句史の「組織中心の記述」から自然に外れていった。 さらに、弟子であった大野林火が後に虚子へ傾斜したことにより、系統の輪郭が揺らぎ、精神史としての流れが見えにくくなった。
俳句史の記述は、どうしても大きな結社を中心に構成される。 その構造の中で、亞浪の精神は「記録されない水脈」として沈んでいったのである。

Ⅲ 私自身が見たもの
私は、亞浪の墓所のある中野・宝仙寺で行われた亞浪五十回忌法要(2001年)に、信之先生の代理として参列した。 法要の記念写真には、私自身が写っている。読経の後、墓参したとき参拝者から、「幸人さんはようやった。」と五十回忌の法要をきちんと執り行ったと褒める声も聞いた。
そしてこの記録を花冠(当時水煙)に記録した。それを読んだ、西垣脩夫人とご子息の通氏の話として、「正子が法要に出席した」ことが話題になったと葉書をいただいた。西垣脩夫妻は小さいお子さんを連れて亞浪先生のお宅を訪問したと言うことも聞いた。
また十年ほど前までは、亞浪の孫である臼田幸人さんご夫妻から年賀状が届き、水煙にお祝金も送られてきていた。
こうした記憶は、俳句史の空白を埋めるための一次資料である。 知らぬふりはできぬ、という思いが静かに胸に残っている。

Ⅳ 精神史としての系譜
亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、 結社史の記述からは消えているが、 その水脈は確かに存在した。私はその末端に立つ者として、 この静かな流れを記しておきたい。

Ⅴ 結語
俳句の系統を明らかにすることに、どれほどの意義があるのか。 亞浪の精神性は、結社が異なっても、俳句の深層に浸透していると言える。 しかし、現状は憂うべき事態であり、俳句がテレビなどで騒々しく扱われる風潮も、精神史の見えにくさに拍車をかけている。

この記録は、私には重荷である。 けれども、俳句精神史の断絶を防ぐために、 ここに静かに記しておく。

亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、
結社史の記述からは消えているが、
その水脈は確かに存在した。
私はその末端に立つ者として、
この静かな流れを記しておきたい。
(髙橋正子)
(2026.9.13 —花冠No.376掲載予定原稿)