NEW「リルケと俳句と私」(五)

「リルケと俳句と私」(五)
                                  高橋正子  

「リルケと俳句と私」を書き始めて五回目となった。リルケについては、信之先生の遺したインゼル書店の『リルケ作品集』に風を通すために開いたのが切っ掛けで、気の向くときに読むようになった。リルケを遠ざけていた私が、このごろでは、リルケを考えない日がないくらい、何かしらリルケについて考えている。             考えると言っても、「マルテが部屋に忍び入り、オシドリの置物を割ってしまう。そしてオシドリの羽色の中から、紫のかけらを拾う。」その場面を思い、紫を拾わせたリルケの美的感覚に感心したり、「詩は感情ではなく、人生の経験で書くものだ」という言葉を思い出すぐらいである。
それが、信之先生が亡くなったあとの精神を、倒れないようにまっすぐ立てる支えとなっている。それはリルケに精神を貰っていると言ってもいいものなのだ。「リルケと俳句と私」も、いつまで書こうという計画もなくて、知らない世界に踏み込んでしまった。畏れ多い気持ちではあったが、初期の作品を読んでみると、プラハを詠んだ詩であるにもかかわらず、言い得ぬ懐かしさを覚えた。そして、私なら、この場面ではこの俳句ができるという気持ちになり、一二句作った。それはたのしい経験であった。それに、「詩返」と名付けて、リルケの詩に応えた俳句を作り始めた。リルケ最晩年の詩集『ヴァレの四行詩』は、俳句を意識して作った詩だと言われ,関心をもった。前回書いたが、詩の主体が後景に引いた俳句の要素をもつ詩法で書かれている。この詩法は、俳句を知る以前からリルケが使っている詩法ではあるが。

今回採り上げるのは、25番の詩である。『ヴァレの四行詩』(フランス語)には、片山敏彦による完成された美しい訳がある。その訳詩は著作権の関係で、詩返を書くとき引用できない。私の訳は、詩返のための訳であって、リルケの言葉の呼吸と気配に触れるために、日本語の美学よりも原詩の側をあえて優先した訳である。その良さと言えば、多少の透明感かもしれない。25番は三連からなっている。詩返も一連ごとに作ったので、それをこれから見てゆきたい。

詩返1 銀と青をふくみ真夏の草埃    正子

詩返2 ひるがえる柳裏葉のあかるさは  正子

詩返3 葉桜の中に石手の古き塔     正子

 

 25 

埃っぽい道に沿って
緑は灰いろへ近づく。
けれどその灰いろは、従順そうでも、
銀と青とを含んでいる。

さらに高く、ひとつの別の層に、
一本の柳が明るさを見せ、
風に翻ったその葉たちの裏側を
緑にほとんど近い黒の前に 見せている。

そのそばに、抽象そのものの緑、
まなざしのうちの淡い緑が、
見捨てられた背景の深みに、
世紀がときほぐす塔を囲んでいる。
                   (高橋正子訳)

25

Le long du chemin poussiéreux
le vert se rapproche du gris;
mais ce gris, quoique soumis,
contient de l’argent et du bleu.

Plus haut, sur un autre plan,
un saule montre le clair
revers de ses freuilles au vent
devant un noir presque vert.

À côté, un vert tout abstrait,
un pâle vert de vision,
entoure d’un fond d’abandon
la tour que le siècle défait.  

第1連から見ていくと、「埃っぽい道に沿って」「緑は灰いろに近づく」「その灰いろは従順そうでありながら」「銀と青を含んでいる。」
具体的な風景は「埃っぽい道」が示されているだけで」その道から読者はその道の風景の暗示を受ける。そして、灰いろに近づく緑を思う。その緑は色としての緑で、具体的な木の緑、草の緑を示しているのではない。そして、その灰いろはと言えば、従順な灰いろではなく、つまり、灰いろそのままに見えるが、そうではなく意志あるように、銀と青を含んでいる。
 私は、ここから、埃っぽい夏の白けた道を思い描いた。そして道脇の草に積もる粉のような埃を思った。埃の積んだ道端の草の葉は、緑が灰いろになり、その灰いろは、光を帯びて銀いろで、草の緑の生命力というのであろうか、青が目に入ってくる。
詩返1 銀と青をふくみ真夏の草埃    正子
私は60年の俳歴なかで、夏草の葉に積もる埃を詠んだことはこれまでない。それが、この詩の気配から、草埃がイメージとしてすぐに立ちあがったのだ。田舎の道でよく目にしていたからであろう。
 リルケは、色がどのように変質し、どのように他の色を孕み、どのように気配として立ち上がるか、その抽象的な運動だけを提示しているのである。その抽象性から「埃っぽい道にそって」という少しの手掛かりで、私は、私の具体的な風景を呼び寄せたのである。それが、詩返1である。

次に第2連を読んでみたい。
「さらに高く、ある別の層に」「一本の柳が明るさを見せ」「風に翻ったその葉たちの裏側を」「緑にほとんど近い黒の前に見せている」
ここに読まれた景色は、ある別の層に、一本の柳が明るく立って、風に葉の裏側を見せている。その裏葉は、緑に触れそうなくらい近い黒の前に見えているのだ。この解釈から詩返2を作った。
詩返2 ひるがえる柳裏葉のあかるさは  正子
詩返で言語化されていない部分は、「緑にほとんど近い黒の前に示している」である。これは、俳句の余白、沈黙の部分から読み手に読みとってもらうことになる。「あかるさは」の「は」の言い淀んだ後の省略を読んでもらいたい。この「は」に、原詩の「黒の前に示している」をすべて引き受けさせている。
第2連で問題となるのは、直訳すれば、「もっと高く」「ひとつの別の層に」の部分である。これは、具体的な景色ではない。目を瞑って見る、「さらに高い位置にある別の層」である。これを、どのように受けとるかで、詩の方向が変わってくる。片山敏彦訳では、「層」は具体的な「丘」となっている。当時の象徴主義の解釈と日本語の詩の美学で「丘」の訳となったのであろう。片山敏彦訳は完成された訳であるが、私は詩返のために、リルケの気配に触れるために、直訳に近い方を選んだ。つまり情緒が薄くなり、詩の厚みが少し減ってくる。その代わり、言葉が軽くなる。軽さは必ずしも内容が薄いというわけではなく、抽象化による変質と私は思っている。「さらに高く、ひとつの別の層に」によって、詩はさらに抽象化されたのである。
視線がわずかに持ち上がると、世界はひとつ上の層へずれる。視線の位置が変わることによって、世界の層がひとつ上にずれるという、リルケ特有の抽象的な空間の移動である。ドイツ語の訳で確認すると、私が「層」と訳したところを「Ebene」という語を使っている。この言葉は、基本的には「平らな面」「層」「レベル」という意味である。

では、第3連を読んでみたい。
「そのそばに」は、第2連の情景のそばにである。そのそばに「抽象そのものの緑」がある。これは直訳すれば、「抽象的な緑」である。何ら具体的な、木々や草の葉、芝の緑、緑の丘、緑の絵の具などは指さない。抽象的な緑をどのようにして思えばよいのか。思いつかないが。「まなざしのうちの淡い緑が」は、「視界に入った目のなかの淡い緑が」である。これは具体物から入った目の中の淡い緑である。具体物ではない。「見捨てられた背景のもとに」は、「見捨てられた」、つまり人の手がもはや触れない、背景のをもとにして、という意味になる。この「背景」はフランス語では「fond」であるが、多層的な意味を持っていて、日本語、英語、ドイツ語のどの一語に置き換えるもの難しい。リルケの詩には、他の言語に置き換えるのが難しい単語が、詩の要として使われている。ここがリルケの詩の訳の難しいところだと思える。

「世紀がほどいてゆく塔を囲んでいる」は、現実の古い塔が、世紀の時にしずかに壊れていくということで、実景として読めるだろう。が、それを囲むのは、抽象の緑や、視界の中に生まれた淡い緑である。抽象画の世界に、一つ具体的に見えるものがある。その具体物は、何世紀もの時代によってしずかに崩壊されているものの象徴である塔である。

今回の私の訳は、抽象を抽象のまま保持して訳そうとしたため、困難を極めたと言ってよい。七月に、「花冠」七月号を西村雅樹先生にお送りするなかに、翻訳についての先生のお考えを暗にお聞きする手紙を入れた。先生はそれを見落とされず、翻訳についてのご返事をくださった。それから、三か月の間、猛暑のせいもあるが、いっこうに翻訳が進まずにいた。七月には一旦、翻訳はできていた。それから九月の終わりに訳詩を手直した。その訳と七月の訳を比べると、問題はあるが、七月の訳の方がすっきりしている。なぜ、九月の訳がすっきりしないのか。自分の迷いが見て取れた。訳をあきらめようとも思ったが、少し思い直し、一旦25番の翻訳から離れようと思った。

十月四日、四季の森に散策にでかけた。長雨が三十数日ぶりにあがり、晴れた日の翌日だった。秋の野の風や光の静けさ、釣舟草やそこに寄る蜂や蜻蛉のかがやきがあった。音楽にも、絵にも例えることのできない静かさに浸ることができた。信之先生と来たときよりさらに静かな眩しさがあった。小川の水は草を潜って音を立てて、しずかに池に流れ込んでいた。池のあめんぼうは、水輪をうすうすと一メートルくらいも広げていた。
その夜、早い夕飯を終えて、25番の詩を訳した。自分には自分の訳しかできないが、もう、迷わないで、それでいいと思ったのだ。それが、今回の訳詩である。
 『ヴァレの四行詩』のなかでも25番は、他の詩と比べ特異である。色が抽象的に詠まれている。これは色が存在論的な意味を持っているからだと考えられる。色を深く見つめた結果の色の存在であろう。『マルテの手記』は散文であるが、リルケの「色」は随所に出て来る。色が光を含み澄み透った命のあるような色として私には読める。それがリルケの色の感覚であろうと思う。
吾亦紅枯れて枯の紅しんと 正子
 この句は、翻訳の途中に、里山の「四季の森公園」に散策に出かけた時の句である。吾亦紅の咲く季節は過ぎていた。吾亦紅は茎を倒し、奥ゆかしい沈んだ紅色の楕円珠の花はすでに枯れていたが、わずかに紅の気配が山の翳りに残っていた。その色を詠んだ句である。どんな印象をおもちになるだろうか。
(2026年10月5日)

消えない炎──世紀末ウィーンからの俳句的示唆

「消えない炎」
──世紀末ウィーンからの俳句的示唆

俳句を作っていると、俳句は日本の精神の深いところから生まれた、独特の詩のかたちだと思うかもしれない。西洋とは、遠い場所にあるように感じられることもあるかもしれない。しかし、西洋の詩や小説、エッセイなどを読むと、人間には通底するものがあることに気づかされ、思いがけない驚きに出会うことがある。

 信之先生の本棚に『世紀末ウィーンの知の光景』(西村雅樹著/鳥影社/2017年刊)が今も静かにある。著者から贈られたものだが、このたび読み、遠いウィーン文化の精神に静かに触れた。著書の広大な文化史的射程──建築・都市文化・ジャポニズム・ユダヤ系知識人の位置──まで深く読み解くには私の力の及ばぬ領域もあるが、第5章に登場する人々への言及から、俳句とは結びつけていない著者の記述にも、私は俳句的示唆を受けた。俳句の生まれる前に、宗教ではないが祈りのような体験が、世紀末ウィーンの知識人や芸術家の人々にあったことを知ることにもなった。

 十九世紀末のウィーンは、政治的不安と精神的揺らぎの時代であり、言語・芸術・学問の基盤が揺らいでいた。そのただ中で、民衆劇の石割り人の一言「おまえには何も起こりえない」(方言で言われている)が、ヴィトゲンシュタイン、マーラー、クリムトらの心に静かな明るさをもたらしたという事実は、深い示唆を含んでいる。この「おまえには何も起こりえない」は、オーストリアで広く言われてきた民衆の言葉だという。

ヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という思想に至る前に、民衆の言葉「おまえには何も起こりえない」が彼を憂いから解放したという事実は、深い示唆を含んでいる。この言葉が彼の深層に静かな明るさをもたらしたのである。

その後に彼がたどり着いた沈黙の思想は、俳句の沈黙ともどこか響き合う。俳句の沈黙は、言語の内側に余白を生み、気配として立ち上がる。一方、ヴィトゲンシュタインの沈黙は、言語の限界の外側にあり、言葉で言い得ない世界を指し示す。位置は異なっても、言語の外側にある価値を静かに尊重する姿勢は共通している。

少し詳しく言えば、俳句の沈黙は余白を生むためのものであり、省略と間を含み、言語の内側での沈黙という処理である。美について語るとき、私たちが言えるのは、美をめぐる経験や印象、かたちのことだけであって、‘絶対的な美そのもの’は、言葉では言い表せない。ヴィトゲンシュタインの沈黙は言語の限界の外側にあり、言葉で言い得ない世界のことを沈黙と呼ぶのである。ともに、沈黙の意味が重要なのである。

そして、また、この民衆の言葉は、音楽家にも及んでいる。マーラーの音楽には、圧倒的な響きの奥に小さな灯りがある。
著者が記す1938年、ユダヤ人のワルター指揮によるユダヤ人マーラーの第9番の演奏は、二か月後にオーストリアがナチス・ドイツに併合されるという迫りくる危機の中でも、決して感傷的にはならず、「光へ向かって」という精神を示した演奏だったという。そこに石割り人の「何も起こりえない」という平安の境地が重なると言う。どんな状況でも心の奥に小さな平安を保とうとする姿勢は、人間の崇高さを示すものだと言えよう。

それから画家や、作家にもこの言葉の精神がある。
クリムトの『ピアノを弾くシューベルト』の画をめぐって、作家ヘルマン・バールの言葉が引用されている。それはオーストリアの精神を示すものであるが、一枚の画への感受は、俳句を作る、東洋人の私自身にも「つつましさ」という点において、そのまま当てはまると感じられた。著者が引用したバールの文章は次のようである。

「市民的なつつましさのかもし出すこの静かさ、この穏やかさ、この輝き――これこそ、私たちオーストリア人の本質だ。私たちのオーストリア的感覚がここにはある。その感覚とは次のようなもの。人間はいかに小さくても、生の途上で遭うどんな嵐によっても消えることのない炎を自分の中に宿している。私たちは、運命に踏み込まれることがありえない聖なるものを、それぞれが持っている。嵐がいかに吹き荒れようとも、私たちには何も起こりえない。小さな炎は消え失せたりしない。私たちの奥深い価値は、誰によっても取りさられはしない。これが、人生についてのウィーン的感覚だと私が呼びたいものだ。」(ヘルマン・バール)

 『ピアノを弾くシューベルト』の焼失を悼む  
焼失の名画や画集に秋の夜 正子

人間の奥に宿る小さな炎を見つめるまなざしは、俳句が照らしてきた精神の静けさとも響き合う。

終わりに。
石割り人の劇中の言葉「おまえには何も起こりえない」(元はオーストリアの方言)は、平安の心をもたらしはするが、著者はさらに深く、それに安住して傍の苦悩の人の存在が目に入らない場合の罪深さを語っている。そのことはあるであろう。他者の小さな炎に気づくことを忘れては、ならない。
 そして、また、著者は「自分の方言で読み替えてよい」と述べている。私の故郷の広島弁なら「あんたにぁなんも起こったりしゃあせん」となるだろう。このように言われた時の気持ちを想像してみるといいと思う。胸の奥でふっと力が抜けるような気持になるかもしれない。

生活語が精神の深層へ届くという構造は、俳句の営みそのものだ。信之先生の「よい生活から、よい俳句を」という言葉も同じ水脈にある。わかりやすく、「よい生活をすれば、よい俳句ができる」を信じれば、よい句ができるという点で、どこか祈りのような響きを帯びている。実際、この言葉を深く信じていると、私に伝えてくれた人もいた。そして信之先生は「人は理想がないと生きられない」とも言っていた。「理想」は大きなものでなくても、明日があるということである。人間の尊厳としての消すことのできない命の小さな炎が、だれにもあるということである。そして、日々の生活の、生活の基底にある「世界の静かな肯定」を言葉に託すこと──それが、いま私たち花冠の俳句に求められる平安のかたちなのだろう。

(2026.9.25 花冠 No.376 掲載予定)

 

 

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

Ⅰ 俳句史の盲点について
俳句史から亞浪の系統が消えている――この事実に、私は深い衝撃を受けた。 俳句における「中八」をめぐる形式主義の源流を探るうち、藤田湘子の厳格な形式観がどこから来ているのかを辿る過程で、亞浪の弟子・大野林火のあたりから、系統の記述が事実に基づかないものになっていることに気づいたのである。 生年没年さえ誤って記され、臥風の名も、信之の名も、俳句史からは静かに消えていた。

俳句史が「結社史」として書かれがちであることが、この盲点を生んだのだろう。 『旧制松山高校と俳句』(大野岬歩・髙橋信之共著)に詳しく記されているにもかかわらず、亞浪→梵の流れで記述が途切れ、精神の水脈が見えなくなっている。

Ⅱ 系統が消えた理由
亞浪は少数精鋭の俳人であり、結社を大きくすることを望まなかった。 そのため、俳句史の「組織中心の記述」から自然に外れていった。 さらに、弟子であった大野林火が後に虚子へ傾斜したことにより、系統の輪郭が揺らぎ、精神史としての流れが見えにくくなった。
俳句史の記述は、どうしても大きな結社を中心に構成される。 その構造の中で、亞浪の精神は「記録されない水脈」として沈んでいったのである。

Ⅲ 私自身が見たもの
私は、亞浪の墓所のある中野・宝仙寺で行われた亞浪五十回忌法要(2001年)に、信之先生の代理として参列した。 法要の記念写真には、私自身が写っている。読経の後、墓参したとき参拝者から、「幸人さんはようやった。」と五十回忌の法要をきちんと執り行ったと褒める声も聞いた。
そしてこの記録を花冠(当時水煙)に記録した。それを読んだ、西垣脩夫人とご子息の通氏の話として、「正子が法要に出席した」ことが話題になったと葉書をいただいた。西垣脩夫妻は小さいお子さんを連れて亞浪先生のお宅を訪問したと言うことも聞いた。
また十年ほど前までは、亞浪の孫である臼田幸人さんご夫妻から年賀状が届き、水煙にお祝金も送られてきていた。
こうした記憶は、俳句史の空白を埋めるための一次資料である。 知らぬふりはできぬ、という思いが静かに胸に残っている。

Ⅳ 精神史としての系譜
亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、 結社史の記述からは消えているが、 その水脈は確かに存在した。私はその末端に立つ者として、 この静かな流れを記しておきたい。

Ⅴ 結語
俳句の系統を明らかにすることに、どれほどの意義があるのか。 亞浪の精神性は、結社が異なっても、俳句の深層に浸透していると言える。 しかし、現状は憂うべき事態であり、俳句がテレビなどで騒々しく扱われる風潮も、精神史の見えにくさに拍車をかけている。

この記録は、私には重荷である。 けれども、俳句精神史の断絶を防ぐために、 ここに静かに記しておく。

亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、
結社史の記述からは消えているが、
その水脈は確かに存在した。
私はその末端に立つ者として、
この静かな流れを記しておきたい。
(髙橋正子)
(2026.9.13 —花冠No.376掲載予定原稿)

 

俳句の「種まき」と「深まり」についてのメモ

俳句の「種まき」と「深まり」についてのメモ

俳句には「種まき」と「深まり」という二つの営みがある。両者はともに俳句の未来を支える活動でありながら、その役割は異なる方向を向いている。

【種まきの意義】
「種まき」とは、俳句を広く社会に伝え、俳句に親しむ人を増やす営みである。俳句教室の開設、SNSでの発信、初心者向けの入門書、投句イベントや大会などは、その代表的な例であろう。これらは俳句の裾野を広げるために欠かせない活動であり、新しい作者や読者との出会いを生み出している。

【深まりの意義】
一方、「深まり」とは、俳句という文学の質と高さを育てる営みである。推敲の精度を高めること、言語の純度を磨くこと、季語の本義を深く理解すること、観照を深めること、結社誌で丁寧な選と評を積み重ねることなどは、俳句の文化的な中心を支える重要な営みである。「種まき」が裾野を広げる仕事だとすれば、「深まり」は山の高さを保つ仕事と言えるだろう。

もちろん、この二つは本来対立するものではない。裾野が広がることは山を支える基盤となり、深い作品が生まれることは新しい人々を俳句へ引き寄せる力にもなる。しかし現代の俳句界では、「種まき」の必要性が強く意識される一方で、「深まり」を支える場については、十分に論じられる機会が少なくなっているように思われる。俳句の評価が、作品そのものだけではなく、一般社会の倫理的価値観とも重なって語られる場面が増えているようにも感じられる。結社の高齢化、総合誌の縮小、選者や批評の場の減少などは、その一つの表れではないだろうか。

俳句人口が減少すると、推敲や批評を通して作品を鍛える環境は次第に痩せていく可能性がある。その結果、作品全体の水準を維持することは容易ではなくなる。しかしその一方で、少数であっても俳句を生涯の仕事として追究する作者は、かえって表現の純度を高めていく可能性がある。

文学史を振り返れば、このような現象は決して珍しくない。近代詩もまた、少数の詩人たちの言葉への厳しい探究によって新しい表現を切り開いてきた。俳句もまた、その例外ではなく、芭蕉の俳諧も、子規の写生も、多くの作家による言葉への厳しい探究の中から生まれてきた。新しい表現は、読者の多寡よりも、少数の創作者による深い探究から生まれることが多い。

では、「深まり」とは何を深めることなのか。
私は、その深まりを支えるもっとも重要な要素の一つが「静けさ」であると考えている。
俳句の静けさは、単なる雰囲気ではない。余白、間、省略、観照、そして言葉の純度が結晶した状態である。言葉を削り、説明を退け、沈黙の中に意味を立ち上げるところに、俳句独自の構造がある。

【静けさとは何か】
静けさとは、俳句の文学性を支える中心なのである。俳句は十七音という極めて短い形式でありながら、その中に季語、切れ、余白、観照、内的風景を凝縮することで、「短さ」を「深さ」へと転化してきた文学である。深まりがなければ、その短さは単なる簡潔さに終わる。

【観照の深まり】
また、俳句は自然を写すだけの文学ではない。自然を通して自己を照らす文学である。観照とは、対象を見ることではなく、見ている自分自身の心の深さを問い続ける営みでもある。観照が深まれば、作品もまた自然に深まっていく。

【季語の文化的記憶】
季語もまた、単なる季節の言葉ではない。長い時間をかけて育まれてきた日本語の文化的記憶であり、多くの人々の自然観や感性が蓄積された言葉である。その豊かさに応えるためには、作者自身の言語感覚や自然への理解も深められなければならない。

【余白の働き】
さらに、俳句は書かれた言葉以上に、書かれなかった余白によって支えられている。浅い余白は空白に終わるが、深い余白は沈黙となって読む者の心に働きかける。その沈黙こそが、俳句の静けさを生み出している。

【俳句人口と文学性】
俳句人口が減少しても、俳句の高さが保たれている限り、俳句という文学は生き続けるだろう。反対に、人口が増えたとしても、深まりが失われれば、俳句はその固有の文学性を次第に失ってしまうおそれがある。

文学の歴史を見れば、文化を長く支えてきたのは、量だけではなく質への絶えざる探究であった。その意味で、俳句もまた、「種まき」と「深まり」の両方を必要としている。

私は、俳句の未来は、この二つの営みの均衡の上に築かれると考えている。裾野を広げる努力とともに、俳句の文学性を支える深まりを育て続けること。それこそが、俳句が未来へ受け継がれていくための条件ではないだろうか。

【作品で示すことの倫理】
このメモは、俳句を文学として未来へつなげることを第一の関心としている。そのため、俳句を社会的効用によって評価する立場とは、視点を異にするものである。こうしたことは、本来、創作者が理念として論じるよりも、作品そのものによって示すべき種類の問題である。創作者は、作品で語るほかない。
2026年7月25日

 

 

●随想「俳句の中心が痩せるとき」

●随想「俳句の中心が痩せるとき」

 総合俳誌「俳句界」(文學の森)に送った花冠七月号(No.375)が、宛先不明で返送されてきたのは、発送して八日目のことである。前号までは届いていたので不審に思い調べると、会社の倒産により四月で廃刊となっていた。「俳壇」の倒産理由の一つに俳句人口の減少が挙げられている。これは一誌の廃刊という事実にとどまらず、俳句界全体の構造変化を示す出来事でもあると思える。

 これで総合俳誌は「角川俳句」「俳壇」「俳句四季」の三誌となった。ここまで数が減ると、俳句界の構造が歴史的転換点に来ていると判断してよいだろう。角川『俳句年鑑』に記録される俳誌数は二十年で三百誌減少している。二〇〇六年には八三五誌あったものが、二〇二五年には五三九誌である。主宰の高齢化と後継者不在、会員数の減少が主な理由とされる。

 私自身、信之先生から「水煙」を引き継ぎ、誌名を「花冠」に変更した。会員数は創刊当初や最盛期に比べると、かなり減少している。現在活動している会員は、二十年から三十年以上在籍している人がほとんどである。編集作業はすべて私が担い、経営的にはぎりぎりの線で持ちこたえている。それでも廃刊にはせず、誌面の充実を優先してきた。創刊時の月刊から、今では年二回の発行となったが、ページ数は増え、会員からは「俳誌とは思えない充実と高さがある」と言われている。多くの結社誌が会員作品の発表や添削、吟行や大会の報告を中心とする中で、花冠は作品発表や句会報告、随想や俳句日記を掲載しているが、誌面の中心には常に俳句そのものの精神性が据えられている。その違いが、こうした感想につながっているのだろう。

 総合俳誌は、俳句界全体を俯瞰し、作品・批評・ニュース・新人育成を一冊に統合する「俳句界の公共インフラ」としての役割を担ってきた。作品の現在性の提示、批評・時評による俳句界の思考形成、公共性と記録の維持――その三つが総合誌の核である。弱体化は、とりもなおさず、これらの弱体化である。

 では、総合俳誌や結社誌の減少は俳句の衰退なのか。 そう単純には言えない。いま俳句は、SNS俳句、アプリ俳句、オンライン句会、ライブ形式の一日俳句教室、自治体や企業が行う俳句大会、あるいは俳句を「若年層の競技文化」としての教育への利用があり、俳句人口はむしろ広がっている。しかし、「俳壇」の倒産理由の一つに俳句人口の減少が挙げられている。一方で俳句人口の減少が言われ、もう一方で俳句人口の広がりが言われる。この矛盾は、俳句の中心が充実していないことを示している。その一端には、SNS俳句や俳句甲子園のように、俳句を即時性や競技性で評価する社会のまなざしがある。ここでその詳細に立ち入る必要はない。問題は、個々の現象ではなく、俳句の評価軸そのものが変質しつつある点にある。

 衰退しているのは俳句の本質となる中心部分であり、広がりは俳句の変化として受け止めるべきである。私は、俳句は本来、観照、静けさ、精神性、季語の本義、内的風景といった精神の文学であると思っている。俳句は多様であっていいが、核となるべきところは守られるべきと考えている。
 SNS俳句は五七五の形式を保ちながら、生活の即時性を重視する傾向があるが、花冠はオンライン句会という方法を取りながら、俳句の精神性を守っている。創刊者で、インターネット俳句を先駆けた髙橋信之の『インターネットと俳句』の論文に、すでに、俳句とインターネットの関係が論じられている。
 そして、花冠は、四十三年の俳句活動の持続がある。「明るくて深い現代語による俳句、よい生活からよい俳句を」という信之の高さと、臥風の「細く長く」という精神の持続性を同時に抱えた結社精神がある。その結社精神を守ることが、俳句本来の精神性を守ることにつながっていると思っている。

 花冠は大きな結社ではないが、歴史と精神の高さがある。そして、俳句の本質を守ろうとする志は、臥風、信之へと細く長く受け継がれてきた。俳句界の中心が痩せつつある今、その小さな営みもまた、未来へ受け渡すべき一つの仕事であると信じている。世の中の俳句の趨勢におされ、俳句の本質と精神を守り育てることは、容易な道ではない。静かな困難を抱えている。しかし、その困難こそが、花冠俳句の精神を磨き続けている。
2026年7月20日

 

 

三つの風景

★三つの風景 ― 髙橋正子★
カナリヤ弾む七草粥を食ひをれば   臥風
ネクタイ吊るタンスの中も秋の空気  信之
水に触れ水に映りて蜻蛉飛ぶ     正子

三句は、日常を詠んでいるが、「情緒」「生活」「自然(現象)」という三つの相の句である。
【臥風】カナリヤや七草粥といった生活の情緒をとらえ、そこにほのかな抒情を見いだした一句。
【信之】ネクタイやタンスという、日常の場で季節と生活の触れ合う瞬間を描き、生活の実感を詠んだ一句。
【正子】蜻蛉が水に触れ、水に映る、その一瞬に生まれる光と動きの重なりを受け取り、自然がふっと姿を現す瞬間をしずかにとらえた一句。
(花冠No.375 7月号・コラム)

 

多田有花句集「序」

多田有花句集
序
有花さんの生活には、つねに動きがある。
海外から国内へ、あるいは近隣の寺社を訪
ねる小さな旅まで、その動きは絶えない。
そのたびに視点は新しくなり、風景の捉え
方が変わっていく。移動は、有花さんにと
って生活そのものであり、句の新鮮な把握
へとつながっている。この歩みが続くかぎ
り、視点は澄み、確かな観察が結晶して句
となる。
その動きの中でも、とりわけ初期の登山の
句には、有花さん独自の体験が息づいてい
る。一見、淡々とした写生句に見えても、
その背後には、危険に備える緊張や、自然
に身を置く潔さが静かに漂う。これらの句
は、山岳という厳しい環境を背景にしなが
ら、過不足なくその瞬間を掬い上げており、
俳句史的に見ても貴重な作品であることに
違いないだろう。また、それらを過不足な
く表現するのが、有花さんの持ち味である。

たとえば、次のような句である。

レーニア山バックパッキング
雪渓を落ちる流れの音高し
短夜やテントの外に明けていく

ケニア山・キリマンジャロ
サングラス空と氷河を映しけり
呼び交わすガイドの声や月明り

シュバルツバルト紀行
秋薊アルプス遠くかすみおり

シャモニ・モンブラン
ブルーベリー摘みつつ高きに登りけり

ヴァレー・ブランシュ氷河トレッキング
秋天はるかマッターホルンの影

モンテローザ登山
秋オリオン仰ぎてザイル結びけり

富士山頂俳句リーディング
富士山頂風に我が句を唱えけり
花束を持ちて夏野を帰り来る

白馬岳登頂
両腕に日焼けが留む山の色

北八ヶ岳縦走
秋澄むや明日踏む峰を指させり
秋の暮窓に寄り添い日記書く

大山登山
寒晴れや真白き尾根を風が研ぐ

登山の句に見られる確かな観察は、旅の広
がりの中でも変わらない。有花さんは自転車
やバイクで日本各地を旅し、その体験は多彩
で豊かである。

東北自転車旅行
十和田湖の水の碧さや蕗のとう

長崎・天草自転車旅行
頬を打つみぞれのやんで海見える

西国三十三か所バイク巡礼
山若葉抜けて琵琶湖の光りけり
大塔の礎石の上を夏の蝶

南四国自転車旅行
明けてくる水平線や秋怒涛

中国地方バイクツーリング
爆心にいまふたたびの若葉風

九州一周バイクツーリング
具雑煮を食べる島原薄暑かな

こうした旅の句と同じ眼差しは、日々の生活
にも静かに息づいている。普段の生活において
も、自分の人生をまっすぐに生きる明るさと力
強さがあり、自然を見る目に誇張がなく、確か
さがある。そのまなざしが率直に句へと結ばれ
ている。

いくつか紹介しよう。

インラインスケート春の弧を描く
光る風追い越したくてペダル踏む
畑より両手に熱き真桑瓜
家中の鏡拭きあげ冬に入る
桜湧くヘッドライトへ次々と
花菖蒲切りて高さを生みにけり
聴診器ことりと置いて冴返る

旅と日常、そのどちらにも揺るぎない眼差し
を向ける有花さんの句は、読む者に新鮮な風を
運んでくれる。本句集が、その豊かな世界への
案内となれば幸いである。

2026年6月
髙橋正子

詩集『帰還』序

序
春浅い日、私は少し長い手紙をいただいた。リルケの短い詩に応じて私が作った俳句が、深く心に触れたという。その言葉にふれ、私はそれを真実として受け止めた。リルケの詩に応じて生まれた俳句の言葉が、私自身の原点に通じていると、ふと気づいたのである。
その日から三週間ほどのあいだに、深く沈んでいた記憶がひとつの流れとなって立ち上がり、二十篇ほどの詩が生まれた。その中から十五篇を選び、この詩集に収めた。俳句的観照に支えられながら、私の言葉は原点へ還っていく思いがした。
この出来事を、静かにありがたく受け止めている。
二〇二六年五月十七日
髙橋正子

『詩を読む人のために』を読む一詩論的考察(詩学への序章)(一)

三好達治著『詩を読む人のために』を読む
―― 詩論的考察(詩学への序章)(一)
髙橋正子

(一) はじめに
『詩を読む人のために』(三好達治著)を私が読んだのは岩波文庫(1991年第1刷、2007年26刷)で、杉本秀太郎の解説があるものだ。初版は至文堂「学生教養新書」として昭和27年(1952年)6月に書店の依頼で出版されている。

この文庫本は表紙がまだ新しいが、これを誰が、いつ、なんのために購入したかの記憶は曖昧で、私が購入したのではないかというほどである。この度、数度読み直し、名著であると確信した。そして、それ以上に三好達治の詩に対する純度が私の俳句の方向性と不思議なほど似ている、一致していると言っていいかも知れないと思った。三好達治が守り抜いた詩の純度は、私が俳句において探し続けてきた静けさと透明さの源流と響き合う。
その純度について少しだけ言うなら、戦後盛んだった民衆詩と、左翼思想の詩を採り上げなかったことである。それは、言葉を思想や運動の道具とせず、詩そのものの自律性を守ろうとする三好の姿勢の表れであり、その精神の純度こそが私の俳句の方向性と深く響き合っている。そして、その歩みをたどることは、私自身の俳句の歩みを照らし返すことでもあると思えた。私が長年ひとりで思いあぐんでいたことが、明らかになった。自分の俳句の置かれている位置がはっきりしたことは、大きな励ましとなった。

三好達治の詩について、ここで簡単に触れると、教科書にも掲載され、多くの人が触れたであろう「甃のうへ」「雪」「乳母車」などの詩には、言葉を澄ませることで世界の静けさを浮かび上がらせる姿勢が一貫している。その姿勢は、私の俳句が求める透明さと深く通じている。念のため、彼の詩集『測量船』から「甃のうへ」を挙げる。

「甃のうへ」
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音あしおと空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍いらかみどりにうるほひ
廂ひさし々に
風鐸ふうたくのすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃いしのうへ

本書『詩を読む人のために』は、明治以降の新体詩から、この書が出版された昭和二十七年ごろの口語自由詩に至るまで、三好達治がその詩的純度によって選んだ作品を、歴史の推移に沿って配列した一書である。そこには、日本の詩が歩んできた道筋が、自然な流れとして立ち現れてくる。
以下では、その並び、すなわち詩の歩みの順に従って読み進めながら、私自身の考察を記したい。三好達治の詩の読み方を手がかりに、「詩はいかに読まれるべきか」、「詩とは何か」を探りつつ書き進めた文章である。
なお、この文章では、一つの詩の中のまとまりを「連(れん)」と呼ぶことにする。三好はこれを「節(せつ)」あるいは「聯(れん)」と呼んでいるが、私は外国語の詩を扱うこともあるため、用語を統一して「連」とした。

(二)「前書き」
前書きのなかで最も印象に残る言葉は、次の一文である。
「誰かも言ったように、詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だからであります。」
これは、読者を安易に「詩人」として持ち上げるための言葉ではない。むしろ、詩を読むとはどういうことかを示す一文である。詩を読むには、読む前に心に詩を受け取る準備ができていることが必要だと思う。その準備とは、日々の思いや経験が静かに存在し、言葉に応じる感受性がどこかで息づいている状態である。何も感じておらず、何も考えていない心には、詩の言葉は空気のごとく通り過ぎてしまうだろう。

また、さまざまな詩を虚心に平らかな精神で受け入れてゆくことの楽しさを、三好は「詩を読む遍歴」と呼んでいる。詩を通して、他者の繊細な思いや深い思考、見知らぬ世界や気づかなかった感情に出会うこと。それらはすべて、詩を理解するための大切な経験である。さまざまな詩を読むことで、詩がよりよく読めるということ。結局のところ、詩を読むとは、人間の心の多様さと深さを学ぶことなのだと思う。このことを詩を読む人は心がけるとよいと言うのだ。

(三)新体詩から象徴主義の詩へ
①島崎藤村
明治の新体詩(西洋詩を参照しながら日本語で新しい詩形を作ろうとした運動全体)は明治十年代を草創期としている。明治の詩が“詩”というジャンルを自覚して歩み始めた一連の流れである。島崎藤村は、新体詩の中から立ち上がった抒情詩人である。本書では、明治33年の「千曲川旅情の歌」が読み解かれている。この詩の詩碑は、小諸の懐古園の千曲川を下に見る位置にあり、人口に膾炙されている。私も俳句大会で訪れた折に目にしている。

三好は、第一に、自然で透明な抒情をもつ「千曲川旅情の歌」を採り上げ、その「音」を精密に分析し、「五七調の一面単調なその調子を最も巧みに生かし切った、それをこの作品のかけがえのない長所とした、見事な場合」としている。また、「この詩の比類のない魅力はそれはいわばこの詩の比類のない単純さにかかっています。」と詩の単純さをあげている。そして否定形による形象的要素が少ない点を挙げている。これは極めて身軽な精神状態、単純な心理状態に読者は置かれると言うことを意味する、とする。

これを三好は総括して、「『千曲川旅情の歌』の大きな魅力は、その内容の単純さ、その内容における形象要素の打消し、いい意味でのそのとりとめのなさから来る単純さと、それから先に言った音韻的成功との、二者が表裏をなしていて、読者の主観的気分がそのために、一方では自由に解き放たれ、一方では濃厚に凝縮される、そういう作用をその詩がもっているからであろうと、」五七調の音楽性と内容の単純さが巧みに絡んで、詩的効果が発揮されているというのである。「音楽性と単純さ」は詩の基本であろうと私は思う。三好も詩の歴史の順序ではあるが、一方で「音楽性と単純さ」を詩の第一と考えたのではないかと思う。言葉が思想の道具として濁ることを嫌った三好にとって、音楽性と単純さこそが詩の自律性を守る要であった。

②薄田泣菫、蒲原有明
日本の詩は、藤村の自然な透明な抒情の詩から、濃密な象徴の霧をまとった詩へと歩んでいった。その初めに現われたのが薄田泣菫、蒲原有明である。三好によると、彼等は、明治38年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』のフランス象徴主義の諸訳詩の影響を受けたとしている。彼等の詩は、感覚的(思想的にも)、構造的に複雑精緻に、一読ではすらりと意味がとりがたいものとなっている。

「ああ大和にあらましかば」(『白羊宮』明治39年刊)
薄田泣菫
この詩の題名の意味は、「大和にいたならば」である。「ましかば」は反実仮想で、この題名から「大和にいたらよかったのに」など大和朝廷時代への精神的な希求と読むのは、詩の純粋さから外れるという。古典の授業などでは、願望のニュアンスがあるように教えられるが、そこは慎重に読みとるべきなのである。泣菫の詩では、願望よりも象徴的距離の設定として働いているのである。題名が、詩の本文を思想的に意味付けすることとは別である。私が避けたいのは、「古代精神への希求」というような大きな物語に詩を回収してしまう読み方である。詩の言葉は、書かれたとおりに、書かれたように読むべきであり、そこに余計な思想や感傷を上乗せしない態度が重要である。後で述べるが、三好もその読み方をしていることに、私は安心と納得を得た。

詩のなかに「夢殿」が出てくることから、また、「往きこそかよへ、斑鳩へ。」や最後の二行の「聖ごころの暫しをも知らましを、身に。」からも、この詩の場所は法隆寺辺りと想定してよいと思われる。そうすれば、詩の場面が浮かび、形象さまざまが心に浮かびやすい。泣菫の場合、象徴主義の霧は、完全に抽象ではなく、古代の空気をまとった具体の上に立ち上がる霧なのである。象徴化された古語の美しさと、それだけの難解さを感じる詩だ。耳慣れぬ美しい古語が並び、折り重なり、詩は象徴の霧を濃くまとって、大和は遠く、憧憬の世界にある。詩は三連からなり、それが場面の切り代わりと見えるが、これは象徴の焦点の移動である。それを三好が読み進め、詩的言語で解きほぐしてくれる。

第一連は、空想の時節神無月の、神無備の森を、三好の解釈に導かれながら、古語の香気をまとって立ち上がる。
第二連は、再び野外の景となり、新しい畑や路を主人公は歩んでゆく。この「新墾(にいばり)路の切り畑」の「新墾」は、私の解釈であるが、奈良の都が拓かれ栄えていく新しさを示しつつ、その背後に古代の息づかいを感じさせる語であり、詩の気配は古代的である。明るい橘の白い花の匂いに、どこからか、静かな機織り歌だろうか、聞こえる。「ふとこそみまし」は、「ふと目をやるならば」の仮定で情景が置かれ、黄鶲(きびたき)を登場させる。「仮定想像は同時に希望の気持ちが含まれる」と三好は言う。黄鶲のおどけた芸人のような動き、さらに想像を進めて、野の法子児が化けたのではとまで恐れをいだく。そして、詩の収束に向けて、来かかった寺院の暮色の奥から、なにか幽玄な趣の読経の声が聞こえる。そして読経の声はそこらを歩く人の心に沁みるであろうと、詩はしめくくる。三好はこのあたりは、「技巧の妙を極めている」という。
以下のところであろう。
「――これやまた、野の法子児の/化けものか、夕寺深に声ぶりの、/読経や、/今か、静こころ/そぞろありきの在り人の/魂にしも沁み入らめ。」
この象徴の重層性と、飛躍の自然さ、そして読者の心に沁み入るような収束の仕方を言うのである。読者は象徴の言葉によって、どこまでも現実の大和に居るかのような気持ちにさせられるのである。大和を経験させてくれるのである。これが泣菫の詩の体質であろう。

第三連は二連ほど技巧の妙はなく、夢殿の庭が具体的に想起され、引き続き暮景である。景色は、木がくれに日が落ち、扉も軋もうかという夕寒の夢殿の庭。そこを浮き歩む若き秀才の僧たち。庭を走る乾いた木々の葉。仰げば高塔や九輪が見え、花に照りそう眺め。「ああ大和にあらましかば」が収束へ向け繰り返され、「聖こころの暫しをも/知らましを、身に。」と身体感覚で終わる。三好は、泣菫が景色を把握する場合、「たたずまひ」の言葉が使われているのを少しだけ指摘している。「たたずまひ」の掴みは、象徴化の方向と通じるのではと私は思う。

三好の文章の良さは、詩を「書かれたとおりに、書かれたように」読んでいることである。三好の文章は「このようなことを言おうとしてる」ではなく、「このように言っている」という文章である。よくある読み方として、「今では無くなってしまった透明な精神文化への希求である」という読みではない。詩に意味付けをしないのだ。詩に意味付けをしないということは、詩を「何かの象徴」や「時代精神の表現」として回収しない、ということである。詩を自分の思想や感傷の器にしてしまわず、ただその言葉がそのように在ることを、そのまま受け取る態度である。意味付けとは、しばしば詩を「わかりやすい物語」に変換する操作だが、そのとき詩の中にある微細な揺らぎや、言葉と言葉のあいだの沈黙は、切り捨てられてしまう。三好が、詩人として、言葉に忠実に、言葉を読んでいることがわかる。自分の感情や思いを上乗せしていないのである。これはなかなか難しいことで、よほどの訓練と精神純度がないとできないことである。詩の純度を保つためには、重要なことである。

「智慧の相者は我を見て」(『有明集』明治41年刊)
蒲原有明
三好は、「智慧の相者は我を見て」について、この詩は、ソネット形式(4・4・3・3行の14行詩)で書かれていると指摘し、ソネットの音韻は減退しているが、形式は整えられている、と言う。詩行が五七調と七五調の言葉を組み合わせて書かれているからである。続けて、「形体こそ短小であるが、構成と、一種弁証法的なかかリ結びとの上で、極めて複雑にまた厳密に作り上げられている。そして思索的深さにおいても人間精神の問題に触れる微妙な観点態度を含んでいる」、と解説する。泣菫の精巧繊細な象徴詩に比べると語彙語法が大づかみで、描写的要素は欠くが、暗示はかえって豊かで陰翳が深く、おっとりして重量感がある、とする。

この詩の「相者」は人相見、つまり占い師のことであるが、智慧ある人相見である。この詩での「相者」は、一半面は自分の内面であり、一半面は客観的な視点からの自分を書いていて、二重性を三好は指摘している。有明の思索の深さや精神の有り様がよくわかる。

三好はここで、リルケについては何も語っていないが、三連目の詩句から、私は存在論的な意味合いを感じ取った。また、有明がリルケの同じ生年であることも、偶然とは言え、私には暗示的に思える。この時期に、西洋と日本とで同時に存在を問う詩があることをどのように考えればよいのであろうか。同時代的精神の共鳴として読む方向が考えられるのではないか。有明詩を読むとき、私は、リルケの詩を読むときのように、精神を極度に集中しなければいけないような感覚を覚える。私自身の精神の内奥の何かへと導かれる感覚でもある。ここで私の観点からの重要なことは、有明のこの詩に「存在論的意味合いを感じる」の「存在論的」の語は、読みの段階での気付きで、ここで立証を行う必要はない。

眼をし閉れば打続く沙(いさご)のはてを
黄昏に頸垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獣かととがめたまはめ、

この三行は、「嫋やげる君のほとりを」逃れたならば、黄昏の砂漠を飢えてさまよう獣同然ではないかと自分を思う場面である。そこを「もののかげ」から続けて書いているのは、自己の存在を「もののかげ」と認識し、「飢えてさまよふ獣」とまで言う。その思索は、存在が影となるような存在の危機感からの、自己の内面への掘り下げである。

次に有明の「霊の日の蝕」「茉莉花」に二篇が解説されている。有明の詩には、魂の問題、霊肉相克の主題が力強く取り上げられるという。
「霊の日の蝕」も、形式的にはソネットを意識した十四行である。日蝕を象徴的に詠んだ詩だが、光が消えたときに、おぞましさが立ち上がっている。一連、二連は日蝕の現象を描写しながら、光りの消滅は、理性や秩序、霊性の覆いが外れた時人間の内に潜む混沌が立ち上がりを意味している。この混沌の立ち上がりを、私は感覚的に古事記的な「おぞましさ」と受け取っている。
また、一連の第一行
「時ぞともなく暗ろうなる生(いのち)の局(とぼそ)」
の「生(いのち)」は、個体の生命だけでなく、日本古来の「いのち」の把握を背後に響かせている。つまり、自然・祖先・共同体と連続する流れとしての「いのち」、万物に霊が宿るという自然観、死を断絶ではなく形を変えた存続とみなす祖霊観が支えている。したがって「いのち」は肉体的生存よりも、存在の気配としての生を指し示すと読むのが妥当であろう。この詩行に、その古層の生命観が潜んでいると考えらる。同時に、霊肉相克や個の孤絶といった近代的主題を強く抱えている。「局(とぼそ)」が示す閉ざされた小空間は、連続性から切り離された孤立した個の生の暗がりをも象徴する。
したがって、この「生(いのち)」は、
① 日本古来の連続的・霊的な生命観と
② 近代的自我としての孤絶した「生」
が重ねられた、多層的な語として読むのが最も自然である。
光が消えたときに立ち上がる「おぞましさ」は、古事記的混沌の感覚と、近代的自我の暗部が響き合う象徴構造を形成している。終連で幽かに精神が立ち上がる逆説性は、天岩戸の暗闇を思わせる世界観の中で、霊的光の微かな回復を示すものと読める。
三連、四連はまさにそのおぞましさの表現である。この部分は、有明の象徴構造と思える。終わりの二行に至って、幽かに精神が立ち上がっている。逆説的に光が消えた時に精神が立ち上がるということか。古事記の天岩戸が閉じられた世の暗さが想像される。
噫、仰ぎ見よ、
微かなる心の星や、霊の日の蝕。

「茉莉花」について、三好は「恋愛の純粋性と欲情その他との搦みあい相克は、いったいにロマン派以後の近代文学ないしは自然主義文学の一つの主題となったところのもの」としている。「人間心性のこの問題を、深く切実に詩人自らの問題として、その間の心情のたゆたいが美しく歌われている。」と解説する。この詩には古語や雅語が使われ、「智慧の相者は我を見て」や「霊の日の蝕」のような、存在や魂の底を覗くような心はない。美しく歌われている。三好が末行の「貴(あ)てにしみらに」をよく味わうように提示しているが、この部分は、この詩の、もっともの美しさを示している。その直接の意味は「上品に白んで」であるが、「夜明け・霧・雪・衣の白さなどが、そっと立ち上がる感じ」を表現している。ここは「白の色彩が示す淡い霊性」の象徴的日本の美の立ち上げであろう。
一連の
阿芙蓉(あふよう)の萎え艶めけるその匂ひ
三連の
生絹(すずし)の衣の
衣ずれのおとのさやさやすずろかに
四連の
貴(あ)てにしみらに。
は特に美しく歌われている。阿芙蓉は、芥子のことである。
二連の
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
は、三好のいう詩人の切実さであろう。この詩人の内の切実さは有明詩の特徴と言えるのはないかと思う。

三好によると、象徴詩のいわゆる「象徴」が、単なる比喩以上の広く深い「把握」とその鋭い繊細な「摘出」を意味していると言う。これは、私が俳句の創作において、顧みれば同じことをしている。私の作句方法を図らずも知ることになった。象徴詩的方法を用いていることになる。三好の明晰な詩の読み方が詩の外側からの批評とすれば、私のこの詩論的考察は詩の内側から静かに照らす考察となっていることに気づく。

③北原白秋・伊良子清白・三木露風
藤村から時を経ずして泣菫、有明へ詩が変遷して行った。泣菫、有明の象徴主義の濃密な霧が立ち昇ったことは、私には驚きである。またリルケと同時代的共鳴が有明詩に見られ、「存在」の意味が深く問われていることに驚くのである。

●北原白秋
「邪宗門秘曲」
この詩は北原白秋の『邪宗門』の巻頭の詩である。勉強家の白秋は図書館に通いつめてこの詩を書いたと解説している。つまり、ここに使われている語彙は、江戸時代に使われていた言葉で、現代の、また詩発表当時のひとたちにも耳馴染みのない言葉である。三好の詩の読みは、平らかな精神で一字一句、文法に照らし、言葉の意味を正確に取り、自分の類推を入れない読みで、この詩の解説からも明らかである。

三好が「いただいたことがない、」「少しく疑問に思う。」とした解説の部分を私がネットで調べたことを、以下に添えて置く。

「亜刺吉珍酡の酒は、いただいたことはありませんが、いずれ南蛮渡りの珍酒に違いありません。」の、「亜刺吉珍酡の酒」は、次のような酒を指している。
「亜刺吉(あらき)」は、イスラム圏の蒸留酒「araki」の日本での呼称で、琉球から薩摩、そこから全国に伝わったとある。
「珍酡」はポルトガル語の「tinto(ティント)・vinho(ヴィーニョ)」からの呼称で赤ワインのことである。

また「あんじゃべいいる」は、江戸時代はそのように呼ばれていて、三好はオランダセキチクと説明している。これは今言う「カーネーション」のことである。「匂鋭(と)きあんじゃべいいる」の「匂鋭き」を三好は「これは匂いが高いかどうかは知りません、少しく疑問に思います。」の部分について、カーネーションは現在は切り花にするものが多く匂いがないが、スパイシーな匂いのものや、甘い匂いのものもあると言う。

「邪宗門秘曲」の語彙が、歴史的事実をともなって使われていることは、白秋の詩の語彙が誠実であることを示している。つまり白秋は、異国趣味を「雰囲気」で書いたのではなく、歴史的語彙の精度を徹底して追求した上で詩を構築したということになる。「秘曲」の、われわれの常識には耳遠い、聞きなじみのない言葉については、自分はかいもく専門知識がない
が、読者の側からいうと、「いずれ文芸作品というものは、我々の常識で読むほかありませんから、私は特殊な研究態度をこの詩にむかってとるのでなく、はやり私のふだんなみの常識でもって読むほかありませんから、一応この詩を読み通します。」と述べている。文芸作品の読み方としては、もっとも常識的な態度であろうと思う。
三好は異国趣味の言葉を時代考証も含めて丁寧に解きほぐし、作品の瑕瑾(かきん)の可能性を率直に指摘している。評価の高い作品の瑕瑾を指摘するのはむずかしいことであるが、詩の純度のためには必要であろう。

私がこの「秘曲」に面白さを思うのは、三好がこの詩に宗教的な語が並ぶにもかかわらず、宗教的敬虔な背景の支えを見ず、異国趣味の語の並びに音楽性と、泣菫や有明より軽やかな象徴性と見るところだ。それが、何を意味するか私見ではあるが、軽やかな象徴は、読者の読みをより解放していると思われる。第四連から、それを見てみよう。
「あるは聞く、化粧(けわい)の料(しろ)は毒草のはなよりしぼり、
腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、」
は、森の魔女の出現の物語さえ想像させ、腐れたる石の油は、石油のことであって、黒く濁った油で画かれた異様なイメージの聖母像を立ちあがる。具体物の石油を通して精神的暗さを象徴させている。また、第五連に至っては、宗教的敬虔などは最初から問題にしていないので、措辞を巧みに、自らをイエスに大胆になぞらえ、三好が言うように「一気呵成に書かれた詩」の面白さを見せている。
最後に修辞法として、最近稀に見るが、第三連の
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵞絨(びろうど)の薫(くゆ)りにまじり、
は、「天鵞絨」の肌触りの触覚を「薫り」の嗅覚のほうへ直ちに置き換え、そこに何らの連想をさせ、比喩の変換に持ち込んでいる。これは、白秋式の新式のやり方である、と三好は指摘する。

三好の内部から詩を照らし出す読みは、ここまでが限界である。泣菫や有明の詩には、詩の生成の必然が刻まれているが、それと対象的に白秋の「邪宗門秘曲」は、詩の生成の必然は詩そのものからは窺えない。白秋の宗教観、異国語への憧憬、象徴主義的感受性といった精神史の側に属しており、詩の外側へ視線を移す必要を感じさせる。そこを通過すれば、「邪宗門秘曲」の必然性が読者に受け止められるであろう。また、この書が年少の読者」に向けたものであり、この点については、そもそも視野に入れていない読みであったのだろうことは想像できる。

「謀反」
北原白秋「謀反」の第一行「ひと日、わが精舎の庭に、」は、作者の胸裡そのものを抽象化した場として読むことができると三好は言う。私はこの読みを適切なものと考えている。詩の経緯については、三好達治が述べるように、「―ある一つの感情がそこにおいて、次第に強度を増してゆく息苦しい思いを経験し、ついにはヴィオロンの盲しいるような具合に、破壊的な点にまで至る」のであり、その過程が作品の中心に置かれている。ただし、その息苦しさをもたらす「謀反」が何に対するものかは明らかではない。詩は、対象を特定しないまま高まっていく“ある感情”を、そのままの姿で示している。ここには、白秋の象徴主義に特有の、対象を曖昧に保つことで内的感情の輪郭をむしろ鮮明にする手法が働いている。
調子は波のようにやわらかく、象徴的で洒落たイメージが随所に置かれている。それらが詩にわかりやすさと音楽性を与え、パッショネートな感情と表現の柔らかさとが、独特の均衡を保っている。

●伊良子清白
伊良子清白は、詩史では欠かせない人となっているが、一般にはあまり知られていない。鳥取県に生まれ、その後主に西日本を移り住み、三重県で医院を開業し、戦火を避けての疎開を地を含め、晩年の30年を三重県で過ごしている。
詩史で重要視される理由が、三好の鑑賞と解説からわかる。それを引用するとつぎのようである。
「その清純温藉(おんしゃ)な、また高朗な詩風が今日までよろこばれています。」「泣菫・有明の心理的に(またその構成の上のも)複雑性を持った作品のあとで、このように単純な哀傷と一脈のわびさびしらとをたたえる作」

このような「単純な直叙体」の詩風は、人の心の本情に訴え、忘れかけては、また浮上するのであろう。こういう詩が日本の詩史にあることは、詩の層を深めていると言えよう。人間のこころの住処を用意されるような感じがする詩だ。
「漂白」は、「遠く故郷を離れ永らく異国をさまよった後、ふたたびそののふる郷に帰って来た」男が、蓆戸に秋風の吹く旅籠屋での「哀切な感情に自ら若やいだ」思いを詠んだ詩である。独り心のいよいよ裡にしみじみと思う感情と読める。
三好は、もう一篇清白の「秋和の里」をあげているが、これも「漂泊者の歌」である。「清純温藉(おんしゃ)な、また高朗な」と言う三好の表現がぴったりと合う作であろう。

●三木露風
北村白秋の『邪宗門』と三木露風の『廃園』はそれぞれ第一詩集であり、並べて称されているが、三好は少し疑問を抱いている。露風は第三詩集『白き手の狩人』あたりから詩境が充実したと三好は見ている。その理由からだろうか。三好は、『白き手の狩人』の「現身」は名作の名に恥じないものとしている。 その「現身」について、第1連はまさに詩であることを強く印象づけている。以下にそれを引用する。

春はいま空のながめにあらはるる
ありともしれぬうすぐもに
なやみて死ぬる蛾のけはひ。

この詩行からは、技巧が前景から退き、存在の気配が前面に出ているが、
これは、象徴の透明化と内面化である。それを三好は以下のように言っている。
「いったいに露風の象徴主義象徴的手法は、(中略)いっそう全体の調子がゆるやかで、(中略)いずれかと言うと平明簡易に(中略)さらりと推移を早く、横流しに流してすませるという行方かと思われます。」
「ありともしれぬうすぐも」「なやみて死ぬる蛾のけはひ」、これらは象徴語彙でありながら、象徴としての意味を主張せず、ただ“気配”として立ち上がっている。

また、素材として「蛾」が詠まれているが、日本では不吉なものとされる「蛾」を詠んだ詩は日本には無くはないが、むしろリルケが蛾の俳句を詠んだように、リルケのような特定の詩人の感受性において、蛾が“存在の象徴”として扱われることがある。「なやみて死ぬる蛾の気配」は存在論的と言えるものと私は思う。

それから、三好は『白き手の狩人』(大正二年)当時、口語自由詩運動の萌芽があり、それ以前の『邪宗門』『廃園』などにも、時代的風潮が間接的であれ、また見方によっては顕著に認められると言っている。そういったなかの「現身」は「平明簡易」の象徴主義的象徴を持っていると言う。

(四)新体詩以後における象徴主義的展開の整理
日本の詩(和歌と俳句を含まない)がいつどのように生まれたかを知ることは、「日本の詩」の根源を理解するうえで重要である。新体詩から島崎藤村の詩が生まれ、その後、上田敏『海潮音』の出版があり、とくにフランス象徴主義の影響を受けて、薄田泣菫・蒲原有明の象徴詩が現れた。さらに、北原白秋における象徴の音楽化・感覚化を経て、伊良子清白の特異な詩を挟み、三木露風に至っては象徴が内面化し、透明化(希薄化)してゆく。この推移は、象徴の濃度・質・透明度の変化を経て、やがて象徴は内面化し、軽やかさを帯び、ついには消失(直叙体)へと向かう。つまり、日本の詩の根源にはフランス象徴主義の影響が深く息づいており、その象徴の変遷こそが、日本の詩を生み出した発生装置であったと言えよう。日本の詩を読み解くとき、「象徴とは何か」という問いを避けることはできない。

そして、この象徴主義の変遷を私の俳句の核心に照らし合わせると、象徴主義の変遷と深く響き合っていることを知る。私の俳句の核心は、静けさ、透明さ、言葉の純度、象徴の気配、沈黙の倫理であり、これは、主義の濃度が薄まり、透明化し、気配だけが残る方向と完全に一致している。
私の俳句の核心の系譜は、ここに繋がっているのである。つまり、それを
俳句史で見ると、芭蕉の不易に繋がっているのである。

自分で自分の俳句を検証することは、本来ならあり得ないことであろう。しかし、現実として、私は自らの俳句を検証するほかないのである。ここにひとつの淋しさがある。
(©2026 髙橋正子)

『リルケと俳句と私』(四)

ESSAY©髙橋正子
『リルケと俳句と私』(四)

リルケの四行詩を俳句と関係づけて語るには、まず私自身が俳人であり、同時に詩人であることを静かに認めなければならない。俳句的観照による詩集『帰還』(二〇二六年六月刊)を書いた経験は、私の言葉の根源を確かめる契機となった。リルケの四行詩を読むことは、俳句の根に触れ直すことでもあった。短い詩形のなかで、沈黙と光が交錯し、風景が外界ではなく内面の深みに沈んでいく。その動きを俳句の呼吸で受け止めようとするとき、私は自分の言葉の源泉にもう一度手を触れていると感じる。

前号「花冠」三七四号(一月号)には、『ヴァレの四行詩』五篇に対する私の詩返として、五句の俳句を提示した。それらは片山敏彦訳への応答であり、原詩への応答ではなかったが、訳詩に向けて俳句を作るとどのような手触りになるかを確かめる必要があった。「詩を返す者の気韻がどの程度現れるか」確かめたのである。

リルケの詩に対して詩返がどのようにして生まれるかをここで見てみたい。まずは、原詩を精密に読むことが欠かせない。リルケの詩を読むときの姿勢はどうあるべきか。片山敏彦氏の翻訳詩への詩返を書いた後に、『Les Quatrains Valsisans/Die

Walliser Gedichte』(RAINER MARIA RILKE/ars vibendi)というフランス語の原詩とドイツ語訳の詩が併記されている本を手にすることができた。この本に、ドイツ近代文学、とりわけ、リルケ後期の作品の研究者であるウルリッヒ・フュルボルン氏の解説があり、四行詩の本質と読み方が、俳句の観照と深く響き合う形で示されていた。メーリケやヘルダーリンと言った詩人の抒情詩を読んできた、また、リルケのほかの詩を読んできたドイツ人には、『四行詩』は、馴染のない読み方を要求するため、注意が必要だと言うのである。

私は俳句を読むとき臥風先生から「本人(の身)になって読む」方法を教わり、それを六十年近く実践してきた。その姿勢は、リルケの詩を読むときも引き継がれている。では、リルケの詩に身を置くとはどういうことか。俳句が生まれる瞬間の身体は、五感、呼吸、沈黙に深く関わっている。その身体性をリルケの詩の内部にそっと重ね、共振させることなのである。

次に、詩返を成立させる主な要素として、次の三点があげられる。日本的な「見る」の姿勢である「観照」が必要であり、同時に象徴化のために、リルケ的な「見る」が必要である。呼吸としての言葉は、俳句の「点」としての時間の集中化が必要である。これらは、俳句の深い技法と精神の延長線上にあるもので、偶然の産物ではなく、俳句の道を進んで行けば必然的にたどり着くところのものである。

リルケの詩を読む姿勢について、ここでは私自身の方法を述べたい。『ヴァレの四行詩』二十一番を取り上げ、原詩にできるだけ身を置きながら、詩返がどのように生まれ、どこへ向かおうとしているのかを見極めたい。

(一)『ヴァレの四行詩』二十一番について
 『ヴァレの四行詩』二十一番の詩から感じ取れる重要なことは、冬の季節感である。それは、冬の季節のもつ「明るさと透明感」、およびその逆の意味を負う、厳しい寒さや、暮れ行く日の早さからくる「不安」であろう。リルケは冬とは名指ししないが、たしかに冬の季節の本質を感じていると私には思える。

(テキストは、『Les Quatrains Valsisans/Die Walliser Gedichte』(RAINER MARIA RILKE/ars vibendi))

《詩返》
風落ちて冬夕焼けの金ふくみ 正子 

21

Après une journée de vent,
dans une paix infinie,
le soir se réconcilie
comme un docile amant.

Tout devient calme, clarté…
Mais à l’horizon s’étage,
éclairé et doré,
un beau bas-relief de nuages.

二十一

風の一日が過ぎ、
かぎりない静けさのなか、
夕暮れがほどけていく
心やわらかな恋人のように。

すべてが しずかに 明るく
変わっていく…
水平には層を重ね、
光りに縁どられた、金いろの
うつくしい雲の 浅彫のレリーフ。
(正子訳)

第四行目の「comme un docile amant」(心やわらかな恋人のように)は、男性名詞 soir(夕暮)を受けて、男性の恋人を示している。この恋人像は「穏やかな人」を思わせる。そして「夕暮が和解する」という動詞と結びつくことで、風の吹いた一日のあとに訪れる、夕暮れが世界に調和し、そっとほぐれていく気配が立ち上がる。
リルケはしばしば、自然を「人格をもった存在」として描くので、夕暮れが、相手にそっと身を寄せる恋人のように、静かに沈んでいくニュアンスが受け取れる。

また、詩行が amant の鼻音の開放音で終わる、その柔らかい響きには、捨てがたい味わいがある。

docile は、この詩の核心に置かれた語である。片山敏彦訳の「おとなしい」は抑制のきいた訳語だが、原語が示すのは、性質としての静けさではなく、関係の中でしなやかに応じてゆく柔らかさである。

 seが使われ、この詩には再帰用法が二か所に使われている。これも自然の変化が自ずからの変化を意識させているのではないかと思われる。

第二連の「calme, calme, clarté… 」の意味は、「すべてが静かになり 明るさになる」。静けさが深まることで、かえって世界が透き通り、ものの輪郭が明るく見えてくるという感覚。夕暮れの「光が弱まる=暗くなる」ではなく、静けさが世界を照らすように、明るさが生まれるという逆説的な表現で、精神的な「明るさ」を意味している。外界の光ではなく、心の内側に生まれる明るさなのである。

第二連は不安を予感させている。その静けさと明るさの中に、地平線の上に積み重なる「金色の低い雲」が現れ、 どこか重く、 低く垂れこめ、 光を受けて不気味に輝く不穏な前兆を帯びている。つまり第二連は、一日の終わりの静けさ、 心の明るさ、その奥に忍び寄る、説明しがたい不安や影を同時に描いている。「美しさの中に潜む不安」「静けさの奥のざわめき」と言える感情であろう。

このように詩を解釈した後に残るのは、冬を思わせる季節感だ。その理由を見てみると次のようになる。
「風の吹いた一日の後に」は、冬の風は、秋の風よりも鋭く、吹き荒れたあとの静けさは格別に深い。
「吹き荒れた後の静けさ」は、冬の夕暮れの質感に近い。
「限りない平穏」「すべてが静かになり」は、冬の夕暮れは、音が吸い込まれたように静まり返り、冬の空気の密度に似ている。
「明るさになる」は、冬の夕暮れは、光が弱まるのに、空気が澄んでいるためにかえって明るく見える瞬間がある。これは夏や秋にはあまりない、冬特有の「透明な明るさ」である。
「低い金色の雲」は、冬の雲は低く、光を受けると金色に輝くことがあり、その美しさの奥に、どこか冷たさや不安が潜むのも冬の特徴。これは冬の厳しい寒さと暮れ行く不安が暗示されている。

冬の夕暮れがもつ「美しさと不安」。冬の夕暮れは、 透明で、 静かで、 美しいのに どこか不安を含んでいる。静けさと明るさの中に、何かが始まるのか、終わるのか、わからない気配が漂っている。これは冬の夕暮れの精神的な質感と非常に近い。冬の夕暮れにだけ宿る「静けさの明るさ」は、外界の光ではなく、心の奥に生まれる明るさである。弱まる光と澄んだ空気が重なり、世界がいったん沈黙に包まれたのち、内側からほのかに照らされるような感覚――この精神的な明るさは、他の季節には生まれず、冬だけがもつ固有の質である。リルケの詩が描く明るさの逆説は、この冬の精神的光にもっとも近い。
こうして詩返の要をなす、冬の季節としての季語「冬夕焼け」が立ちあがるのである。そして詩返の一句はその気配に応えるために生まれたのである。
では、詩返の句が、リルケの二十一番の詩に応えているかを、シンプルに見ると、次のようにまとめられる。
詩返の一句は、冬夕焼けに固有の「美しさ」と「不安」が同時に立ち上がる「一瞬の構造」を、意味ではなく、俳句の形式(構造・音響・語義・余白)によって再現することで応答している。

(二)フュレボルン氏の解説から思うこと
 フュレボルン氏は、『ヴァレの四行詩』を「風景の再現ではなく、精神の変容を描く詩」として位置づけている。風景は外界の出来事ではなく、詩人の内面に沈み込み、そこで新しい形象として立ち上がる。彼によれば、ヴァレの山々や雲や塔は、単なる自然の描写ではなく、リルケの精神が“世界内面空間(Weltinnenraum)へ向かうときの媒介であり、風景はその通路として働く。この指摘は、俳句の観照と深く響き合う。俳句においても、風景は外界の写生ではなく、心の深みに触れた瞬間の「形象」として立ち上がる。季語は、その形象を支える象徴の核である。

フュレボルン氏は、四行詩の短さを「凝縮された精神の運動」と呼ぶが、これは俳句の十七音がもつ「垂直の時間」と同質のものである。リルケが四行詩に託したものは、俳句が季語に託してきたものと、どこかで重なっている。

四行詩の読解を重ね、フュレボルン氏の解説に触れたとき、詩返という営みが、単なる私的な試みではなく、俳句の深い伝統と、リルケの精神の奥底が交わる場所に立ち上がるのだと感じ始めている。詩返は、詩を説明することでも、翻案することでもない。詩の呼吸に触れ、その呼吸が自分の内部に沈み込むとき、俳句として立ち上がる「もうひとつの形象」である。

俳句は、季語という象徴の核をもち、世界を一瞬のうちに凝縮する。四行詩は、短い詩形のなかに、精神の垂直の運動を刻む。この二つが交わるとき、風景は外界の描写を離れ、内面の深みに沈み込み、そこで新しい光を帯びて立ち上がる。詩返とは、その光を、俳句の呼吸で受け止める行為である。りルケが「世界内面空間」と呼んだ場所は、俳句における「今」の一点と響き合う。時間が流れとしてではなく、垂直に立ち上がる瞬間。風景が外ではなく、心の奥で形象となる瞬間。その瞬間に触れたとき、俳句は、四行詩の抽象性を季語の象徴性で受け止め、詩の精神を別の形式へと移し替えることができるのである。

詩返の一句は、詩の意味を言い換えるのではなく、詩の光景に触れ、俳句の呼吸で応えることで生まれる。それは、詩と俳句のあいだに一瞬だけ開く「精神の開き」であり、その開きを通して、詩の光が俳句へ、俳句の呼吸が詩へと移る。俳句が世界文学と対話するための、ひとつの可能性と思われるのである。
また、フュレボルン氏が強く主張するのは、四行詩における主語の不在である。その説明のために、まず、ドイツ後期ロマン派の詩人メーリケの「春に」を引用する。詩の冒頭には、はっきりとich(私は)が置かれている。
Hier lieg’ ich auf dem Frühlingshügel:
(※hier が文頭に来るための語順の転倒であり、意味上の主語はichである。)

この「ich」は従来の抒情詩がまず主体としての「私」を提示し、そこから世界を感じ取っていくという古い構造を象徴している。詩は「私」から始まり、「私」が風景を受け止める。ロマン派の抒情詩の基本的な姿である。

少し横道に反れるが、この行を日本語訳で読むと、主語は消えてしまう。
この春の丘にねていると
(『メーリケ詩集』森孝明訳・三修社)
日本語では常態的に主語が省略される。俳句では主語はほとんど省略される。現代俳句では、省略された主語は作者と見なされるのが通例である。したがって、この訳行は、文法的に主語を欠いているように見えるが、意味としては、継続の意味の動詞が、暗黙に主体を呼び込んでしまうので、主語の完全な喪失とは言えない。日本の詩が必要とする日本語の構造上、主語の欠落の形をとっているだけである。これはリルケの四行詩の主語の不在とは別の次元である。

フュレボルン氏が語る「主語の不在」は、こうした文法的な省略のことではない。リルケの詩における主語の不在は、もっと深い層で起こっている。先に見たように、日本語の主語省略は、言語構造がもつ常態であり、文法的な省略にすぎない。これに対してリルケの主語の不在は、主体そのものを詩の場から退け、風景や物が自律的に立ち上がるための、存在論的な転換である。つまり、主語の欠落という同じ現象が、言語の構造によるものか、詩の存在のあり方によるものかという、まったく異なる二層で起こっている。
リルケは一九〇七年の『新詩集』においてすでに主語を退けている。ロダンのもとで学んだ「ものの見方Sehweise)」が、詩の視座を「私」から離し、風景や物そのものが主体化する方向へと導いたのである。

つまり、リルケの主語の不在は、俳句の影響によるものでもない。リルケが俳句と出会うのは一九二〇年であり、主語の消失はそれよりずっと前に始まっている。主語を消すという行為は、リルケ自身の詩学のなかで必然的に生まれたものであって、俳句の模倣ではない。

メーリケの「春に」の第一行にある ich は、身体の位置を示す主語である。リルケの四行詩では、その身体の位置さえ消え、風景そのものが静かに立ち上がる。主語の不在とは、文法の問題ではなく、詩の存在のあり方そのものの変化なのだ。
このように、リルケの『ヴァレの四行詩』はリルケの詩のなかでも特別な位置にあると言えるのである。

『ヴァレの四行詩』を読み、詩返の一句が生まれるまでの過程をたどっていると、私は次第に、リルケの詩の内部に流れている「もうひとつの時間」に触れつつあることを感じ始めている。風景は外界の出来事ではなく、内面の深みに沈み込み、そこで新しい形象となって立ち上がる。その形象に俳句で応えるとき、言葉は、詩と俳句のあいだに一瞬開く精神の領域を移りあう。私はリルケの短い詩に応答する俳句を「詩返」と名付け、その定義を「詩に触れた感興から生まれた俳句であり、単なる解釈や共鳴ではなく、詩との倫理的・詩的対話を志向する応答のかたちである。」とした。そして、「届かないものへ」それでも「魂を届けようとする」俳人の試みと言った。これはそもそも詩の本質であるのだが。

リルケ晩年の詩が抱える沈黙の明るさは、信之先生がめざした「明るくて深い現代語の俳句」と同じ一点に触れている。それは、光が外界を照らすのではなく、沈黙の底から立ち上がる精神の明るさである。外界の風景が内面へ沈み込み、そこで新しい形象として立ち上がるという運動は、リルケの四行詩にも、信之先生の俳句にも共通して流れている。信之先生が俳句でめざした「明るくて深い現代語の俳句」が姿を現して来るように思えるのである。