NEW■無選別の思想■

無選別の思想
髙橋正子

このところずっと家を片付けている。片づけているものは、今となっては、私が暮らしのなかで注いできた時間とエネルギーそのものである。こんなにも時間とエネルギーを注いだのだ、と振り返り、自分自身にじんときている。そして、これほどまでに時間とエネルギーを使う必要があったのだろうかとさえ思う。

自分の内側から見て、自分の注いだエネルギーや時間が承認されない人間、愛されたと感じられない人間は何を頼りにすればよいのか。そんな問いさえ生まれて来る。それは、暮らしのなかで、追々持っていた疑問なのだが、そんなとき、私は自然を頼りにしていた。庭の木々や草花の手入れを一生懸命したし、庭に来る小鳥を称えた。水も、きれいな水を睡蓮鉢に張っていた。風もよく通るように、月がよく見えるように工夫して窓を開けた。季節になれば咲く花に、よく咲いたと言い。実をつけるものには、今年はきれいだぞ、と声をかけた。鶏も、うさぎも、犬も、金魚も、インコも一通りは家族となっていた。忙しくもあったが、それらは、身近にあった。

いま片づけをしながら思う。少し自然から離れた横浜での日々の暮らしで、おそらくは一人暮らしのせいもあるのだろうが、「月は人を選ばず、花は人を評価しない。」と思うことが多い。この考えを仮に名づければ、「非選別の思想」と言える。私は自然そのものに惹かれてはいるが、それにも増して、自然の持つ「選別しない力」に、この頃は支えられている。

もちろん、人は承認や評価によって力を得る。承認も評価も、人が生きていく上で大切なものであろうが、承認や評価の外側に置かれることもある。最後には、人間には「消えることのない炎」が残る。あるいは、その炎はもともと決して侵されないものなのかもしれない。しかし、その炎を見失わずに生きる力を、私は長い間、自然に頼ってきたと言えるだろう。それが、俳句であると言えるだろう。
(2026年10月24日)


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