曇り、夕方雨
炎天や青と銀との草埃 正子
●3日につけた梅ジュース。氷砂糖もほとんど溶けて、ジュースが増えている。風邪で作るのが遅くなっていたが、梅を冷凍していたので、早く梅ジュースが上がってきたのかもしれない。
●四行詩25番を読んで、詩返がすでにできたが、読み違えが無いか、検討する。今日、詩の翻訳ができて、ほっとした。読み始めは、これ、どうなるんだろうと言う気持ちだったが、だんだん詩に馴染んできた。
風景詩のようだが、風景詩でないところがあきらかに出てきている。
緑が灰色に近づくとか、灰色に青と銀がふくまれているとか、ほとんどみどりに近い黒とか、あるいは柳の葉の反転とか、光のある層とか、抽象的な言葉が多い。色も言うなれば、抽象概念。それを日本語に訳す。第2連は片山敏彦の訳とは印象の違う訳になった。訳としては、納得している。
詩返1 暮るる秋柳うら葉はみなひかり 正子
詩返2 そよぎつつ柳一樹は陰翳を 正子
詩返3 銀色も青もありけり草埃 正子
25番の詩は、リルケの色彩の捉え方が現れて、3連はむずかしい。片山敏彦の訳は、原文の方向と違い、心理的、情緒的な詩として読み替えられているので、翻訳の参考にはならない。むしろ頭が混乱する。片山訳を離れて、自分で考えるしかない。かなり難しいことになった。
25番は、色が観念的に捉えられているので、これは、ドイツ的と言えるのだろう。日本人には苦手な思考だと思う。
つまり、次のようなことなのだ。
25番の色は、風景の色ではなく、観念の色。つまり、色=世界の構造の一部 色=存在の層 色=視線の作用 色=時代の力という、 ドイツ語圏の哲学的な色彩観。
日本語の「色」は、 自然・季節・情緒と結びつきやすいですが、 リルケの色はまったく違う方向。
片山訳は、色を風景の情緒をとして詠みかえている。リルケは観念的、哲学的、存在論的に、色を捉えている。これは日本時には、難しい捉え方だと思う。リルケの色彩論で小論が書けそうなくらいだ。
リルケの色彩論」の序章になっています。
色は観念である
色は世界の構造である
色は存在の層である
色は視線の作用である
色は時代の力である
日本語の色感覚とは方向が違う
片山訳は情緒へ変換してしまう
原文は哲学的・存在論的である
●詩集『帰還』を出版して1か月以上が過ぎた。どこに贈るかは、難しいが神奈川近代文学館と、日本近代文学館に送った。贈る意味合いはそれぞれ違うけれど。
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