10月21日(金)

晴れ
秋高し植えし花苗花まばら   正子
星飛ぶは遠き日のこと星見上ぐ 正子
キッチンの燈に輝いて新あずき 正子
●昨日買ってきたビオラの苗を植える。苗は買い時を逸して、生きはいいけれど、残りが少しだった。その中から欲をいわないで買った。売店の人の話では、花苗がでるのはこれからですよ、とのこと。植えてみれば、いい色合いになった。

10月20日(木)

快晴。
秋の星ビルの狭間の奥ふかく  正子
鉄橋も秋夕焼けに焼くるなり  正子
草の刈られ土の平らに虫鳴かせ 正子
●昨日の日が変わって洗濯機が洗濯をし終わったのが午前2時ごろ。干そうかな、どうしようかと思ったが、干すことにしてベランダに出た。東の空に大粒の星と3つ並んだ星が見つかる。なんだオリオン座か。オリオン座の中に星雲のような感じのものが感じられる。あそこに星雲があったかな、と思い、眼鏡と双眼鏡を持ち出してよく見たら、なにもなかった。ネットで午前2時の東の空を見ていたら、運よく21日から22日にオリオン座の流星群がピークを迎えるとあった。今夜、明日、明後日の午前2時が楽しみ。街のあかりで星が見えなくなっているが、午前2時ともなれば、小さい星も少し見えだす。秋になって空気が澄んできている。流星群はオリオン座とふたご座の間のあたりとのこと。

10月19日(水)

曇り
鵯の声縦横に雑木林      正子
真赤な実小鳥が運び木の実降る 正子
萩の花の冷たかりけり曇る空   正子
●整形外科へ。URの緑地を通る。近所で安心して歩けるところはここしかない。萩、どんぐり、白芙蓉。栃の葉が枯れ始める。鵯が自由気ままに鳴いたり飛んだりしている。

10月18日(火)

晴のち曇り
秋空へ焼きたてパンのぬくみ抱き   正子
ミシンの灯夜なべの手元を照らしくれ 正子
活けてある芒呆けてふくらかに    正子  
●ハート内科へ。新しくなった敬老パスを使って、バスを利用する。歩くのがいいと言われても、そんことは、どうでもいいことにする。帰り、アピタのポンパドールでパンを買う。運よく焼きたてが目の前に運ばれて来たので家にあるのに、つい買ってしまった。
●これも、アピタの100円ショップでバイヤステープを買う。夜の小さい時間に、鍋つかみを作るのに使った。出来上がりは、まあまあ。バイヤスの色味が少しよくない感じだけど許せるハンイ。

10月17日(月)

曇り
茸焼くたのしき遊びするように    正子
柚子胡椒うどんによく利き秋深む   正子
洋梨を画を選るように選びけり    正子
●俳句と政治は関係ないようで、ジャーナリズムに敏感な人が多いので、巡っては価値観とか、自由度とか、真実を追求する精神とか関係ある。安倍元首相が銃撃で亡くなって、旧統一教会が日本の政治に入り込んでいることがだんだんはっきりしてきているけれど、溜飲が下がるには程遠い。岸田首相になってみんなは少しはましになるだろうと思っていたが、全然。内閣の支持率は下がる一方。そこで出て来たのが旧統一教会に対して質問権を使うというもの。岸田首相には、今でしょ、と言いたい。村上誠一郎氏は、愛媛選出の国会議員で、おっしゃることはもっとも。国会議員が選挙にびくびくして仕事にならないようでは情けないと思います。

10月16日(日)

晴れ
秋高し花苗どれもきらきらと  正子
蕪の葉の袋はみ出す電車内   正子
新米の煮えたつ音の大きかり  正子
●今日から新米。新米を買うのにちょっと苦労。いつも買うお米は新米ではなく、新米は千葉産がほどんどか、買ってもいいかなと思う銘柄のは安すぎる。これも心配。米屋さんは日曜で休み。日吉の東急で買うことになった。お米を買ったあとセンター北へ。
●JAの直売所で里芋、蕪、ししとう、豊水、椎茸を買った。里芋はスーパーのとは全然違ってほくほく。里芋は絶対直売でないと。蕪がやわらかい。
●JAでは野菜よりも花苗に目が行った。ストック、ビオラ、アリッサムなど元気がよくてきらきらしている。あした買いに来よう。
●夕方句美子が来て、電子ピアノを呉れる話になった。「お母さんは紙のピアノで練習したんでしょ。」というので、びっくり。そんな話をしたかと。私が小学生の時は戦後。音楽の教科書に紙のピアノがついていた。88鍵ではなく60鍵ぐらいだったと思うが、学校でこの紙のピアノを机に広げて使っていた。ピアノについてはいろいろ思い出があるが、一番残念なのは横浜に引っ越すとき売ってしまったピアノ。アップライトだけど惜しかったなあ。

10月15日(土)

曇りのち晴れ。
●朝食は、独り、ビスケットとコーヒーとヨーグルト。土曜日なので、信之先生は起こさない。ビスケットをかじり、コーヒーを飲みながら俳壇11月号を読む。自分の不勉強に落胆する。だいたい自分は勉強が嫌いなのだと思った。いまさらここに書いている重要なことながらを勉強する気にならない。
勉強が嫌いなら詩人かというと、たしかに「君は詩人だ」とよく言われたが、自分が「詩人」である気もしない。自分が詩人になろうと思ったこともない。ただやたら過敏症にすぎないだけだ。これも人言われて知るだけだし。好きに暮らしていいじゃん、と。

10月14日(金)

曇り、ときどき小雨。
ラ・フランス熟れてほんとにすきな色 正子
ほっこりと大きな梨を二つ詰め    正子
どんぐりが落ちて小草の暖かし    正子
●電器店2件を回り、パソコンの下見をした。FujitsuかDellのどちらかにすることにした。新機の入れ替え中とのことで、値下げされた現品物もある。8GB intel i5,のDellが10万円を切っている。Fujutsuは8GB、inetel i3が13万円弱。やっぱりdell の方が値段のわりに性能がいいのだが、使ったことがない。迷う、、、。10月末までには決着を。
●「俳壇11月号」が届く。編集長は発行人の奥田さんがまだ兼ねておられる。11月号とあって菊の句がある。
菊咲けり陶淵明の菊咲けり  山口青邨
有る程の菊抛げ入れよ棺の中 漱石
 (大塚楠緒子への手向け)
特集「今、読み直す耕衣・静塔・綾子・五千石-没後25年」
特別企画「おくのそほ道333年、その地に遊ぶ」(前編)
の二つは、故人に学ぶ安心感を覚える。
●文学系YouTubeに初めて出会った。「スケザネ図書館」という。スケザネ氏と俳人の小津夜景氏の対談があった。対談ではないがほかの情報では、彼女3文字で俳句を作ろうとしている。俳句に575が必要なのかとも言っている。「これは俳句です。」と作った人が言えば俳句なのだ。そんな時代になっている。そのとき、なぜ、詩と言わないでわざわざ俳句を持ち出してくるのか、不思議だ。詩ではなく、俳句を作りたいからと言ってもよくわからない。賞をとる俳人ほど勝手なのだと思うほかない。勝っ手できるので俳句やってるんじゃなかろうかと。真面目人間は思ってしまう。

10月13日(木)

曇りのち雨。
秋雨の明けてたしかな朝の雨     正子
店頭の林檎照るなり雨が降り     正子
しめ鯖買いどこか心の祭めく     正子
●一日同じような気温。
●敬二さんから電話。リハビリに病院に通ったときは、俳句を3句作るのがリハビリだという話。奥さんの話では、前向きになって、楽しいということ。何よりですと返事。
●小さいアクセサリー入れ用の袋を縫おうと思い、製図と縫い方を雑誌でみる。裏を付けて縫う方法が、目からうろこの縫い方。小さいものながら、こんな縫い方を思いつくなんてと感嘆。俳句でこんなことを思いついたこともないから、まだまだプロ俳人には遠い。

10月12日(水)

曇り
●俳句を作るときに、一番迷うことは何かと考えると、イレギュラーと言われる場合のこと。現実、字余り、字足らず、句跨りは、生活や思想の多様化によって起こりうる。日本人の思想はどのように変化しているかを知らないと問題解決は難しい。季語についても歴史的に季節がどのように扱われて来たかも考察しなければいけない。四季の巡る自然のなかで暮らしていると、季節に関係あることに実際は二つも三つも同時に経験することは普通にある。その中から一つ選ぶには無理な場合もあるが、表現効果上一つが選ばれることが普通である。主な問題は二つ。①定型の逸脱(字余り、字足らず、句跨り)②季語の重なり。
俳句を形式的にのみ捉えると、よく勉強する人は、イレギュラーに目くじら立てて意味をなさない句を平気で作っていることがある。負かされるのは私である。虚子は、俊英と、普通の人に俳句を教えるとき、教えることが違っていたということはよく耳にすることである。俳句表現の効果上のことが、俳句の約束のようになっている現状は悩ましい。俳句よりもなお形式を重んじる茶道や華道もその粋に達すれば自在な境地があるのだろう。
俳句を文学とするか、文学としないかで違ってくる。文学とするなら、新しい俳句が生まれてしかるべきと思われる。今「俳句は一体何をしているんだろう」と、今朝、夢を見て思った。