■消えることのない炎──世紀末ウィーンの精神と俳句

消えることのない炎──世紀末ウィーンの精神と俳句
                   高椅正子

俳句を作っていると、俳句は日本の精神の深いところから生まれた独特の詩のかたちだと思うかもしれない。確かにそうである。しかし西洋の詩や思想に触れると、文化や言語を超えて人間の奥底には共通のものがあることに気づかされる。

信之先生の本棚に、『世紀末ウィーンの知の光景』(西村雅樹著)が今も静かに残されている。著者から贈られた一冊である。このたび読み返し、私は世紀末ウィーンの人々の精神に深い共感を覚えた。

十九世紀末のウィーンは、政治や社会の不安のなかで、人々の精神的基盤も揺らいでいた。そのような時代に広く語られていた民衆の言葉がある。民衆劇の中では石割り人の言葉として紹介されている。

「おまえには何も起こりえない」

素朴な言葉でありながら、この表現は多くの人々の心を捉えたという。

著者によれば、ヴィトゲンシュタインもまたこの言葉によって静かな平安を与えられた。後年の彼の思想と直接結びつけることはできないだろうが、私はそこに俳句の沈黙ともどこか響き合うものを感じる。

俳句にもまた沈黙がある。俳句の沈黙は、言葉を削り、その余白のなかに気配や余情を生み出す。ヴィトゲンシュタインの沈黙とは位置づけが異なるが、ともに言葉では尽くせない世界への敬意を含んでいる。

音楽の世界にも、この精神は流れている。著者は、一九三八年、ブルーノ・ワルター指揮によるマーラー交響曲第九番の演奏について触れている。ナチスによるオーストリア併合直前の危機的状況にありながら、その演奏は決して絶望や感傷に沈むことなく、「光へ向かって」というマーラーの精神を伝えていたという。

外の世界がどれほど揺らいでも、人間の内奥には破壊されないものがある。その感覚は、俳句が見つめてきたものとも無縁ではないように思う。

そして私は、この本のなかで引用されるヘルマン・バールの言葉に強く心を動かされた。少し長くなるが、引用したい。

「市民的なつつましさのかもし出すこの静かさ、この穏やかさ、この輝き――これこそ、私たちオーストリア人の本質だ。私たちのオーストリア的感覚がここにはある。その感覚とは次のようなもの。人間はいかに小さくても、生の途上で遭うどんな嵐によっても消えることのない炎を自分の中に宿している。私たちは、運命に踏み込まれることがありえない聖なるものを、それぞれが持っている。嵐がいかに吹き荒れようとも、私たちには何も起こりえない。小さな炎は消え失せたりしない。私たちの奥深い価値は、誰によっても取りさられはしない。これが、人生についてのウィーン的感覚だと私が呼びたいものだ。」(ヘルマン・バール)

この「消えることのない炎」という感覚こそ、私が世紀末ウィーンの精神から受けた最も大きな贈り物である。
俳句もまた、人間の奥にあるその小さな炎を見つめ続ける文学ではないだろうか。私はクリムトの《ピアノを弾くシューベルト》の画をめぐるヘルマン・バールの記述を読みながら、そのことをあらためて思った。

焼失の名画や画集に秋の夜  正子
(私は、この一句を作っているのだが、今、手もとの画集で確かめるとこの画はない。記憶にはあるのに。どこかで見ているのである。)

一枚の絵、一つの言葉、俳句の一句。それらはみな、人間の内にある消えることのない炎を確かめるための営みなのかもしれない。しかし著者は、この平安に安住することの危うさについても語っている。自分の内なる炎だけを見つめ、苦しむ他者の存在を見失うならば、それはまた罪深さといえるものではないだろうかと。私たちは、自分の炎だけでなく、他者の小さな炎にも気づかなければならない。

著者は、
「おまえにはなにも起こりえない。」
この言葉を読者それぞれの方言で読み替えてよいとも述べている。私の故郷の広島弁なら、
「あんたにぁなんも起こったりしゃあせん」
となるだろう。そう言われたとき、人は少し肩の力を抜き、生きることへの信頼を取り戻すかもしれない。生活の言葉が人の心の深いところへ届く。その構造は俳句にも通じている。

信之先生は、「よい生活から、よい俳句を」と言われた。私たちが俳句を作るときの指針である。生活の中に世界への静かな信頼が宿るならば、その信頼はおのずと言葉にもあらわれるという意味だったのだと思う。
また、「人は理想がないと生きられない」とも言われた。理想とは大きな旗印でなくてもよい。明日があること、人間の尊厳が失われないこと、人の内には消えることのない炎があること。そのような願いを抱きながら生きること自体が、すでに一つの理想なのではないだろうか。日々の生活の基底にある世界への静かな信頼、そして他者の内にも同じ炎を認めるまなざしを言葉に託してゆくこと。それこそが、世紀末ウィーンの精神から受け取った贈り物であり、信之先生の遺した言葉とともに、私たちの俳句の拠って立つ場所なのだと思う。
(花冠 No.376 巻頭言掲載予定)
 2026年10月22日

     

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書(1)■

■俳句精神史の盲点に触れるための覚書■

Ⅰ 俳句史の盲点について
俳句史から亞浪の系統が消えている――この事実に、私は深い衝撃を受けた。 俳句における「中八」をめぐる形式主義の源流を探るうち、藤田湘子の厳格な形式観がどこから来ているのかを辿る過程で、亞浪の弟子・大野林火のあたりから、系統の記述が事実に基づかないものになっていることに気づいたのである。 生年没年さえ誤って記され、臥風の名も、信之の名も、俳句史からは静かに消えていた。

俳句史が「結社史」として書かれがちであることが、この盲点を生んだのだろう。 『旧制松山高校と俳句』(大野岬歩・髙橋信之共著)に詳しく記されているにもかかわらず、亞浪→梵の流れで記述が途切れ、精神の水脈が見えなくなっている。

Ⅱ 系統が消えた理由
亞浪は少数精鋭の俳人であり、結社を大きくすることを望まなかった。 そのため、俳句史の「組織中心の記述」から自然に外れていった。 さらに、弟子であった大野林火が後に虚子へ傾斜したことにより、系統の輪郭が揺らぎ、精神史としての流れが見えにくくなった。
俳句史の記述は、どうしても大きな結社を中心に構成される。 その構造の中で、亞浪の精神は「記録されない水脈」として沈んでいったのである。

Ⅲ 私自身が見たもの
私は、亞浪の墓所のある中野・宝仙寺で行われた亞浪五十回忌法要(2001年)に、信之先生の代理として参列した。 法要の記念写真には、私自身が写っている。読経の後、墓参したとき参拝者から、「幸人さんはようやった。」と五十回忌の法要をきちんと執り行ったと褒める声も聞いた。
そしてこの記録を花冠(当時水煙)に記録した。それを読んだ、西垣脩夫人とご子息の通氏の話として、「正子が法要に出席した」ことが話題になったと葉書をいただいた。西垣脩夫妻は小さいお子さんを連れて亞浪先生のお宅を訪問したと言うことも聞いた。
また十年ほど前までは、亞浪の孫である臼田幸人さんご夫妻から年賀状が届き、水煙にお祝金も送られてきていた。
こうした記憶は、俳句史の空白を埋めるための一次資料である。 知らぬふりはできぬ、という思いが静かに胸に残っている。

Ⅳ 精神史としての系譜
亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、 結社史の記述からは消えているが、 その水脈は確かに存在した。私はその末端に立つ者として、 この静かな流れを記しておきたい。

Ⅴ 結語
俳句の系統を明らかにすることに、どれほどの意義があるのか。 亞浪の精神性は、結社が異なっても、俳句の深層に浸透していると言える。 しかし、現状は憂うべき事態であり、俳句がテレビなどで騒々しく扱われる風潮も、精神史の見えにくさに拍車をかけている。

この記録は、私には重荷である。 けれども、俳句精神史の断絶を防ぐために、 ここに静かに記しておく。

亞浪の精神は、臥風・梵・信之へと静かに受け継がれ、
結社史の記述からは消えているが、
その水脈は確かに存在した。
私はその末端に立つ者として、
この静かな流れを記しておきたい。
(髙橋正子)
(2026.9.13 —花冠No.376掲載予定原稿)