※当季雑詠(秋)3句を〈コメント欄〉にご記入ください。
※投句は一日1回3句までといたします。
※登録のない俳号・ペンネームでの投句は削除させていただきます(例:唐辛子など)。
※★印について
「心が動いている」句を良い句として選び、★印を付けています。
(※多くの方にご覧いただき、心より感謝申し上げます。この「自由な投句箱」は花冠会員を対象としておりますので、どうぞご理解ください。)
花冠代表 髙橋正子
明るくて深い 現代語による俳句を。よい生活から よい俳句を。
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9月21日
土橋みよ
9月17日投句の「ひとつ庭にまた揚羽蝶生まれて秋」を作り直しました。
隣庭に幾代の揚羽や彼岸晴れ
また、アゲハチョウの生命循環を詠むのを諦めて写生の句もつくってみました。
垣越しにまた蛹あり秋麗
秋彼岸揚羽飛び立つ庭の奥
●平安の喜び
──世紀末ウィーンからの俳句的示唆
信之先生の本棚に、今も静かに『世紀末ウィーンの知の光景』(西村雅樹著/鳥影社・2017年刊)が置かれている。著者から贈られた一冊である。この度、この一冊を取りだし、遠いと思われるウィーンの文化を、私自身の身に引き受けて拝読した。ここに記したことは学術的な論ではなく、あくまで私自身の感受したことの想いであるにすぎない。この章を読んだとき、私は俳句の基底にある「静かな肯定」を思い返した。新しい年の初めに、この静かな「平安の喜び」を胸に置きたい。
世紀末ウィーンの知識人が求めた「平安の喜び」は、俳句の営みとも深く響き合う。著者がウィーン留学で体験した、あの都市特有の光のような文化の豊かさ、その後のまぶしいほどの文化・芸術の体験、そして学問研究の脈絡が静かに息づいている。私はその場を経験することはできないが、著者の歩んだ道筋を著書を通して辿ることで、わずかにその気配に触れられるように思う。
とりわけ最終章の第五章「平安の喜びを告げるある表現」は、俳句を作る者として深く心に迫る章である。それを読んでみたい。
十九世紀末から二十世紀初頭のウィーンは、ハプスブルク帝国の衰退という政治的不安だけでなく、科学・芸術・言語の基盤が揺らぎ、世界そのものが不確かになっていく時代だった。ユダヤ人たちは官職や大学での昇進が反ユダヤ主義的慣行によって妨げられ、芸術・音楽・批評・学問の領域で才能を開花させ、ウィーン文化の新しい層を形づくった。
その不安の時代にあって、アンツェングルーバーの民衆劇に登場する素朴な一言――「おまえには何も起こりえない」(方言で書かれている)――が、哲学者ヴィトゲンシュタインや音楽家マーラー、画家クリムトらの心に静かな明るさをもたらしたという事実は、深い示唆を含んでいる。不安の底にある平安。それは俳句の水脈にも通じるものが感じられる。
世紀末ウィーンの知識人たちが直面した「言語の限界」と「精神の平安」という二つの主題は、ヴィトゲンシュタインの沈黙の思想にも、マーラーの音楽にも、クリムトの絵画にも通底している。それは、生活の言葉から精神の深層へ降りていく俳句の営みとも響き合う。生活語が精神の深層へ届くという構造は、俳句が古来保持してきた働きそのものでもある。
現代もまた、ITやAIの急速な変化や気候の不安定さによって、足元に危うさを感じる時代である。こうした不安のただ中にあるからこそ、世紀末ウィーンの知識人たちが求めた精神の緊張を照らす源泉として、民衆的な「平安の喜び」を読み解くことが必要なのではないかと思う。マーラーの演奏回数は増え、クリムトの名は広く知られ、ヴィトゲンシュタインの沈黙も現代の知として浸透している。
この「平安の喜び」は、俳句を作る者にとって大きな意味をもつ。私たちの俳句は、生活の基底にある静かな肯定から生まれる。その肯定の気配は、ウィーンの民衆の言葉と、著者の深い読解から受け取ることができると思える。
(一)ルードウィッヒ・ヴィトゲンシュタインの場合
「語りえぬものについては沈黙しなければならない。」というヴィトゲンシュタインの『論理哲学論』の言葉に魅かれる。この命題に至る前、憂いの状態に陥った彼は、民衆劇の石割り人の「おまえには何も起こりえない」という言葉に解放されたという。高度な抽象的思想の前に、素朴な民衆の「語りうる」言葉に慰められている。多くの人にも共通する、人間らしい姿だと思える。
「語りえぬもの」の中には、美、生の意味、世界の感じ方など、俳句でも重要にしているものが含まれている。そして、それは沈黙によって浮かび上がるものなのである。
ヴィトゲンシュタインは彼自身が書いた『論理哲学論』について「二部からなる。ここにあるこの本と、もうひとつ──実際には書かれなかった第二部である。」と言い、その書かれていない第二部の方が重要だと述べている。物理的に存在するものを提示し、より深く、物理的に存在しないものを対置する。この構造と示し方は、私は俳句の本質に通じていると思っている。
(二)グスタフ・マーラーの場合
私が知っている少しのマーラーの作品を思い浮かべても、「マーラーが好き」とはどうしても言えない。それは、触れ難い崇高なものに向かうとき、どこかためらいを伴う感覚に近い。圧倒的な音の奔流にさらされるとき、私はこの世で最も遠い場所へ連れて行かれるように感じる。その遠さは、夕焼けの果てのような寂寥を帯びている。この遠さの中に、なお静かに灯るものこそ、著者の言う『平安の喜び』の核心なのだと思われる。悲しみの歌も、今ここにある哀しみを深く歌い、哀しみのまま温かく浄化される気持ちになる。一句俳句ができると気持ちが浄化される(すっきりする)という感覚にも通じる。
著者は、民衆の言葉に安住することが「苦悩の内にある者、絶望の淵に立つ者を顧みない」場合に罪の深さを帯びることがあると述べ、そのことを「思い知る」と書いている。これは逆説的なことであるが、私には刺さった棘のような思いとして感じられる。それでもなお、この言葉が、私には、信仰に近い明るさを帯びて受け取られたと思われる場面を、著者は次の事実から教えてくれている。
1938年、ナチス・ドイツ併合直前のウィーン学友協会大ホールで、ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターが、ユダヤ人作曲家マーラーの交響曲第9番を指揮した演奏である。ユダヤ人の音楽が公の場から排除されるかもしれない状況下で行われたその演奏は、「光へ向かって」というマーラーの言葉とともに、決して感傷的ではない仕方で鳴り響いたと著者は記す。私には、そこに「おまえには何も起こりえない」と言う明るく平坦な境地が見える。その平坦な境地が、より崇高に思える。
どんな場面にあっても、心の奥に小さな平安を保とうとすること。それは感傷ではなく、状況に屈しない精神の姿勢としての明るさなのだろう。人間の崇高さが、やはり見える。
この書は学術書でありながら、単なる分析を超えた「人間の精神史」として私に響いてくる。そしてまた、信之先生が「人間は理想がないと生きられない」と語ったことも思い出された。
(三)ヘルマン・バールとグスタフ・クリムトの場合
クリムトの『ピアノを弾くシューベルト』は、画集で見るので現存しているものと思っていた。しかし、悲しい現実があって、すでに焼失していると知った。この絵には、ピアノを弾くシューベルトを囲む四人と、隣室にいるように見える一人が描かれている。黒い服のシューベルトの背後には女性二人が寄り添い、その向こうの男性は輪郭がはっきりせず、描かれた人物は、言葉では言い表しにくい俯き方や表情をしている。どこか精神的な画のように思える。
この画を評して、オーストリアの作家ヘルマン・バールが述べた言葉が著書に引用されている。
「市民的なつつましさのかもし出すこの静かさ、この穏やかさ、この輝き――これこそ、私たちのオーストリア人の本質だ。私たちのオーストリア的感覚がここにはある。その感覚とは次のようなもの。人間はいかに小さくても、生の途上で遭うどんな嵐によっても消えることのない炎を自分の中に宿している。私たちは、運命に踏み込まれることがありえない聖なるものを、皆それぞれが持っている。嵐がいかに吹き荒れようとも、私たちにはなにも起こりえない。小さな炎は消え失せたりしない。私たちの奥深い価値は、誰によってもとりさられはしない。これが、人生についてのウィーン的感覚だと私が呼びたいものだ。」(ヘルマン・バール)
『ピアノを弾くシューベルト』の焼失を悼む
焼失の名画や画集に秋の夜 正子
人間の奥に宿る小さな炎を見つめるまなざしは、俳句が照らしてきた精神の静けさとも響き合う。
「おまえに何も起こりえない」は、言葉の形を変えてもオーストリア人の生活に流れ伝わっているのだと知った。そして、これほど丁寧にゆるぎなくオーストリア文化を研究され、その精神が俳句を作る者にも響いてくることに、私は著者にあらためて敬意を表したいと思った。
(四)俳句への示唆
劇中人物の石割り人の一言「おまえには何も起こりえない」は、著者が「自分の方言で読み替えてよい」と述べている。私の母語である広島弁なら、「あんたにぁなんも起こったりしゃあせん」となるだろう。生活の場から生まれた言葉が、哲学者や芸術家の精神の核心に届くという事実は、俳句の本質にも通じている。
俳句もまた、生活の言葉を通して精神の深層を照らす短詩型であり、生活の底にある静けさを表現する私たちの俳句は、いまの時代にこそ求められる表現であろう。信之先生の「よい生活から、よい俳句を」という言葉も、この水脈に響き合っている。現代を生きて俳句を作る私たちにとって、この水脈を俳句の根として据えることは、信之先生が「水煙」(現「花冠」)創刊の言葉で掲げた「明るくて深い現代語による俳句を目指す」という理念を、いまの時代の具体的な目標として受け継ぐことになる。生活の底にある静かな肯定を言葉に託すこと──それが、いま俳句に求められている平安のかたちなのだろう。
(2026.9.13 花冠 No.376 掲載予定原稿)
曇り
クリムト『ピアノを弾くシューベルト』の焼失を悼む
焼失の名画や画集に秋の夜 正子
●明日は、9月月例ネット句会。8月の夏休み明けには、自由な投句箱
への期待が高かった。今は、落ち着いた感じがする。
●注文の「俳壇」10月号4冊が届く。
●急に句美子の家へ。スーパーの魚売り場を覗くと秋刀魚がある。解凍は細いが130円。生は太目で300円。この値段なら、生でしょう、と買ってみる。この前デパートでちらっと見た時は1尾690円。この値段なら、ほかの魚がいいのではと止めていた。関東ものとのこと。美味しい!というほどではない。食べてよかったと言う味ではない。初物だったが、期待しすぎだった。
●『世紀末ウィーンの知の光景』第5章をめぐっての文章に手を入れる。
原典に当たらないといけないところは、削った。手元に資料というものがない。調べようにも、市民の図書館にはない。一生懸命書いてきたが、いろいろなことが思い出されて落ち込む。書いたことを消さなければならない喪失感の裏にある、いろんなこと。
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花冠代表 髙橋正子
9月20日
該当句無し
9月19日(1句)
★夕月夜雀集いてにぎやかに/多田有花
心に、明るく静かな懐かしい世界が生まれてくる一句。「夕月夜」が穏やかな心境を表わし、にぎやかな雀は、稔の秋を想像させてくれている。(髙橋正子)
9月18日(1句)
★晴れてくる朝の窓辺に虫の声/多田有花
虫の声は、朝、昼、夕とそれぞれ違った情趣をもっている。朝の光が増してくる窓辺に虫の声を聴いている。朝の虫の声は、静かな光の窓辺の気配に溶けるように調和している。(髙橋正子)
9月17日(1句)
★今日何にもかも秋らしく空青し/小口泰與
「今日何もかも秋らしく」は、具体的なものはなく、目に映り、肌で感じたことであるが、「空青し」の鮮明な青空の実感が具体的にある。これが、「何もかも秋らしく」を決定付けて、無駄のない、秋の本質を言い得た一句となっている。(髙橋正子)
9月16日(1句)
★澄む秋の掃き清められし地蔵堂/多田有花
「澄む秋」の季語が効いている。地蔵堂は、地域の祈りの場となっている。地域の人たちによって掃き清められた地蔵堂は、秋の澄んだ空気によっていっそう人々に近い祈りの場となっている。(髙橋正子)
9月15日(1句)
★終電にゆったり座る夜長かな/廣田洋一
夕方のラッシュアワーを過ぎると電車の乗客もぐんと減る。終電ともなれば、乗客もまばらになり、ゆったりと座ることができる。電車の中にも夜長の気配がある。(髙橋正子)
9月14日
該当句無し
9月13日
該当句無し
9月12日(1句)
★鬼やんま水輪残して飛び去りぬ/廣田洋一
鬼やんまが飛び去ったあとに、水輪が残る。水輪は鬼やんまの存在感となって残される。鬼やんまと水輪の響き合って透明感がある。(髙橋正子)
9月11日(2句)
★秋蝉の狂い鳴きしてそれつきり/小口泰與
秋蝉の狂い鳴きのあと訪れる深い静寂。「それっきり」が見事にそれを表わしいて、余韻が深い。(髙橋正子)
フェリー新潟に着く
★秋曇引き波長く接岸す/土橋みよ
「秋曇」と長い「引き波」の呼吸が響き合って、フェリーの接岸のときの緊張が読み取れる。臨場感のある句が無駄なく詠まれている。(髙橋正子)
小口泰與
蜻蛉や暮れるを嘆く湖の水★★★
秋薔薇の雨の衣にすくと立つ★★★
「衣」の比喩が惜しいです。比喩でなく写生にすると★4つです。(髙橋正子)
鳴きながら葦に飛びつく秋翡翠★★★
廣田洋一
終電にゆったり座る夜長かな★★★★
秋水や鯉のゆるりと上り来る★★★
ピラカンサ赤き実光り鳥の声★★★
9月14日(1名)
多田有花
<手柄山平和公園三句>
手柄山紅染月の始まりぬ★★★
爽やかに平和資料館への道★★★
秋晴のアリーナ「躍動」像の立つ★★★
9月13日(1名)
多田有花
湯上りやつくつくぼうしの聞え来る★★★
秋の川等間隔に鷺の立つ★★★
月見月自家製月見バーガーを食す★★★
9月12日(3名)
多田有花
秋晴にあるは輪を描くとんびのみ★★★
帰る日の呼び声秋燕盛んに飛ぶ★★★
暮れたれば静かに始まる虫の夜★★★
廣田洋一
鬼やんま水輪残して飛び去りぬ★★★★
秋の夜や読み耽りたる文庫本★★★
突堤に竿の並びて鯊日和★★★
小口泰與
釣上げし利根川の秋鮎なかんずく★★★
忽然と日の差す秋の渚かな★★★
水澄むや吹きなぐ風は赤城より★★★
9月11日(3名)
多田有花
秋雨や布巾を固く絞り拭く★★★
掃除機の掃除するなり秋の雨★★★
稲妻や一瞬灯りの途切れけり★★★
小口泰與
雨ながら光る秋薔薇庭真中★★★
梢にて秋翡翠の毛繕い★★★
秋蝉の狂い鳴きしてそれつきり★★★★
土橋みよ
フェリー新潟に着く
秋曇引き波長く接岸す★★★★
越後川口展望台
水澄むや里をうねりて信濃川★★★
彼岸前の巖華園
玄関の鬼灯赤しまたここに★★★★
※当季雑詠(夏・秋)3句を〈コメント欄〉にご記入ください。
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「心が動いている」句を良い句として選び、★印を付けています。
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花冠代表 髙橋正子
●「自由な投句箱・添削教室」は、下方↓ の欄にあります。
8月15日(1句)
★玉蜀黍髭の色濃き日々となり/廣田洋一
静かな写生の句です。「髭の色濃き日々となり」は、玉蜀黍の雌花のめしべが熟れてゆくにつれ色を深めていく、その変化を見つめた言い方です。その静かな観照には、しみじみと心に沁みる感情あり、深い余韻となっています。(髙橋正子)
8月14日(3句)
層雲峡
★底見えぬ峡の岩肌薄紅葉/土橋みよ
層雲峡の早い秋の気配を静かに伝えて、美しい余白がある。底の見えない深い峡に、岩肌を彩る薄紅葉が軽く置かれ、景色が目に見える。(髙橋正子)
★露けしや雨にぬれたるすべり台/小口泰與
雨にぬれたすべり台の確かな質感が伝わる句。「露けしや」が雨に濡れた金属をやわらかくしてくれている。子どものいない、静かな公園の朝が立ちあがっている。(髙橋正子)
★秋燕や代わる代わるに弧を描く/多田有花
「代わる代わるに弧を描く」は静かな燕の連続した動きを捉え、弧の形が読者の中で自然に描かれる。秋の空の広さが残る素直な気配の句。(髙橋正子)
8月13日(1句)
★枝豆や能登の荒塩一振りす/廣田洋一
枝豆の緑に振る「能登の荒塩」が荒さのなかにも抒情を生み出しています。また、一振りの仕草が能登の荒塩に合っています。固有名詞が繊細に扱われ、完成された句です。(髙橋正子)
8月12日(句)
★禊萩のはらりと散るや墓の道/廣田洋
禊萩はお盆に墓に立てる花ですが、墓への道にはらりと散っている。「はらり」の軽さのある一言が、盆花の儚さを感じさせてくれています。季節と行事がすぐさま気配として立ち上がっています。(髙橋正子)
8月11日(1句)
大雪山黒岳5合目
★ロープウェイ着くや熊鈴山の秋/土橋みよ
★ロープウェイ着くや熊鈴着けて秋(正子添削)
「熊鈴」が浮いています。句の中でなにをしているのかわからないです。もう少し丁寧に言う必要があります。
ロープウェイを下りてすぐ「熊鈴」をつけたのでしょう。ロープウェイで上った山の高さが知れます。元の句は「山の秋」となっていますが、「熊鈴」がどうなのかを言っていません。それを言うために、「山の」を削りました。ロープウェイで上ったことですでに山がわかりますので、「山の」を省略できます。(髙橋正子)
8月15日(3名)
多田有花
被昇天祭居間に流れしミサの曲★★★
胸骨の形確かめ盆の夜★★★
日の落ちて虫の音聞え初む頃に★★★★
小口泰與
無花果を取りに川を渡渉せり★★★
「無花果」と「川」(水)の取り合わせがいいのですが、「渡渉せり」叙述になって惜しいです。(髙橋正子)
艶やかに水槽泳ぐ秋目高★★★
「艶やかに」はいい感覚ですが、秋目高に少しそぐわなさがあります。(髙橋正子)
露けしや利根の川原の松林★★★
廣田洋一
盆参りしんと鎮まる墓園かな★★★
球児らも黙祷捧ぐ終戦日★★★
玉蜀黍髭の色濃き日々となり★★★★
8月14日(4名)
土橋みよ
層雲峡
底見えぬ峡の岩肌薄紅葉★★★★
仮住まいオンコの実赤き門くぐる★★★★
盆の空港ゴミ積む台車また過ぎる★★★★
小口泰與
雨上がり秋茄子しずく照らしけり★★★
つややかや雨後の大樹へ秋夕日★★★
露けしや雨にぬれたるすべり台★★★★
廣田洋一
迎火や早く早くと母の声★★★
黃西瓜を試してみたる子と二人★★★
濃紫の色を深めて黑葡萄★★★
多田有花
秋燕や代わる代わるに弧を描く★★★★
水をやる残暑迎える菜園に★★★
身辺の身軽になりぬ盆涼し★★★★
8月13日(3名)
廣田洋一
枝豆や能登の荒塩一振りす★★★★
朝顔や雨に打たれて色を増し★★★
子供らの声張り上げて金魚ねぶた★★★
小口泰與
翡翠の枝につまづき不思議顔★★★
花栗の無数に咲きて丘の園★★★
赤赤と日の出の光り芥子の花★★★★
多田有花
風は秋見上げる空も秋の午後★★★
透明な秋のとば口に立ちぬ★★★
盆台風日本列島横切りぬ★★★
土橋みよ
佐呂間町
牧草の果ての峰まで秋高し★★★
「牧草の果て」に「峰」がある景で、北海道らしい広い景色が想像できます。峰も遠い峰の印象で、水平の広がりを感じます。この景色に対して「秋高し」が不釣り合いに映ります。(髙橋正子)
サロマ湖畔富武士漁港
霧時雨発動機船の音ばかり★★★
「霧時雨/発動機/船の音ばかり」とそれぞれが並べられています。俳句は一つの文と思ってください。その省略したものが俳句です。
まずは、丁寧に言ってみることが大切です。(髙橋正子)
新千歳空港
盆帰省みやげ屋遠き搭乗口★★★
8月12日(3名)
廣田洋一
台風一過泥水流る街の川★★★
街路樹の根元を囲む白粉花★★★
禊萩のはらりと散るや墓の道★★★★
小口泰與
姦しき蛙の声や街の沼★★★
葦揺れて翡翠居りし証しかな★★★
翡翠の弾丸のごと翔け行けり★★★
多田 有花
以下3句は、8月11日と同じ句でした。
山の日を迎える風の吹き渡り★★★★
朝夕から秋ゆっくりと顔を出す★★★
盆休み遠くで花火の打ちあがる★★★★
8月11日(4名)
廣田洋一
秋高しゆっくり回る観覧車★★★
台風の近づく気配雲速し★★★
墓参り義妹の墓にも水をかけ★★★
土橋みよ
大雪山黒岳5合目3句
秋高し手すり伝いの展望台★★★
ロープウェイ着くや熊鈴山の秋★★★★
枝ごとに蜻蛉動かぬ夕べかな★★★
「ロープウェイ着けば熊鈴鳴りて秋」としてみました。
山の日を迎える風の吹き渡り★★★★
朝夕から秋ゆっくりと顔を出す★★★
盆休み遠くで花火の打ちあがる★★★★
「で」が気になります。「で」をとってもよいのでは?ほかにも考えられます。(髙橋正子)
【改作】盆休み遠く花火の打ちあがる
小口泰與
川底をさらう漢の夏帽子★★★
天道虫羽開かざるまま絶えし★★★
暑き日を髪膚に浴びし夏の午後★★★