曇り
中秋の月の下なり曼殊沙華 正子
中秋の月を刷きつつ雲流れ 正子
中秋の月の上がれば雨気はう 正子
虫の音のことに澄むなり菊匂い 正子
●以前には、Facebookと言っていたメータの更新情報がパソコンの右下のポップアップに届く。めったに見ないが、今朝は見た。気になったのは、今大御所と言われる俳人の句について、違和感を覚えた。それは「軽さ」についての疑問である。
これから書くことは、「俳句」を芸術と考えるか、そうでないと考えるかで、コミットは変わってくる。芭蕉を尊敬すれば、俳句を芸術と考えることになる。その立場から言えば、現代俳壇の「軽さ」俳句的には「軽み」と言われることは、それが、軽妙さではなく俗化の寄っているのではないかということを感じている。精神の軽さ・俗語の軽さ・日常会話の軽さに傾いている。
原因と思えることは、多くはない。表面的にはいろいろあるが、それは基本的には一つのことに原因があると思える。句会受け、わかりやすさへの過剰な迎合など、「軽さ」美学ではなく「浅さ」になっている。
なぜ、俗っぽくなるか。
句会中心の文化で共感、受けが優先される。俳句人口の拡大で、言語訓練がない層が多数になり、多数決の気分がある。趣味の共同体となり芸術性が後退した。評論の質が落ちている。言語の高さを評価する回路が百大家している。俗語が新しい、面白い、と評価される。このようにした、俗っぽさが軽さになっている。
60年俳句を作って見てきた世界は、こうも変わったと言う気持ち。こうなれば、私は現俳壇とは関係ありませんとなるのも仕方がない。俳句は最後は「軽み」を目指しているが、それは、深い精神性にささえられていないと、軽くならない。浅いまま。深い精神性は、物事をわざとずらして詠むことは含まない。
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