■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

Ⅰ 俳句史の盲点について
俳句史から亞浪の系統が消えている――この事実に、私は深い衝撃を受けた。 俳句における「中八」をめぐる形式主義の源流を探るうち、藤田湘子の厳格な形式観がどこから来ているのかを辿る過程で、亞浪の弟子・大野林火のあたりから、系統の記述が事実に基づかないものになっていることに気づいたのである。 生年没年さえ誤って記され、臥風の名も、信之の名も、俳句史からは静かに消えていた。

俳句史が「結社史」として書かれがちであることが、この盲点を生んだのだろう。 『旧制松山高校と俳句』(大野岬歩・髙橋信之共著)に詳しく記されているにもかかわらず、亞浪→梵の流れで記述が途切れ、精神の水脈が見えなくなっている。

Ⅱ 系統が消えた理由
亞浪は少数精鋭の俳人であり、結社を大きくすることを望まなかった。 そのため、俳句史の「組織中心の記述」から自然に外れていった。 さらに、弟子であった大野林火が後に虚子へ傾斜したことにより、系統の輪郭が揺らぎ、精神史としての流れが見えにくくなった。
俳句史の記述は、どうしても大きな結社を中心に構成される。 その構造の中で、亞浪の精神は「記録されない水脈」として沈んでいったのである。

Ⅲ 私自身が見たもの
私は、亞浪の墓所のある中野・宝仙寺で行われた亞浪五十回忌法要(2001年)に、信之先生の代理として参列した。 法要の記念写真には、私自身が写っている。読経の後、墓参したとき参拝者から、「幸人さんはようやった。」と五十回忌の法要をきちんと執り行ったと褒める声も聞いた。
そしてこの記録を花冠(当時水煙)に記録した。それを読んだ、西垣脩夫人とご子息の通氏の話として、「正子が法要に出席した」ことが話題になったと葉書をいただいた。西垣脩夫妻は小さいお子さんを連れて亞浪先生のお宅を訪問したと言うことも聞いた。
また十年ほど前までは、亞浪の孫である臼田幸人さんご夫妻から年賀状が届き、水煙にお祝金も送られてきていた。
こうした記憶は、俳句史の空白を埋めるための一次資料である。 知らぬふりはできぬ、という思いが静かに胸に残っている。

Ⅳ 精神史としての系譜
亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、 結社史の記述からは消えているが、 その水脈は確かに存在した。私はその末端に立つ者として、 この静かな流れを記しておきたい。

Ⅴ 結語
俳句の系統を明らかにすることに、どれほどの意義があるのか。 亞浪の精神性は、結社が異なっても、俳句の深層に浸透していると言える。 しかし、現状は憂うべき事態であり、俳句がテレビなどで騒々しく扱われる風潮も、精神史の見えにくさに拍車をかけている。

この記録は、私には重荷である。 けれども、俳句精神史の断絶を防ぐために、 ここに静かに記しておく。

亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、
結社史の記述からは消えているが、
その水脈は確かに存在した。
私はその末端に立つ者として、
この静かな流れを記しておきたい。
(髙橋正子)
(2026.9.13 —花冠No.376掲載予定原稿)

 


コメント

  1. 徳毛 あさ子
    2026年9月14日 5:51

    「俳句精神史の盲点に触れるための覚書」執筆日が2023 9 13となっています。

    • 髙橋正子
      2026年9月14日 11:10

      あさ子さんありがとうございます。訂正しました。

  2. 徳毛 あさ子
    2026年9月14日 14:11

    2026の6が全角になっています。そのほかは半角です。