晴れ
雨あがれば地表に鳴きて朝の虫 正子
●今朝も大雨の予報だったが、晴れた。散歩に行けそうな天気と気分だが、いまひとつ出かける気にならない。外はずいぶん気持ちよく秋らしくなっている。早朝目が覚めたせいか、朝9時頃には眠くなる。横になって第5章をまたも読む。
●5章のマーラーの段落。
私は、マーラーの曲について、モーツァルトが好き、シューベルトが好き、あるいは、バッハが好きと言うように言えない。神様が好きと言う感じに似ている。圧倒的な音を浴びてしまう。圧倒的なうつくしさに遠くへ連れて行ってしまわれる。
>「狂気よ、私をとらえよ、呪われたものを!私を滅ぼせ、いるということを忘れてしまうよう! いなくなってしまうよう。私が……」
マーラーにあっては、全体的な安心を希求しながらも、苦悩の果ての絶望が最後まで続いていたようである。これらの言葉を思い出すとき、
思い知らされることがある。それは苦悩の内にある者、絶望の淵に立つ者を顧みず、「おまえには何も起こりえない」と言う境地に、一人安住する罪の深さである。<
このように著者は書いている。この引用のなかで、「一人安住する罪の深さ」と言っているが、私は、「一人安住する」の主語はマーラーと読んだ。「思い知らされる」と書く著者に人間理解の温かさと深さを感じる。マーラーを崇高視するだけでなく、それだけではない人間の一面を感じている。「苦悩や絶望の淵にいる者」は、一人の者だけではなく、普遍的な人間をさしているのであろうが、実感としてこの意味を読むには、抽象的な表現に含まれるものの中に、交響曲10番を書く前に発覚した妻アルマの不倫の事実の苦悩と絶望を思うことが、私には必要である。私には、アルマの不倫はほとんど必然のように思える。そのように読んで、はじめて「一人安住する罪の深さ」が読み取れる。
「思い知らされる」に新進気鋭の学者の書物には決してない、学者を超えた人間への信頼と安心を覚える。
以上のように、著者は「おまえには何も起こりえない」の罪となる影の部分を示しながら、それでもこの言葉の信仰と言えるような明るい面がナチスドイツに占領されたオーストリアでの演奏にあったことを特筆して、マーラーへのこの言葉の受容を教えてくれている。具体的には、1938年のウィーン学友協会大ホールで、ユダヤ人のワルターの指揮で、ユダヤ人であるマーラーの交響曲9番が、ユダヤ人の音楽が演奏を許される最後かもしれないような状況下にあったでろうに、その演奏は「光へ向かって」というマーラーの言葉とともに、感傷的ではなかったということである。これに著者は、「おまえには何も起こりえない」が伝わってくると言うのだ。そのように思える、感じられるということだ。
ここで私は、少し違うが、ナチスの強制収容所で生き延び、その出来事や精神の在り方を書いた精神科医のフランクルの『夜と霧』の、ユーモアについての記述を思い出す。死の直前にさえ、人はユーモアを忘れない。正確な記憶ではないが、「ユーモアは、精神が最後に持ちうる自由の一つだ」の叙述。ガス室に送られる時さえ、冗談を言い合う。人は生きようとするとき、なんらかの明るさを平坦な気持ちで持っていると思える。それこそが人間の尊厳なのだろう。感傷的にならないのが、崇高な精神と言えそうだ。