NEW9月3日(木)

曇り

●花冠創刊記念日。句美子の誕生日。
●句美子から頼まれた電気毛布の洗濯。3枚ある。風があったので、よく乾いた。
●お返しの品を2件、デパートから送る予定だったが、疲れた感じがするので、明日に回した。

●デパートへ行く代わりに西村先生の『世紀末ウィーンの知の光景』の第5章「平安の喜びを告げる在る表現」を読む。西村先生は「リルケと俳句と私」(四)を今号も興味深く読んだという手紙をくださった。とにかく、本気で読んでくださっている。それ比べ、私は先生の書物を読んでもなかなか理解できない。私と先生との間にあるアンバランスは、もとよりのことではあるが、それでも、本ではなく個人的な手紙となれば、意味が少し違ってくる。少しでも先生への理解を深めようと言う気持ちが働く。感覚的に理解できても事実を理解するのは複雑なので難しい。それももとよりと言えば、やむを得ないのであるが。

第5章「平安の喜びを告げる在る表現」とは、「おまえには何も起こりえない」と言う言葉を指すのだ。これは、オーストリア文学、民衆劇の文脈で、「Es wird nichts geschehen」(何事も起こりはしない)は、「平安」「静けさ」「運命の受容」の意味でよく使われると言う。アンツェングルーバーと言う民衆劇の作家の『十字で署名する人々』という作品で使われているとのこと。この作家の記念像がウィーン市内に立っている。先生の著書では、「おまえには何事も起こりえない」とより個人的な表現になっている。これは、方言で書かれているので、自分の馴染む方言に変えてよいと書かれている。言ってみれば、「なーんにもおこりゃせん」というような、安心を与えるまじないの言葉のようでもあるが、単にそうとも言えないようなのだ。 華やかで神経質なウィーン文化とは対照的なアンツェングルーバーの農村劇からの「ひと筋の平安をもたらす言葉」であるが、不安の底にある静けさ、神の摂理への信頼、日常の小さな安堵 を象徴する表現といえるようなのだ。
私は、初め、この言葉の本意が読み取れなかった。だから、繰り返し読んだ。先生の緻密に積み上げられた事実を読むのに追われていたので、繰り返し読む必要があった。こういう文章を読むうちに、私は学者にはやっぱり向かない人間だと思ったりした。事実に 倦んで、途中から想像したり、夢を見たりするに違いないのだ。ここまでの根気と忍耐がない。

つづきには、ヴィトゲンシュタインや、マーラーの事が書かれている。それは、明日に。

 

 

 

 

9月2日(水)

曇り
●湿度が高く、蒸し暑い。今朝「俳壇」の切り抜き作業の続き。やっと終わった。ファイルが何冊いるだろうか。B5が40ポケット1冊、A5は40ポケット3冊ぐらい必要になりそうだ。こういった作業が疲れるようになった。ファイリングは、しばらく休んでからゆっくりすることにした。急に体調が悪くなった感じがしたのだ。体調が崩れやすくなっている。要注意。

●N先生から祇園祭の最中にいただいた手紙の返事に十分なお礼を
申し上げていないのが、ずっと気になっていた。先生が「精神の目」と言う言葉を使われたので、テレビに映った東大教授の書斎の書物の題名メルロ=ポンティ『眼と精神』が目に入って、そのことに心が捉われていたので、十分お礼の手紙になっていない。
今日、『世紀末ウィーンの知の光景』を読み、その研究方法に触れて、
「リルケと俳句と私」に私の精神の動きを深く読みとっておられたことに気が付いた。文化の研究は文学の研究より深く、文学の背景の研究になる。「リルケと俳句と私」は本来エッセイが意味する文章になっている。
その意味で、詩の背景、俳句の背景、私の精神の背景を書くことになっているので、その点で響きあるのだろうと思っている。
そして、夜遅くになって、夏の先生の手紙への返事を改めて書いた。今回も十分なお礼になっているかどうかは分からないが。