『詩を読む人のために』を読む一詩論的考察(一)

三好達治著『詩を読む人のために』を読む―― 詩論的考察(一)
髙橋正子

(一) はじめに
『詩を読む人のために』(三好達治著)を私が読んだのは岩波文庫(1991年第1刷、2007年26刷)で、杉本秀太郎の解説があるものだ。初版は至文堂「学生教養新書」として昭和27年(1952年)6月に書店の依頼で出版されている。

この文庫本は表紙がまだ新しいが、これを誰が、いつ、なんのために購入したかの記憶は曖昧で、私が購入したのではないかというほどである。この度、数度読み直し、名著であると確信した。そして、それ以上に三好達治の詩に対する純度が私の俳句の方向性と不思議なほど似ている、一致していると言っていいかも知れないと思った。三好達治が守り抜いた詩の純度は、私が俳句において探し続けてきた静けさと透明さの源流と響き合う。
その純度について少しだけ言うなら、戦後盛んだった民衆詩と、左翼思想の詩を採り上げなかったことである。それは、言葉を思想や運動の道具とせず、詩そのものの自律性を守ろうとする三好の姿勢の表れであり、その精神の純度こそが私の俳句の方向性と深く響き合っている。そして、その歩みをたどることは、私自身の俳句の歩みを照らし返すことでもあると思えた。私が長年ひとりで思いあぐんでいたことが、明らかになった。自分の俳句の置かれている位置がはっきりしたことは、大きな励ましとなった。

三好達治の詩について、ここで簡単に触れると、教科書にも掲載され、多くの人が触れたであろう「甃のうへ」「雪」「乳母車」などの詩には、言葉を澄ませることで世界の静けさを浮かび上がらせる姿勢が一貫している。その姿勢は、私の俳句が求める透明さと深く通じている。念のため、彼の詩集『測量船』から「甃のうへ」を挙げる。

「甃のうへ」
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音あしおと空にながれ
をりふしに瞳をあげて
かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺のいらかみどりにうるほひ
ひさし々に
風鐸ふうたくのすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまするいしのうへ

本書『詩を読む人のために』は、日本の明治以降の新体詩から昭和27年ごろまでの口語自由詩までを、三好達治の詩的純度をもって選ばれた詩作品が、歴史的変遷の推移を見せながら並んでいて、日本の詩の歩んできた道が明らかに見える一書である。
以下はその並び順、つまり、詩の歩み順にしたがって私の考察を加えながら読み、それを記したい。
なお、この文章では、一つの詩の中のまとまりを「連(れん)」と呼ぶことにする。三好はこれを「節(せつ)」、「聯(れん)」と呼んでいるが、私は外国語の詩を扱うこともあるため、用語を統一して「連」としている。

(二)「前書き」
前書きのなかで最も印象に残る言葉は、次の一文である。
「誰かも言ったように、詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だからであります。」
これは、読者を安易に「詩人」として持ち上げるための言葉ではない。むしろ、詩を読むとはどういうことかを示す一文である。詩を読むには、読む前に心に詩を受け取る準備ができていることが必要だと思う。その準備とは、日々の思いや経験が静かに存在し、言葉に応じる感受性がどこかで息づいている状態である。何も感じておらず、何も考えていない心には、詩の言葉は空気のごとく通り過ぎてしまうだろう。

また、さまざまな詩を虚心に平らかな精神で受け入れてゆくことの楽しさを、三好は「詩を読む遍歴」と呼んでいる。詩を通して、他者の繊細な思いや深い思考、見知らぬ世界や気づかなかった感情に出会うこと。それらはすべて、詩を理解するための大切な経験である。さまざまな詩を読むことで、詩がよりよく読めるということ。結局のところ、詩を読むとは、人間の心の多様さと深さを学ぶことなのだと思う。このことを詩を読む人は心がけるとよいと言うのだ。

(三)新体詩から象徴主義の詩へ
①島崎藤村
明治の新体詩(西洋詩を参照しながら日本語で新しい詩形を作ろうとした運動全体)は明治十年代を草創期としている。明治の詩が“詩”というジャンルを自覚して歩み始めた一連の流れである。島崎藤村は、新体詩の中から立ち上がった抒情詩人である。本書では、明治33年の「千曲川旅情の歌」が読み解かれている。この詩の詩碑は、小諸の懐古園の千曲川を下に見る位置にあり、人口に膾炙されている。私も俳句大会で訪れた折に目にしている。

三好は、第一に、自然で透明な抒情をもつ「千曲川旅情の歌」を採り上げ、その「音」を精密に分析し、「五七調の一面単調なその調子を最も巧みに生かし切った、それをこの作品のかけがえのない長所とした、見事な場合」としている。また、「この詩の比類のない魅力はそれはいわばこの詩の比類のない単純さにかかっています。」と詩の単純さをあげている。そして否定形による形象的要素が少ない点を挙げている。これは極めて身軽な精神状態、単純な心理状態に読者は置かれると言うことを意味する、とする。

これを三好は総括して、「『千曲川旅情の歌』の大きな魅力は、その内容の単純さ、その内容における形象要素の打消し、いい意味でのそのとりとめのなさから来る単純さと、それから先に言った音韻的成功との、二者が表裏をなしていて、読者の主観的気分がそのために、一方では自由に解き放たれ、一方では濃厚に凝縮される、そういう作用をその詩がもっているからであろうと、」五七調の音楽性と内容の単純さが巧みに絡んで、詩的効果が発揮されているというのである。「音楽性と単純さ」は詩の基本であろうと私は思う。三好も詩の歴史の順序ではあるが、一方で「音楽性と単純さ」を詩の第一と考えたのではないかと思う。言葉が思想の道具として濁ることを嫌った三好にとって、音楽性と単純さこそが詩の自律性を守る要であった。

②薄田泣菫、蒲原有明
日本の詩は、藤村の自然な透明な抒情の詩から、濃密な象徴の霧をまとった詩へと歩んでいった。その初めに現われたのが薄田泣菫、蒲原有明である。三好によると、彼等は、明治38年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』のフランス象徴主義の諸訳詩の影響を受けたとしている。彼等の詩は、感覚的(思想的にも)、構造的に複雑精緻に、一読ではすらりと意味がとりがたいものとなっている。

「ああ大和にあらましかば」(『白羊宮』明治39年刊)
薄田泣菫
この詩の題名の意味は、「大和にいたならばよかったのに」である。ただし、これは詩の本文を思想的に意味付けすることとは別である。私が避けたいのは、「古代精神への希求」というような大きな物語に詩を回収してしまう読み方である。詩の言葉は、書かれたとおりに、書かれたように読むべきであり、そこに余計な思想や感傷を上乗せしない態度が重要である。後で述べるが、三好もその読み方をしていることに、私は安心と納得を得た。

詩のなかに「夢殿」が出てくることから、また、「往きこそかよへ、斑鳩へ。」や最後の二行の「聖ごころの暫しをも知らましを、身に。」からも、この詩の場所は法隆寺辺りと想定してよいと思われる。そうすれば、詩の場面が浮かび、形象さまざまが心に浮かびやすい。泣菫の場合、象徴主義の霧は、完全に抽象ではなく、古代の空気をまとった具体の上に立ち上がる霧なのである。象徴化された古語の美しさと、それだけの難解さを感じる詩だ。耳慣れぬ美しい古語が並び、折り重なり、詩は象徴の霧を濃くまとって、大和は遠く、憧憬の世界にある。詩は三連からなり、それが場面の切り代わりと見えるが、これは象徴の焦点の移動である。それを三好が読み進め、詩的言語で解きほぐしてくれる。

第一連は、空想の時節神無月の、神無備の森を、三好の解釈に導かれながら、古語の香気をまとって立ち上がる。
第二連は、再び野外の景となり、新しい畑や路を主人公は歩んでゆく。この「新墾(にいばり)路の切り畑」の「新墾」は、私の解釈であるが、奈良の都が拓かれ栄えていく新しさを示しつつ、その背後に古代の息づかいを感じさせる語であり、詩の気配は古代的である。明るい橘の白い花の匂いに、どこからか、静かな機織り歌だろうか、聞こえる。「ふとこそみまし」は、「ふと目をやるならば」の仮定で情景が置かれ、黄鶲(きびたき)を登場させる。「仮定想像は同時に希望の気持ちが含まれる」と三好は言う。黄鶲のおどけた芸人のような動き、さらに想像を進めて、野の法子児が化けたのではとまで恐れをいだく。そして、詩の収束に向けて、来かかった寺院の暮色の奥から、なにか幽玄な趣の読経の声が聞こえる。そして読経の声はそこらを歩く人の心に沁みるであろうと、詩はしめくくる。三好はこのあたりは、「技巧の妙を極めている」という。
以下のところであろう。
「――これやまた、野の法子児の/化けものか、夕寺深に声ぶりの、/読経や、/今か、静こころ/そぞろありきの在り人の/魂にしも沁み入らめ。」
この象徴の重層性と、飛躍の自然さ、そして読者の心に沁み入るような収束の仕方を言うのである。読者は象徴の言葉によって、どこまでも現実の大和に居るかのような気持ちにさせられるのである。大和を経験させてくれるのである。これが泣菫の詩の体質であろう。

第三連は二連ほど技巧の妙はなく、夢殿の庭が具体的に想起され、引き続き暮景である。景色は、木がくれに日が落ち、扉も軋もうかという夕寒の夢殿の庭。そこを浮き歩む若き秀才の僧たち。庭を走る乾いた木々の葉。仰げば高塔や九輪が見え、花に照りそう眺め。「ああ大和にあらましかば」が収束へ向け繰り返され、「聖こころの暫しをも/知らましを、身に。」と身体感覚で終わる。三好は、泣菫が景色を把握する場合、「たたずまひ」の言葉が使われているのを少しだけ指摘している。「たたずまひ」の掴みは、象徴化の方向と通じるのではと私は思う。

三好の文章の良さは、詩を「書かれたとおりに、書かれたように」読んでいることである。三好の文章は「このようなことを言おうとしてる」ではなく、「このように言っている」という文章である。よくある読み方として、「今では無くなってしまった透明な精神文化への希求である」という読みではない。詩に意味付けをしないのだ。詩に意味付けをしないということは、詩を「何かの象徴」や「時代精神の表現」として回収しない、ということである。詩を自分の思想や感傷の器にしてしまわず、ただその言葉がそのように在ることを、そのまま受け取る態度である。意味付けとは、しばしば詩を「わかりやすい物語」に変換する操作だが、そのとき詩の中にある微細な揺らぎや、言葉と言葉のあいだの沈黙は、切り捨てられてしまう。三好が、詩人として、言葉に忠実に、言葉を読んでいることがわかる。自分の感情や思いを上乗せしていないのである。これはなかなか難しいことで、よほどの訓練と精神純度がないとできないことである。詩の純度を保つためには、重要なことである。

「智慧の相者は我を見て」(『有明集』明治41年刊)
蒲原有明
三好は、「智慧の相者は我を見て」について、この詩は、ソネット形式(4・4・3・3行の14行詩)で書かれていると指摘する。しかし、ソネットの音韻は減退している。詩行は五七調と七五調の言葉を組み合わせて書かれており、形式は整えられていると言う。続けて、「形体こそ短小であるが、構成と、一種弁証法的なかかリ結びとの上で、極めて複雑にまた厳密に作り上げられている。そして思索的深さにおいても人間精神の問題に触れる微妙な観点態度を含んでいる」、と解説する。泣菫の精巧繊細な象徴詩に比べると語彙語法が大づかみで、描写的要素は欠くが、暗示はかえって豊かで陰翳が深く、おっとりして重量感がある、とする。

この詩の「相者」は人相見、つまり占い師のことであるが、智慧ある人相見である。この詩での「相者」は、一半面は自分の内面であり、一半面は客観的な視点からの自分を書いていて、二重性を三好は指摘している。有明の思索の深さや精神の有り様がよくわかる。

三好はここで、リルケについては何も語っていないが、三連目の詩句から、私は存在論的な意味合いを感じ取った。また、有明がリルケの同じ生年であることも、偶然とは言え、私には暗示的に思える。この時期に、西洋と日本とで同時に存在を問う詩があることをどのように考えればよいのであろうか。同時代的精神の共鳴として読む方向が考えられるのではないか。有明詩を読むとき、私は、リルケの詩を読むときのように、精神を極度に集中しなければいけないような感覚を覚える。私自身の精神の内奥の何かへと導かれる感覚でもある。ここで私の観点から重要なことは、有明のこの詩に「存在論的意味合いを感じる」の「存在論的」の語には、読みの段階での気付きで、ここで立証を行う必要はない。

眼をし閉れば打続く沙(いさご)のはてを
黄昏に頸垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獣かととがめたまはめ、

この三行は、「嫋やげる君のほとりを」逃れたら、黄昏の砂漠を飢えてさまよう獣ではないかと自分を思う場面である。そこを「もののかげ」から続けて書いているのは、自己の存在を「もののかげ」と認識し、「飢えてさまよふ獣」とまで言う。その思索は、存在が影となるような存在の危機感からの、自己の内面への掘り下げである。

次に有明の「霊の日の蝕」「茉莉花」に二篇が解説されている。有明の詩には、魂の問題、霊肉相克の主題が力強く取り上げられるという。
「霊の日の蝕」も、形式的にはソネットを意識した十四行である。日蝕を象徴的に詠んだ詩だが、光が消えたときに、おぞましさが立ち上がっている。一連、二連は日蝕の現象を描写しながら、光りの消滅は、理性や秩序、霊性の覆いが外れた時人間の内に潜む混沌が立ち上がりを意味している。この混沌の立ち上がりを、私は感覚的に古事記的な「おぞましさ」と受け取っている。
また、一連の第一行
「時ぞともなく暗ろうなる生(いのち)の局(とぼそ)」
の「生(いのち)」は、個体の生命だけでなく、日本古来の「いのち」の把握を背後に響かせている。つまり、自然・祖先・共同体と連続する流れとしての「いのち」、万物に霊が宿るという自然観、死を断絶ではなく形を変えた存続とみなす祖霊観が支えている。したがって「いのち」は肉体的生存よりも、存在の気配としての生を指し示すと読むのが妥当であろう。この詩行に、その古層の生命観が潜んでいると考えらる。同時に、霊肉相克や個の孤絶といった近代的主題を強く抱えている。「局(とぼそ)」が示す閉ざされた小空間は、連続性から切り離された孤立した個の生の暗がりをも象徴する。
したがって、この「生(いのち)」は、
① 日本古来の連続的・霊的な生命観と
② 近代的自我としての孤絶した「生」
が重ねられた、多層的な語として読むのが最も自然である。
光が消えたときに立ち上がる「おぞましさ」は、古事記的混沌の感覚と、近代的自我の暗部が響き合う象徴構造を形成している。終連で幽かに精神が立ち上がる逆説性は、天岩戸の暗闇を思わせる世界観の中で、霊的光の微かな回復を示すものと読める。
三連、四連はまさにそのおぞましさの表現である。この部分は、有明の象徴構造と思える。終わりの二行に至って、幽かに精神が立ち上がっている。逆説的に光が消えた時に精神が立ち上がるということか。古事記の天岩戸が閉じられた世の暗さが想像される。
噫、仰ぎ見よ、
微かなる心の星や、霊の日の蝕。

「茉莉花」について、三好は「恋愛の純粋性と欲情その他との搦みあい相克は、いったいにロマン派以後の近代文学ないしは自然主義文学の一つの主題となったところのもの」としている。「人間心性のこの問題を、深く切実に詩人自らの問題として、その間の心情のたゆたいが美しく歌われている。」と解説する。この詩には古語や雅語が使われ、「智慧の相者は我を見て」や「霊の日の蝕」のような、存在や魂の底を覗くような心はない。美しく歌われている。三好が末行の「貴(あ)てにしみらに」をよく味わうように提示しているが、この部分は、この詩の、もっともの美しさを示している。その直接の意味は「上品に白んで」であるが、「夜明け・霧・雪・衣の白さなどが、そっと立ち上がる感じ」を表現している。ここは「白の色彩が示す淡い霊性」の象徴的日本の美の立ち上げであろう。
一連の
阿芙蓉(あふよう)の萎え艶めけるその匂ひ
三連の
生絹(すずし)の衣の
衣ずれのおとのさやさやすずろかに
四連の
貴(あ)てにしみらに。
は特に美しく歌われている。阿芙蓉は、芥子のことである。
二連の
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
は、三好のいう詩人の切実さであろう。この詩人の内の切実さは有明詩の特徴と言えるのはないかと思う。

三好によると、象徴詩のいわゆる「象徴」が、単なる比喩以上の広く深い「把握」とその鋭い繊細な「摘出」を意味していると言う。これは、私が俳句の創作において、顧みれば同じことをしている。私の作句方法を図らずも知ることになった。象徴詩的方法を用いていることになる。三好の明晰な詩の読み方が詩の外側からの批評とすれば、私のこの詩論的考察は詩の内側から静かに照らす考察となっていることに気づく。

③北原白秋・三木露風
藤村から時を経ずして泣菫、有明へ詩が変遷して行った。泣菫、有明の象徴主義の濃密な霧が立ち昇ったことは、私には驚きである。またリルケと同時代的共鳴が有明詩に見られ、「存在」の意味が深く問われていることに驚くのである。

「邪宗門秘曲」 北原白秋
この詩は北原白秋の『邪宗門』の巻頭の詩である。大変勉強家の白秋は図書館に通いつめてこの詩を書いたと解説している。つまり、ここに使われている語彙が江戸時代に使われていた言葉で、現代の、当時のひとたちにも耳馴染みのない言葉である。三好の詩の読みは、平らかな精神で一字一句、文法に照らし、言葉の意味を正確に取り、自分の類推を入れない読みで、この詩の解説からも明らかである。

三好が「いただいたことがない、」「少しく疑問に思う。」とした解説の部分を私がネットで調べたことを、以下に説明を添えて置く。

「亜刺吉珍酡の酒は、いただいたことはありませんが、いずれ南蛮渡りの珍酒に違いありません。」の、「亜刺吉珍酡の酒」は、次のような酒を指している。
「亜刺吉(あらき)」は、イスラム圏の蒸留酒「araki」の日本での呼称で、琉球から薩摩、そこから全国に伝わったとある。
「珍酡」はポルトガル語の「tinto(ティント)(赤)・vinho(ヴィーニョ)(ワイン)」からの呼称で赤ワインのことである。

また「あんじゃべいいる」を江戸時代はそのように呼ばれていて、三好はオランダセキチクと説明している。これは今言う「カーネーション」のことである。「匂鋭(と)きあんじゃべいいる」の「匂鋭き」を三好は「これは匂いが高いかどうかは知りません、少しく疑問に思います。」の部分について、カーネーションは現在は切り花にするものが多く匂いがないが、スパイシーな匂いのものや、甘い匂いのものもあると言う。

「邪宗門秘曲」の語彙が、歴史的事実をともなって使われていることは白秋の詩の言葉が誠実であることを示している。つまり白秋は、異国趣味を「雰囲気」で書いたのではなく、歴史的語彙の精度を徹底して追求した上で詩を構築したということになる。

 

 

 

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■令和8年度会費納入者一覧

●令和8年度年会費は3万円です。どうぞよろしくお願いいたします。
2025年11月10日
花冠主宰/髙橋正子

■令和8年度会費納入者一覧(11名33万円)
2025年
◆11月06日:藤田洋子◆11月08日:川名ますみ◆11月09日:友田 修
◆11月09日:土橋みよ◆11月10日:小口泰與 ◆11月11日:高橋秀之
◆11月11日:吉田 晃◆11月12日:柳原美知子◆11月22日:廣田洋一
◆12月01日:多田有花◆12月12日:上島祥子◆

★令和9年年会費納入者一覧(1名3万円)
2026年1月14日:友田修

■令和8年度維持費納入者一覧(計42口)
2025年
◆11月09日:土橋みよ(10口)◆11月12日:柳原美知子(5口)
◆12月29日:藤田洋子(2口)◆12月12日:上島祥子(5口)
New2026年
◆1月06日:祝 恵子(10口)◆1月19日:川名ますみ(10口)

■誌代(計15冊12400円)
New2025年
12月29日:藤田洋子3冊2400円
12月31日:三谷美貴1冊800円
New2026年
1月05日:谷井紀夫 1冊800円
1月06日:小池郁子 1冊800円
1月06日:姫田みゆき1冊800円
1月19日:青野郁恵 1冊800円
1月19日:吉田晃   2000円
1月19日:川名ますみ2冊 1600円
1月19日:青野郁恵1冊800円
1月23日:池田尊之1冊800円
2月10日:大久保美香子1冊800円

       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●令和7年度年会費は2万円です。物価高に対応するため、維持費(一口千円)をお願いしています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
2024年10月15日
花冠主宰/髙橋正子

■令和7年度維持費納入者一覧(一口千円/計144口)
2025年
NEW◆2月12日:吉田晃(3口)◆7月12日:土橋みよ(5口)◆7月22日:吉田晃(10口)◆9月8日:森下朋子(2口)◆

■令和7年度会費(2万円)納入者一覧(計13名)
◆10月16日:小口泰與◆10月31日:藤田洋子◆11月03日:廣田洋一◆
◆11月07日:吉田晃◆11月07日:柳原美知子◆11月15日:友田修◆
◆12月02日:弓削和人◆12月12日:高橋秀之◆12月13日:川名ますみ◆
◆12月13日:土橋みよ◆12月13日:桑本栄太郎◆12月19日:上島祥子◆
◆12月30日:多田有花◆

2024年
◆10月16日:小口泰與(10口)◆
◆10月16日と12月13日:川名ますみ(20口)◆
◆10月31日:藤田洋子(10口)◆11月03日:廣田洋一(5口)◆
◆11月07日:吉田晃(10口)◆11月07日:柳原美知子(10口)◆
◆11月15日:友田修(10口)◆12月02日:弓削和人(4口)◆
◆12月4日:祝恵子(10口)◆12月12日:高橋秀之(10口)◆
◆12月13日:土橋みよ(5口)◆12月13日:桑本栄太郎(5口)◆
◆12月19日:上島祥子(5口)◆12月30日:多田有花(10口)◆

花冠1月号(No.374)発送のご案内

花冠1月号が、昨夕刷り上がりましたので、12月28日午前中に、綱島郵便局から発送しました。郵便事情にもよりますが、12月31日か、1月5日に届く見込みです。届きましたら、その旨、このコメント欄にお書きください。

また、月例ネット句会の賞品も同じく綱島郵便局から発送しています。
こちらもお手元にとどきましたら、このコメント欄にてご一報ください。

今年も、ご支援、ご協力ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。

2025年12月28日
花冠代表 髙橋正子

電子書籍『特定保健指導の闇』(多田有花著)出版―(1)

花冠同人の、多田有花さんが、Kindle版電子書籍
『特定保健指導の闇:健康情報は守られているか』を出版されました。
以下、有花さんからのメールです。
突然ですが、このたび、電子書籍(Kindle本)を出版しました。俳句とは直接関係はないのですが、お読みいただければと思いご案内をさしあげます。
📖『特定保健指導の闇:健康情報は守られているか』
私は1年前からある大手企業と契約して遠隔で特定保健指導を請け負っていました。そこで体験したこと、目撃した問題を記録としてまとめたものです。ちょっと信じがたいような話でして…。
【Kindle本とは?】 Amazonが提供する電子書籍です。 専用の端末がなくても大丈夫!
【どうやって読むの?】
📱 スマホの場合
「Kindleアプリ」を無料ダウンロード (iPhone→App Store、Android→Google Play)
Amazonアカウントでログイン
本を購入すれば、すぐ読めます
💻 パソコンの場合 Amazonで購入後、ブラウザで読めます (Kindle Cloud Readerを使用)
🔍 探し方 Amazonで「特定保健指導の闇」で検索 または「多田有花」で検索してください
価格:500円
電子書籍は初めてでも、 スマホで普通にネットを見るのと同じ感覚で読めます。

原稿のお願い/『俳句の杜2025』洋子100句について

花冠No.374(1月号/2026年)の原稿依頼

『俳句の杜2025』の藤田洋子さんの100句の特集をいたします。100句のなかから、好きな句を7句えらび、そのうち2句に感想を、下のコメント欄にお書きください。よろしくお願いいたします。
●好きな句7句
●好きな句7句のうち、2句にコメントを書いてください。
●締め切りは、11月15日です。

以上よろしくお願いいたします。
2025年10月17日
花冠代表 髙橋正子

俳句の杜2025/藤田洋子100句掲載

この度、本阿弥書店から『俳句の杜2025』が発行されました。
花冠からは、花冠同人の藤田洋子さんが参加されました。洋子さんの100句が掲載されています。
『俳句の杜2025』は、洋子さんから、皆様へ贈呈されておりますが、届いていますでしょうか。お礼や感想は、直接洋子さん宛てお送りするか、このコメント欄にお書込みください。
花冠代表 髙橋正子
2025年10月16日

お知らせ/重要

お知らせ(重要)

暑中お見舞い申し上げます。
「自由な投句箱」をご利用いただき、ありがとうございます。このたび、現在利用しているNTTドコモが提供するgoo.blogが11月をもってサービスを終了します。

サービス終了にともない、花冠ブログをすべて移転します。移転先は移転終了後にみなさまにお知らせし、これまでどおりの活動ができるようにします。移転作業のために、下記の期間ブログへの書き込みを禁止します。またその期間を花冠の夏休みとします。8月月例ネット句会はお休みです。ご協力、よろしくお願いいたします。

   記
ブログ移転作業期間:8月1日(金)~8月15日(金)

花冠夏休み    :8月1日(金)~8月15日(金)

8月月例ネット句会:休会

(移転作業の進み具合により、予定が変更される場合がありますので、ご了承ください)。
                  2025年7月21日
                      花冠代表 髙橋正子

自由な投句箱/7月21日~7月31日

※当季雑詠3句(夏の句)を<コメント欄>にお書き込みください。
※投句は、一日1回3句に限ります。
※登録のない俳号やペンネームでの投句は、削除いたします。(例:唐辛子など)
※★印の基準について。
「心が動いている」句を良い句として、★印を付けています。

今日の秀句/7月21日~7月31日

※コメント欄への書き込みはできません。ブログ移転のためです。

7月31日(1句)

★炎熱の故郷へつづく九号線/桑本栄太郎
九号線と言うのは、京都から下関まで、福知山、鳥取、松江、浜田、益田 などを通る西日本最長の国道。
故郷へと辿るには、この炎熱の国道を通らねばならない。故郷への道がこんなにも暑い。しかし懐かしい人たちと会うにはこの道を通らねばと言う覚悟が見える。(髙橋正子)

7月30日(2句)

★姉妹行く有馬の湯へと谷崎忌/桑本栄太郎
谷崎文学の陰翳礼讃の世界に、姉妹の朗らかさが差し込んで、からっとした現代の句になっている。有馬の湯も関西文化を好んだ谷崎への追慕がしのばれる。(髙橋正子)

★いつの間に姿増えたり夏つばめ/多田有花
「いつの間に姿増えたり」のリズムが波形を描くように滑らかで軽ろやかさがあるのがいい。いつの間にか増えた夏つばめに夏のいよいよの深まりを実感する。(髙橋正子)

7月29日(1句)

★一木の重たげにあり蝉しぐれ/桑本栄太郎(正子添削)

一木の存在感を出すために「重たそうなり」を「重たげにあり」と添削した。蝉しぐれを重量として抱えている木の地についた存在感が感じられる。(髙橋正子)

7月28日(1句)

★晴れし朝磯鵯の窓辺に来る/多田有花

磯鵯と言えば、わが家近くの電線に止っているところを先日見かけた。都会の住宅地にもいる。晴れた夏の朝、窓辺まできた警戒感のない磯鵯の可愛らしさ、親しさがうれしい。(髙橋正子)

7月27日(3句)

★故郷の山を仰ぎて帰省かな/廣田洋一
佳句だが、帰省と山を仰ぐ所作には、類句が多くあって個人的な感情が薄まっているのが惜しい。山の描写をくわえると、既視感を超えることができると思う。(髙橋正子)
 
★音のみの花火や山の向こうより/多田有花
「山の向こうより」が説明的ではあるが、空間の隔たりがはっきりしているので、これはこれでよいと思う。音に焦点をあてて音の後のしずけさに余情がうまれていていい。(髙橋正子)

★青天へ峰雲湧き立つ鈴鹿嶺/上島祥子
見える構図として迫力がある。「青天へ峰雲湧き立つ」はやや定型的なので、自分の気持ちを少し入れてみるのもいいと思う。(髙橋正子)

7月26日(2句)

★田舎より昔のままのまくわ瓜/桑本栄太郎
黄色い昔のままのまくわ瓜がと送られてきて、懐かしい時代に引き戻された気持ちになったのだろう。この甘さのまくわ瓜に私も郷愁を覚える。(髙橋正子)

★淵に身を浮かべ少年泳ぎけり/多田有花
あおみどりの深い水深に、ほっかり浮いて泳ぐ少年のナイーブさが印象付けられる。(髙橋正子)

7月25日(2句)

★初物の梨瑞々しくて喉越しぬ/土橋みよ
初物の梨の瑞々しさをそのまま詠んでいるが、素直な詠み方が梨のさっぱりとしたみずみずしい味にふさわしく好感がもてる。(髙橋正子)

★雲の峰連なり高さを競う空/上島祥子
雲の峰がたくさん湧き立って、高さを競っている。力強い夏の空に気持ちが前向きに明るくなれる。(髙橋正子)

7月24日(1句)

★奥山のさらに彼方に入道雲/多田有花
雲はどこで生まれるのかは幼い心の疑問であったが、奥山のさらに彼方に入道雲が生まれるのだ。そこまで行ってみたい気がする。(髙橋正子)

7月23日(2句)

★炎天や前世のような浅間山/小口泰與
あまりにもの炎天に、あたりはしずまり返っている。動くものの気配も途絶え、浅間山は炎天の光を受けて噴煙を吐きながらも山の姿は止まっている。それらは前世かと思う感覚を募らせる。(髙橋正子)

 <七夕祭りの薬玉が飾られて>
★朝風に軽き音生む吹き流し/上島祥子
七夕飾りの吹き流しは、織姫の織り糸を表すとされている。朝のすずしい風に吹き流しがさらさらと軽い音を立ている。吹き流しのゆたかな色彩と朝涼の軽やかな音が七夕祭りにふさわしい。(髙橋正子)

7月22日

※該当句無し

7月21日(1句)

★土用波陽を返しつつうねり来る/廣田洋一

素直な表現のなかにも力強く土用波が詠まれている。「陽を返しつつうねり来る」の静かな観察に、読み手も土用波に一体化するような臨場感がある。(髙橋正子)