9月5日(土)

曇りときどき晴れ
戸を閉めるときにひと際虫の声 正子

●戸を閉めようと外を覗くと、窓の外は虫の声がはっきりと聞こえる。子供たち家族にも、妹たちにも何事も起こっていないようだ。俳句を作りに出かけるのによさそうな天気だが、体調に不安があるので、家で過ごすことにした。あまり、家事をしない、俳句の仕事も今日の分だけで、週末は本を読んで過ごすことにした。そして、少し気合を入れるために、甘いお菓子を買って来た。読んでいると頭が疲れるのと気分転換のためのお菓子。

●『世紀末ウィーンの知の光景』を読みかけている。序章は、先生の体験が導入となり、感慨深い。序章のつぎに五章「平安の喜びを告げるある表現」を読んだ。「喜びを告げる表現」とは、どんな表現かまず気になった。そして今日は、2章「芸術家たちの日本への関心」を読んだ。この章には、先生の研究の成果の新資料や新事実の発掘があると知った。それが新しいかどうかは、研究者でない私にはわからないが、聞いたことがない、初めての感じが、微細な電流のように神経の端に触れてくる。微細な感応にすぎないが、たしかに感じ取れる初感覚なのだ。そして、2章は文庫本『世紀末ウィーン文化評論集』を読んでいたので、理解しやすかった。

5章の「平安の喜びを告げるある表現」は標準語で言えば、「おまえには何も起こりえない」という、記念像も立てられるほどの劇作家アンツェングルーバーの劇作品『十字で署名する人々』の石割り職人ハンスの言葉として、作家が言わせている。方言であるから、自分の馴染に方言になおして読むとよいと先生は書いてある。明治時代の広島弁なら、「あんたにゃ、なーんもおこったりゃしぇん」とでも言うのだろう。先生は京都弁で「あんたには何(なん)も起こったりなんかせえへん」と婉曲的に言われる。「起こったり」は、>kann <の意味からそう変換したが。当時のオーストリア人に広く知られた言葉のようだ。

「…えない」の訳が気になる。英語では、>can +否定語<だが、元の方言が気になる。「起こるはずはない」の意味でいいのか。>Es kann dir nix g’schehn! (標準語化:Es kann dir nichts geschehen!となっている。(これは、9月3日に調べた言葉と少し違っていて、こちらが本当と思える。)この言葉は、石割りハンスが人生の苦難を経て得た「悟り」のような安心感を語る場面で使われます。オーストリア方言の nix g’schehn は、 「何も悪いことは起こらない」「おまえは大丈夫だ」という、 民衆的で素朴な慰めのニュアンスを帯びています。<と説明されている。つまり、論理的否定表現ではなく、民衆に安心を与える情緒的表現ということだ。だから「大丈夫だよ」の意味になる。運命への静かな受容、苦難の底にある平安、神の摂理への信頼、民衆的な素朴な安心感とも説明されている。

しかし、この言葉は、民衆にはこれで足りるのだろうが、アンツェングルーバーの『十字で署名する人々』では、もっと意味が深いと先生は言われる。この言葉に関心を寄せた象徴的な知識人たちは、ヴィトゲンシュタイン、マーラー、クリムト、バール、マウトナーであると。
① ヴィトゲンシュタイン
 民衆の素朴な言葉が、 不安の底にある静けさを一言で言い当てる力 に強く惹かれている。彼の「語りえぬものについて沈黙する」 という思想の前段階にある、 語りうる平安の言葉となっている。
② マーラー
「不安」と「救済」の間で揺れる音楽が、マーラーを聞いた時の救いの感情をもったという先生自身で実証されている。民衆の慰めの旋律と響くということ。マーラーのところは、身につまされる。
③ クリムト、バール、マウトナー
世紀末ウィーンの「神経質な美」と「不安の美学」を体現した人々。 その中で、民衆劇の素朴な一言が まるで地中から湧き上がる静かな泉のように 彼らを魅了した。

つまり、 この言葉は「民衆の慰め」以上のものとして、 世紀末ウィーンの精神の反照になっていたと言うことが書かれている。私には、先生の読みの結果の深い核心なのではないかと思える。生活の言葉 から、哲学や 芸術の深層、そして、それを時代精神として把握されていることに深く教えられる。

知識人のような人たちにも、生活の基底に平安の静けさが必要なのではないかと思わされる。そして、私は、先生の外側からは、ウィーンの知識人たちと同様に、緊張した精神の高みを感じている。その先生が、生活の言葉をこのように取り上げられることに、先生の違う一面を感じている。

また、5章からは、信之先生の提唱した「よい生活からよい俳句を」は、 静かな生活の場所であり、世紀末ウィーンの知識人たちが求めた“生活の平安”と同じ水脈にあると感じている。私は、俳句をつくることで、平安のよろこびを享受していると言えるかもしれない。俳句は生きている基底の肯定の上に成り立っているから。その証拠に、俳句を作った後、多くの場合、俳人はすっきりした気分になる。俳句の浄化作用とも言われることだ。これこそ「平安のよろこび」と言えるのではないだろうか。

また、世紀末ウィーン文化の研究者が、民衆の言葉である「おまえにはなにも起こりえない」を考察されることは、僭越ながら、退官してからの先生の境地ではないかとも思っている。

芭蕉の言葉に 「高く心を悟りて俗に帰るべし」は、芭蕉自身の言葉として『三冊子』に記録されおり、今も俳句の核心である。芭蕉は、技巧や奇抜さではなく、 精神の高さと日常性の融合を俳諧の理想としている。高く悟るだけでは「離俗」になり、句が硬くなる。俗に埋もれるなら「通俗」になり、句が浅くなる。その両方を超える地点が、 「高く悟りて俗に帰る」という境地なのである。