多田有花句集「序」

多田有花句集

有花さんの生活には、つねに動きがある。
海外から国内へ、あるいは近隣の寺社を訪ね
る小さな旅まで、その動きは絶えない。その
たびに視点は新しくなり、風景の捉え方が変
わっていく。移動は、有花さんにとって生活
そのものであり、句の新鮮な把握へとつなが
っている。この歩みが続くかぎり、視点は澄
み、確かな観察が結晶して句となる。
初期の登山の句には、有花さん独自の体験
が息づいている。一見、淡々とした写生句に
見えても、その背後には、危険に備える緊張
や、自然に身を置く潔さが静かに漂う。それ
を過不足なく表現するのが、有花さんの持ち
味である。
たとえば、次のような句である。
レーニア山バックパッキング
雪渓を落ちる流れの音高し
短夜やテントの外に明けていく
ケニア山・キリマンジャロ
サングラス空と氷河を映しけり
呼び交わすガイドの声や月明り
シュバルツバルト紀行
秋薊アルプス遠くかすみおり
シャモニ・モンブラン
ブルーベリー摘みつつ高きに登りけり
ヴァレー・ブランシュ氷河トレッキング
秋天はるかマッターホルンの影
モンテローザ登山
秋オリオン仰ぎてザイル結びけり
富士山頂俳句リーディング
富士山頂風に我が句を唱えけり
花束を持ちて夏野を帰り来る
白馬岳登頂
両腕に日焼けが留む山の色
北八ヶ岳縦走
秋澄むや明日踏む峰を指させり
秋の暮窓に寄り添い日記書く
大山登山
寒晴れや真白き尾根を風が研ぐ
また、有花さんは自転車やバイクで日本各
地を旅し、その体験は多彩で豊かである。
東北自転車旅行
十和田湖の水の碧さや蕗のとう
長崎・天草自転車旅行
頬を打つみぞれのやんで海見える
西国三十三か所バイク巡礼
山若葉抜けて琵琶湖の光りけり
大塔の礎石の上を夏の蝶

南四国自転車旅行
明けてくる水平線や秋怒涛

中国地方バイクツーリング
爆心にいまふたたびの若葉風

九州一周バイクツーリング
具雑煮を食べる島原薄暑かな

普段の生活においても、自分の人生を
まっすぐに生きる明るさと力強さがあり、
自然を見る目に誇張がなく、確かさがあ
る。そのまなざしが率直に句へと結ばれ
ている。

いくつか紹介しよう。

インラインスケート春の弧を描く
光る風追い越したくてペダル踏む
畑より両手に熱き真桑瓜
家中の鏡拭きあげ冬に入る
桜湧くヘッドライトへ次々と
花菖蒲切りて高さを生みにけり
聴診器ことりと置いて冴返る

旅と日常、そのどちらにも揺るぎない
眼差しを向ける有花さんの句は、読む者
に新鮮な風を運んでくれる。本句集が、
その豊かな世界への案内となれば幸いで
ある。
2026年5月
髙橋正子

『詩を読む人のために』を読む一詩論的考察(詩学への序章)(一)

三好達治著『詩を読む人のために』を読む
―― 詩論的考察(詩学への序章)(一)
髙橋正子

(一) はじめに
『詩を読む人のために』(三好達治著)を私が読んだのは岩波文庫(1991年第1刷、2007年26刷)で、杉本秀太郎の解説があるものだ。初版は至文堂「学生教養新書」として昭和27年(1952年)6月に書店の依頼で出版されている。

この文庫本は表紙がまだ新しいが、これを誰が、いつ、なんのために購入したかの記憶は曖昧で、私が購入したのではないかというほどである。この度、数度読み直し、名著であると確信した。そして、それ以上に三好達治の詩に対する純度が私の俳句の方向性と不思議なほど似ている、一致していると言っていいかも知れないと思った。三好達治が守り抜いた詩の純度は、私が俳句において探し続けてきた静けさと透明さの源流と響き合う。
その純度について少しだけ言うなら、戦後盛んだった民衆詩と、左翼思想の詩を採り上げなかったことである。それは、言葉を思想や運動の道具とせず、詩そのものの自律性を守ろうとする三好の姿勢の表れであり、その精神の純度こそが私の俳句の方向性と深く響き合っている。そして、その歩みをたどることは、私自身の俳句の歩みを照らし返すことでもあると思えた。私が長年ひとりで思いあぐんでいたことが、明らかになった。自分の俳句の置かれている位置がはっきりしたことは、大きな励ましとなった。

三好達治の詩について、ここで簡単に触れると、教科書にも掲載され、多くの人が触れたであろう「甃のうへ」「雪」「乳母車」などの詩には、言葉を澄ませることで世界の静けさを浮かび上がらせる姿勢が一貫している。その姿勢は、私の俳句が求める透明さと深く通じている。念のため、彼の詩集『測量船』から「甃のうへ」を挙げる。

「甃のうへ」
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音あしおと空にながれ
をりふしに瞳をあげて
かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺のいらかみどりにうるほひ
ひさし々に
風鐸ふうたくのすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまするいしのうへ

本書『詩を読む人のために』は、明治以降の新体詩から、この書が出版された昭和二十七年ごろの口語自由詩に至るまで、三好達治がその詩的純度によって選んだ作品を、歴史の推移に沿って配列した一書である。そこには、日本の詩が歩んできた道筋が、自然な流れとして立ち現れてくる。
以下では、その並び、すなわち詩の歩みの順に従って読み進めながら、私自身の考察を記したい。三好達治の詩の読み方を手がかりに、「詩はいかに読まれるべきか」、「詩とは何か」を探りつつ書き進めた文章である。
なお、この文章では、一つの詩の中のまとまりを「連(れん)」と呼ぶことにする。三好はこれを「節(せつ)」あるいは「聯(れん)」と呼んでいるが、私は外国語の詩を扱うこともあるため、用語を統一して「連」とした。

(二)「前書き」
前書きのなかで最も印象に残る言葉は、次の一文である。
「誰かも言ったように、詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だからであります。」
これは、読者を安易に「詩人」として持ち上げるための言葉ではない。むしろ、詩を読むとはどういうことかを示す一文である。詩を読むには、読む前に心に詩を受け取る準備ができていることが必要だと思う。その準備とは、日々の思いや経験が静かに存在し、言葉に応じる感受性がどこかで息づいている状態である。何も感じておらず、何も考えていない心には、詩の言葉は空気のごとく通り過ぎてしまうだろう。

また、さまざまな詩を虚心に平らかな精神で受け入れてゆくことの楽しさを、三好は「詩を読む遍歴」と呼んでいる。詩を通して、他者の繊細な思いや深い思考、見知らぬ世界や気づかなかった感情に出会うこと。それらはすべて、詩を理解するための大切な経験である。さまざまな詩を読むことで、詩がよりよく読めるということ。結局のところ、詩を読むとは、人間の心の多様さと深さを学ぶことなのだと思う。このことを詩を読む人は心がけるとよいと言うのだ。

(三)新体詩から象徴主義の詩へ
①島崎藤村
明治の新体詩(西洋詩を参照しながら日本語で新しい詩形を作ろうとした運動全体)は明治十年代を草創期としている。明治の詩が“詩”というジャンルを自覚して歩み始めた一連の流れである。島崎藤村は、新体詩の中から立ち上がった抒情詩人である。本書では、明治33年の「千曲川旅情の歌」が読み解かれている。この詩の詩碑は、小諸の懐古園の千曲川を下に見る位置にあり、人口に膾炙されている。私も俳句大会で訪れた折に目にしている。

三好は、第一に、自然で透明な抒情をもつ「千曲川旅情の歌」を採り上げ、その「音」を精密に分析し、「五七調の一面単調なその調子を最も巧みに生かし切った、それをこの作品のかけがえのない長所とした、見事な場合」としている。また、「この詩の比類のない魅力はそれはいわばこの詩の比類のない単純さにかかっています。」と詩の単純さをあげている。そして否定形による形象的要素が少ない点を挙げている。これは極めて身軽な精神状態、単純な心理状態に読者は置かれると言うことを意味する、とする。

これを三好は総括して、「『千曲川旅情の歌』の大きな魅力は、その内容の単純さ、その内容における形象要素の打消し、いい意味でのそのとりとめのなさから来る単純さと、それから先に言った音韻的成功との、二者が表裏をなしていて、読者の主観的気分がそのために、一方では自由に解き放たれ、一方では濃厚に凝縮される、そういう作用をその詩がもっているからであろうと、」五七調の音楽性と内容の単純さが巧みに絡んで、詩的効果が発揮されているというのである。「音楽性と単純さ」は詩の基本であろうと私は思う。三好も詩の歴史の順序ではあるが、一方で「音楽性と単純さ」を詩の第一と考えたのではないかと思う。言葉が思想の道具として濁ることを嫌った三好にとって、音楽性と単純さこそが詩の自律性を守る要であった。

②薄田泣菫、蒲原有明
日本の詩は、藤村の自然な透明な抒情の詩から、濃密な象徴の霧をまとった詩へと歩んでいった。その初めに現われたのが薄田泣菫、蒲原有明である。三好によると、彼等は、明治38年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』のフランス象徴主義の諸訳詩の影響を受けたとしている。彼等の詩は、感覚的(思想的にも)、構造的に複雑精緻に、一読ではすらりと意味がとりがたいものとなっている。

「ああ大和にあらましかば」(『白羊宮』明治39年刊)
薄田泣菫
この詩の題名の意味は、「大和にいたならば」である。「ましかば」は反実仮想で、この題名から「大和にいたらよかったのに」など大和朝廷時代への精神的な希求と読むのは、詩の純粋さから外れるという。古典の授業などでは、願望のニュアンスがあるように教えられるが、そこは慎重に読みとるべきなのである。泣菫の詩では、願望よりも象徴的距離の設定として働いているのである。題名が、詩の本文を思想的に意味付けすることとは別である。私が避けたいのは、「古代精神への希求」というような大きな物語に詩を回収してしまう読み方である。詩の言葉は、書かれたとおりに、書かれたように読むべきであり、そこに余計な思想や感傷を上乗せしない態度が重要である。後で述べるが、三好もその読み方をしていることに、私は安心と納得を得た。

詩のなかに「夢殿」が出てくることから、また、「往きこそかよへ、斑鳩へ。」や最後の二行の「聖ごころの暫しをも知らましを、身に。」からも、この詩の場所は法隆寺辺りと想定してよいと思われる。そうすれば、詩の場面が浮かび、形象さまざまが心に浮かびやすい。泣菫の場合、象徴主義の霧は、完全に抽象ではなく、古代の空気をまとった具体の上に立ち上がる霧なのである。象徴化された古語の美しさと、それだけの難解さを感じる詩だ。耳慣れぬ美しい古語が並び、折り重なり、詩は象徴の霧を濃くまとって、大和は遠く、憧憬の世界にある。詩は三連からなり、それが場面の切り代わりと見えるが、これは象徴の焦点の移動である。それを三好が読み進め、詩的言語で解きほぐしてくれる。

第一連は、空想の時節神無月の、神無備の森を、三好の解釈に導かれながら、古語の香気をまとって立ち上がる。
第二連は、再び野外の景となり、新しい畑や路を主人公は歩んでゆく。この「新墾(にいばり)路の切り畑」の「新墾」は、私の解釈であるが、奈良の都が拓かれ栄えていく新しさを示しつつ、その背後に古代の息づかいを感じさせる語であり、詩の気配は古代的である。明るい橘の白い花の匂いに、どこからか、静かな機織り歌だろうか、聞こえる。「ふとこそみまし」は、「ふと目をやるならば」の仮定で情景が置かれ、黄鶲(きびたき)を登場させる。「仮定想像は同時に希望の気持ちが含まれる」と三好は言う。黄鶲のおどけた芸人のような動き、さらに想像を進めて、野の法子児が化けたのではとまで恐れをいだく。そして、詩の収束に向けて、来かかった寺院の暮色の奥から、なにか幽玄な趣の読経の声が聞こえる。そして読経の声はそこらを歩く人の心に沁みるであろうと、詩はしめくくる。三好はこのあたりは、「技巧の妙を極めている」という。
以下のところであろう。
「――これやまた、野の法子児の/化けものか、夕寺深に声ぶりの、/読経や、/今か、静こころ/そぞろありきの在り人の/魂にしも沁み入らめ。」
この象徴の重層性と、飛躍の自然さ、そして読者の心に沁み入るような収束の仕方を言うのである。読者は象徴の言葉によって、どこまでも現実の大和に居るかのような気持ちにさせられるのである。大和を経験させてくれるのである。これが泣菫の詩の体質であろう。

第三連は二連ほど技巧の妙はなく、夢殿の庭が具体的に想起され、引き続き暮景である。景色は、木がくれに日が落ち、扉も軋もうかという夕寒の夢殿の庭。そこを浮き歩む若き秀才の僧たち。庭を走る乾いた木々の葉。仰げば高塔や九輪が見え、花に照りそう眺め。「ああ大和にあらましかば」が収束へ向け繰り返され、「聖こころの暫しをも/知らましを、身に。」と身体感覚で終わる。三好は、泣菫が景色を把握する場合、「たたずまひ」の言葉が使われているのを少しだけ指摘している。「たたずまひ」の掴みは、象徴化の方向と通じるのではと私は思う。

三好の文章の良さは、詩を「書かれたとおりに、書かれたように」読んでいることである。三好の文章は「このようなことを言おうとしてる」ではなく、「このように言っている」という文章である。よくある読み方として、「今では無くなってしまった透明な精神文化への希求である」という読みではない。詩に意味付けをしないのだ。詩に意味付けをしないということは、詩を「何かの象徴」や「時代精神の表現」として回収しない、ということである。詩を自分の思想や感傷の器にしてしまわず、ただその言葉がそのように在ることを、そのまま受け取る態度である。意味付けとは、しばしば詩を「わかりやすい物語」に変換する操作だが、そのとき詩の中にある微細な揺らぎや、言葉と言葉のあいだの沈黙は、切り捨てられてしまう。三好が、詩人として、言葉に忠実に、言葉を読んでいることがわかる。自分の感情や思いを上乗せしていないのである。これはなかなか難しいことで、よほどの訓練と精神純度がないとできないことである。詩の純度を保つためには、重要なことである。

「智慧の相者は我を見て」(『有明集』明治41年刊)
蒲原有明
三好は、「智慧の相者は我を見て」について、この詩は、ソネット形式(4・4・3・3行の14行詩)で書かれていると指摘し、ソネットの音韻は減退しているが、形式は整えられている、と言う。詩行が五七調と七五調の言葉を組み合わせて書かれているからである。続けて、「形体こそ短小であるが、構成と、一種弁証法的なかかリ結びとの上で、極めて複雑にまた厳密に作り上げられている。そして思索的深さにおいても人間精神の問題に触れる微妙な観点態度を含んでいる」、と解説する。泣菫の精巧繊細な象徴詩に比べると語彙語法が大づかみで、描写的要素は欠くが、暗示はかえって豊かで陰翳が深く、おっとりして重量感がある、とする。

この詩の「相者」は人相見、つまり占い師のことであるが、智慧ある人相見である。この詩での「相者」は、一半面は自分の内面であり、一半面は客観的な視点からの自分を書いていて、二重性を三好は指摘している。有明の思索の深さや精神の有り様がよくわかる。

三好はここで、リルケについては何も語っていないが、三連目の詩句から、私は存在論的な意味合いを感じ取った。また、有明がリルケの同じ生年であることも、偶然とは言え、私には暗示的に思える。この時期に、西洋と日本とで同時に存在を問う詩があることをどのように考えればよいのであろうか。同時代的精神の共鳴として読む方向が考えられるのではないか。有明詩を読むとき、私は、リルケの詩を読むときのように、精神を極度に集中しなければいけないような感覚を覚える。私自身の精神の内奥の何かへと導かれる感覚でもある。ここで私の観点からの重要なことは、有明のこの詩に「存在論的意味合いを感じる」の「存在論的」の語は、読みの段階での気付きで、ここで立証を行う必要はない。

眼をし閉れば打続く沙(いさご)のはてを
黄昏に頸垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獣かととがめたまはめ、

この三行は、「嫋やげる君のほとりを」逃れたならば、黄昏の砂漠を飢えてさまよう獣同然ではないかと自分を思う場面である。そこを「もののかげ」から続けて書いているのは、自己の存在を「もののかげ」と認識し、「飢えてさまよふ獣」とまで言う。その思索は、存在が影となるような存在の危機感からの、自己の内面への掘り下げである。

次に有明の「霊の日の蝕」「茉莉花」に二篇が解説されている。有明の詩には、魂の問題、霊肉相克の主題が力強く取り上げられるという。
「霊の日の蝕」も、形式的にはソネットを意識した十四行である。日蝕を象徴的に詠んだ詩だが、光が消えたときに、おぞましさが立ち上がっている。一連、二連は日蝕の現象を描写しながら、光りの消滅は、理性や秩序、霊性の覆いが外れた時人間の内に潜む混沌が立ち上がりを意味している。この混沌の立ち上がりを、私は感覚的に古事記的な「おぞましさ」と受け取っている。
また、一連の第一行
「時ぞともなく暗ろうなる生(いのち)の局(とぼそ)」
の「生(いのち)」は、個体の生命だけでなく、日本古来の「いのち」の把握を背後に響かせている。つまり、自然・祖先・共同体と連続する流れとしての「いのち」、万物に霊が宿るという自然観、死を断絶ではなく形を変えた存続とみなす祖霊観が支えている。したがって「いのち」は肉体的生存よりも、存在の気配としての生を指し示すと読むのが妥当であろう。この詩行に、その古層の生命観が潜んでいると考えらる。同時に、霊肉相克や個の孤絶といった近代的主題を強く抱えている。「局(とぼそ)」が示す閉ざされた小空間は、連続性から切り離された孤立した個の生の暗がりをも象徴する。
したがって、この「生(いのち)」は、
① 日本古来の連続的・霊的な生命観と
② 近代的自我としての孤絶した「生」
が重ねられた、多層的な語として読むのが最も自然である。
光が消えたときに立ち上がる「おぞましさ」は、古事記的混沌の感覚と、近代的自我の暗部が響き合う象徴構造を形成している。終連で幽かに精神が立ち上がる逆説性は、天岩戸の暗闇を思わせる世界観の中で、霊的光の微かな回復を示すものと読める。
三連、四連はまさにそのおぞましさの表現である。この部分は、有明の象徴構造と思える。終わりの二行に至って、幽かに精神が立ち上がっている。逆説的に光が消えた時に精神が立ち上がるということか。古事記の天岩戸が閉じられた世の暗さが想像される。
噫、仰ぎ見よ、
微かなる心の星や、霊の日の蝕。

「茉莉花」について、三好は「恋愛の純粋性と欲情その他との搦みあい相克は、いったいにロマン派以後の近代文学ないしは自然主義文学の一つの主題となったところのもの」としている。「人間心性のこの問題を、深く切実に詩人自らの問題として、その間の心情のたゆたいが美しく歌われている。」と解説する。この詩には古語や雅語が使われ、「智慧の相者は我を見て」や「霊の日の蝕」のような、存在や魂の底を覗くような心はない。美しく歌われている。三好が末行の「貴(あ)てにしみらに」をよく味わうように提示しているが、この部分は、この詩の、もっともの美しさを示している。その直接の意味は「上品に白んで」であるが、「夜明け・霧・雪・衣の白さなどが、そっと立ち上がる感じ」を表現している。ここは「白の色彩が示す淡い霊性」の象徴的日本の美の立ち上げであろう。
一連の
阿芙蓉(あふよう)の萎え艶めけるその匂ひ
三連の
生絹(すずし)の衣の
衣ずれのおとのさやさやすずろかに
四連の
貴(あ)てにしみらに。
は特に美しく歌われている。阿芙蓉は、芥子のことである。
二連の
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
は、三好のいう詩人の切実さであろう。この詩人の内の切実さは有明詩の特徴と言えるのはないかと思う。

三好によると、象徴詩のいわゆる「象徴」が、単なる比喩以上の広く深い「把握」とその鋭い繊細な「摘出」を意味していると言う。これは、私が俳句の創作において、顧みれば同じことをしている。私の作句方法を図らずも知ることになった。象徴詩的方法を用いていることになる。三好の明晰な詩の読み方が詩の外側からの批評とすれば、私のこの詩論的考察は詩の内側から静かに照らす考察となっていることに気づく。

③北原白秋・伊良子清白・三木露風
藤村から時を経ずして泣菫、有明へ詩が変遷して行った。泣菫、有明の象徴主義の濃密な霧が立ち昇ったことは、私には驚きである。またリルケと同時代的共鳴が有明詩に見られ、「存在」の意味が深く問われていることに驚くのである。

●北原白秋
「邪宗門秘曲」
この詩は北原白秋の『邪宗門』の巻頭の詩である。勉強家の白秋は図書館に通いつめてこの詩を書いたと解説している。つまり、ここに使われている語彙は、江戸時代に使われていた言葉で、現代の、また詩発表当時のひとたちにも耳馴染みのない言葉である。三好の詩の読みは、平らかな精神で一字一句、文法に照らし、言葉の意味を正確に取り、自分の類推を入れない読みで、この詩の解説からも明らかである。

三好が「いただいたことがない、」「少しく疑問に思う。」とした解説の部分を私がネットで調べたことを、以下に添えて置く。

「亜刺吉珍酡の酒は、いただいたことはありませんが、いずれ南蛮渡りの珍酒に違いありません。」の、「亜刺吉珍酡の酒」は、次のような酒を指している。
「亜刺吉(あらき)」は、イスラム圏の蒸留酒「araki」の日本での呼称で、琉球から薩摩、そこから全国に伝わったとある。
「珍酡」はポルトガル語の「tinto(ティント)・vinho(ヴィーニョ)」からの呼称で赤ワインのことである。

また「あんじゃべいいる」は、江戸時代はそのように呼ばれていて、三好はオランダセキチクと説明している。これは今言う「カーネーション」のことである。「匂鋭(と)きあんじゃべいいる」の「匂鋭き」を三好は「これは匂いが高いかどうかは知りません、少しく疑問に思います。」の部分について、カーネーションは現在は切り花にするものが多く匂いがないが、スパイシーな匂いのものや、甘い匂いのものもあると言う。

「邪宗門秘曲」の語彙が、歴史的事実をともなって使われていることは、白秋の詩の語彙が誠実であることを示している。つまり白秋は、異国趣味を「雰囲気」で書いたのではなく、歴史的語彙の精度を徹底して追求した上で詩を構築したということになる。「秘曲」の、われわれの常識には耳遠い、聞きなじみのない言葉については、自分はかいもく専門知識がない
が、読者の側からいうと、「いずれ文芸作品というものは、我々の常識で読むほかありませんから、私は特殊な研究態度をこの詩にむかってとるのでなく、はやり私のふだんなみの常識でもって読むほかありませんから、一応この詩を読み通します。」と述べている。文芸作品の読み方としては、もっとも常識的な態度であろうと思う。
三好は異国趣味の言葉を時代考証も含めて丁寧に解きほぐし、作品の瑕瑾(かきん)の可能性を率直に指摘している。評価の高い作品の瑕瑾を指摘するのはむずかしいことであるが、詩の純度のためには必要であろう。

私がこの「秘曲」に面白さを思うのは、三好がこの詩に宗教的な語が並ぶにもかかわらず、宗教的敬虔な背景の支えを見ず、異国趣味の語の並びに音楽性と、泣菫や有明より軽やかな象徴性と見るところだ。それが、何を意味するか私見ではあるが、軽やかな象徴は、読者の読みをより解放していると思われる。第四連から、それを見てみよう。
「あるは聞く、化粧(けわい)の料(しろ)は毒草のはなよりしぼり、
腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、」
は、森の魔女の出現の物語さえ想像させ、腐れたる石の油は、石油のことであって、黒く濁った油で画かれた異様なイメージの聖母像を立ちあがる。具体物の石油を通して精神的暗さを象徴させている。また、第五連に至っては、宗教的敬虔などは最初から問題にしていないので、措辞を巧みに、自らをイエスに大胆になぞらえ、三好が言うように「一気呵成に書かれた詩」の面白さを見せている。
最後に修辞法として、最近稀に見るが、第三連の
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵞絨(びろうど)の薫(くゆ)りにまじり、
は、「天鵞絨」の肌触りの触覚を「薫り」の嗅覚のほうへ直ちに置き換え、そこに何らの連想をさせ、比喩の変換に持ち込んでいる。これは、白秋式の新式のやり方である、と三好は指摘する。

三好の内部から詩を照らし出す読みは、ここまでが限界である。泣菫や有明の詩には、詩の生成の必然が刻まれているが、それと対象的に白秋の「邪宗門秘曲」は、詩の生成の必然は詩そのものからは窺えない。白秋の宗教観、異国語への憧憬、象徴主義的感受性といった精神史の側に属しており、詩の外側へ視線を移す必要を感じさせる。そこを通過すれば、「邪宗門秘曲」の必然性が読者に受け止められるであろう。また、この書が年少の読者」に向けたものであり、この点については、そもそも視野に入れていない読みであったのだろうことは想像できる。

「謀反」
北原白秋「謀反」の第一行「ひと日、わが精舎の庭に、」は、作者の胸裡そのものを抽象化した場として読むことができると三好は言う。私はこの読みを適切なものと考えている。詩の経緯については、三好達治が述べるように、「―ある一つの感情がそこにおいて、次第に強度を増してゆく息苦しい思いを経験し、ついにはヴィオロンの盲しいるような具合に、破壊的な点にまで至る」のであり、その過程が作品の中心に置かれている。ただし、その息苦しさをもたらす「謀反」が何に対するものかは明らかではない。詩は、対象を特定しないまま高まっていく“ある感情”を、そのままの姿で示している。ここには、白秋の象徴主義に特有の、対象を曖昧に保つことで内的感情の輪郭をむしろ鮮明にする手法が働いている。
調子は波のようにやわらかく、象徴的で洒落たイメージが随所に置かれている。それらが詩にわかりやすさと音楽性を与え、パッショネートな感情と表現の柔らかさとが、独特の均衡を保っている。

●伊良子清白
伊良子清白は、詩史では欠かせない人となっているが、一般にはあまり知られていない。鳥取県に生まれ、その後主に西日本を移り住み、三重県で医院を開業し、戦火を避けての疎開を地を含め、晩年の30年を三重県で過ごしている。
詩史で重要視される理由が、三好の鑑賞と解説からわかる。それを引用するとつぎのようである。
「その清純温藉(おんしゃ)な、また高朗な詩風が今日までよろこばれています。」「泣菫・有明の心理的に(またその構成の上のも)複雑性を持った作品のあとで、このように単純な哀傷と一脈のわびさびしらとをたたえる作」

このような「単純な直叙体」の詩風は、人の心の本情に訴え、忘れかけては、また浮上するのであろう。こういう詩が日本の詩史にあることは、詩の層を深めていると言えよう。人間のこころの住処を用意されるような感じがする詩だ。
「漂白」は、「遠く故郷を離れ永らく異国をさまよった後、ふたたびそののふる郷に帰って来た」男が、蓆戸に秋風の吹く旅籠屋での「哀切な感情に自ら若やいだ」思いを詠んだ詩である。独り心のいよいよ裡にしみじみと思う感情と読める。
三好は、もう一篇清白の「秋和の里」をあげているが、これも「漂泊者の歌」である。「清純温藉(おんしゃ)な、また高朗な」と言う三好の表現がぴったりと合う作であろう。

●三木露風
北村白秋の『邪宗門』と三木露風の『廃園』はそれぞれ第一詩集であり、並べて称されているが、三好は少し疑問を抱いている。露風は第三詩集『白き手の狩人』あたりから詩境が充実したと三好は見ている。その理由からだろうか。三好は、『白き手の狩人』の「現身」は名作の名に恥じないものとしている。 その「現身」について、第1連はまさに詩であることを強く印象づけている。以下にそれを引用する。

春はいま空のながめにあらはるる
ありともしれぬうすぐもに
なやみて死ぬる蛾のけはひ。

この詩行からは、技巧が前景から退き、存在の気配が前面に出ているが、
これは、象徴の透明化と内面化である。それを三好は以下のように言っている。
「いったいに露風の象徴主義象徴的手法は、(中略)いっそう全体の調子がゆるやかで、(中略)いずれかと言うと平明簡易に(中略)さらりと推移を早く、横流しに流してすませるという行方かと思われます。」
「ありともしれぬうすぐも」「なやみて死ぬる蛾のけはひ」、これらは象徴語彙でありながら、象徴としての意味を主張せず、ただ“気配”として立ち上がっている。

また、素材として「蛾」が詠まれているが、日本では不吉なものとされる「蛾」を詠んだ詩は日本には無くはないが、むしろリルケが蛾の俳句を詠んだように、リルケのような特定の詩人の感受性において、蛾が“存在の象徴”として扱われることがある。「なやみて死ぬる蛾の気配」は存在論的と言えるものと私は思う。

それから、三好は『白き手の狩人』(大正二年)当時、口語自由詩運動の萌芽があり、それ以前の『邪宗門』『廃園』などにも、時代的風潮が間接的であれ、また見方によっては顕著に認められると言っている。そういったなかの「現身」は「平明簡易」の象徴主義的象徴を持っていると言う。

(四)新体詩以後における象徴主義的展開の整理
日本の詩(和歌と俳句を含まない)がいつどのように生まれたかを知ることは、「日本の詩」の根源を理解するうえで重要である。新体詩から島崎藤村の詩が生まれ、その後、上田敏『海潮音』の出版があり、とくにフランス象徴主義の影響を受けて、薄田泣菫・蒲原有明の象徴詩が現れた。さらに、北原白秋における象徴の音楽化・感覚化を経て、伊良子清白の特異な詩を挟み、三木露風に至っては象徴が内面化し、透明化(希薄化)してゆく。この推移は、象徴の濃度・質・透明度の変化を経て、やがて象徴は内面化し、軽やかさを帯び、ついには消失(直叙体)へと向かう。つまり、日本の詩の根源にはフランス象徴主義の影響が深く息づいており、その象徴の変遷こそが、日本の詩を生み出した発生装置であったと言えよう。日本の詩を読み解くとき、「象徴とは何か」という問いを避けることはできない。

そして、この象徴主義の変遷を私の俳句の核心に照らし合わせると、象徴主義の変遷と深く響き合っていることを知る。私の俳句の核心は、静けさ、透明さ、言葉の純度、象徴の気配、沈黙の倫理であり、これは、主義の濃度が薄まり、透明化し、気配だけが残る方向と完全に一致している。
私の俳句の核心の系譜は、ここに繋がっているのである。つまり、それを
俳句史で見ると、芭蕉の不易に繋がっているのである。

自分で自分の俳句を検証することは、本来ならあり得ないことであろう。しかし、現実として、私は自らの俳句を検証するほかないのである。ここにひとつの淋しさがある。
(©2026 髙橋正子)