晴れ
雨あがれば地表に鳴きて朝の虫 正子
今朝は大雨の予報が外れ、静かに晴れた。 外気はすでに秋の気配を帯び、散歩に出てもよいような天気だったが、早朝の目覚めかせいで眠気が残る。横になって休みを挟みながら、『世紀末ウィーンの知の光景』第5章を、また読み返した。
第5章のマーラーに関する段落は、 私が知っているマーラーの作品を思い浮かべても、モーツァルトが好き、ベートーヴェンが好き、あるいはバッハが好き、といった言い方で「マーラーが好き」とはどうしても言えない。それは、神様が好きと言うような、どこかためらいを伴う感覚に近い。圧倒的な音の奔流と、圧倒的な美しさにさらされるとき、私はこの世で最も遠い場所へ連れて行かれるように感じる。その場所は決して天国ではなく、夕焼けの果てのような、どこか寂寥を帯びた遠さである。
著者は、マーラー自身の言葉を引用する。「狂気よ、私をとらえよ、呪われたものを! 私を滅ぼせ、いるということを忘れてしまうよう! いなくなってしまうよう。私が……」
この言葉を手がかりに、著者はこう述べる。 マーラーにあっては、全体的な安心を希求しながらも、苦悩の果ての絶望が最後まで続いていたようである。そして、この言葉を思い出すとき、「苦悩の内にある者、絶望の淵に立つ者を顧みず、『おまえには何も起こりえない』と言う境地に、一人安住する罪の深さ」を思い知らされる、と。
私は、この「一人安住する」の主語をマーラーと読んだ。 著者はマーラーを崇高視するだけでなく、その背後にある人間的な一面――苦悩や絶望の淵に立つ者がいるなかにも、なお「何も起こりえない」と言い得る境地――を、温かく、しかし厳しく見ているように思える。「苦悩や絶望の淵にいる者」という表現は、マーラーの作品や生涯を知らなければやや抽象的に響くかもしれないが、ある具体的な事実を思い浮かべながら読むと、その意味が実感として立ち上がってくる。そのとき初めて、「一人安住する罪の深さ」という言葉が、私の中で腑に落ちる。
著者は、「おまえには何も起こりえない」という言葉を信じる者のうちに潜む、罪ともなりうる影の部分を示しつつ、それでもなお、この言葉が信仰に近い明るさを帯びて受け取られた場面を、歴史的事実として描き出す。 1938年、ナチス・ドイツに占領されたオーストリアのウィーン学友協会大ホールで、ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターが、ユダヤ人作曲家であるマーラーの交響曲第9番を指揮した演奏である。ユダヤ人の音楽が、まもなく公の場から排除されるかもしれない状況下で行われたその演奏は、「光へ向かって」というマーラーの言葉とともに、決して感傷的ではない仕方で鳴り響いたと著者は記す。そこに、「おまえには何も起こりえない」という明るく平坦な境地が私には見える。その平坦な境地がより崇高に思える。
私はここで、少し文脈の異なる一冊を思い出した。 ナチスの強制収容所を生き延び、その経験と精神のあり方を記した精神科医ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』である。フランクルは、極限状況におけるユーモアについて、「ユーモアは、精神が最後に持ちうる自由の一つだ」と述べていたと記憶している。ガス室へ送られる直前でさえ、囚人たちは冗談を言い合う。死が目前に迫るときでさえ、人はなお、どこか平坦な気持ちで、わずかな明るさを手放さない。
マーラーが手にした「おまえには何も起こりえない」という言葉と、フランクルの「最後の自由としてのユーモア」は、同じものではない。しかし、絶望の淵に立つ者が、それでもなお、何らかの形で「光」や「明るさ」を保持しようとする精神のあり方を、別々の角度から照らしているように思える。
また、著者の「思い知らされる」という言葉には、気鋭の学者の論文にはなかなか見られない、人間への信頼と、静かな安心が宿っている。その温度に触れるとき、学術書でありながら、単なる分析を超えた「人間の精神史」として、この第5章が私の中に響いてくる。そしてまた、信之先生が、「人間は理想がないと生きられない」と言ったことも合わせて思い出された。