『詩を読む人のために』を読む一詩論的考察(詩学への序章)(一)

三好達治著『詩を読む人のために』を読む
―― 詩論的考察(詩学への序章)(一)
髙橋正子

(一) はじめに
『詩を読む人のために』(三好達治著)を私が読んだのは岩波文庫(1991年第1刷、2007年26刷)で、杉本秀太郎の解説があるものだ。初版は至文堂「学生教養新書」として昭和27年(1952年)6月に書店の依頼で出版されている。

この文庫本は表紙がまだ新しいが、これを誰が、いつ、なんのために購入したかの記憶は曖昧で、私が購入したのではないかというほどである。この度、数度読み直し、名著であると確信した。そして、それ以上に三好達治の詩に対する純度が私の俳句の方向性と不思議なほど似ている、一致していると言っていいかも知れないと思った。三好達治が守り抜いた詩の純度は、私が俳句において探し続けてきた静けさと透明さの源流と響き合う。
その純度について少しだけ言うなら、戦後盛んだった民衆詩と、左翼思想の詩を採り上げなかったことである。それは、言葉を思想や運動の道具とせず、詩そのものの自律性を守ろうとする三好の姿勢の表れであり、その精神の純度こそが私の俳句の方向性と深く響き合っている。そして、その歩みをたどることは、私自身の俳句の歩みを照らし返すことでもあると思えた。私が長年ひとりで思いあぐんでいたことが、明らかになった。自分の俳句の置かれている位置がはっきりしたことは、大きな励ましとなった。

三好達治の詩について、ここで簡単に触れると、教科書にも掲載され、多くの人が触れたであろう「甃のうへ」「雪」「乳母車」などの詩には、言葉を澄ませることで世界の静けさを浮かび上がらせる姿勢が一貫している。その姿勢は、私の俳句が求める透明さと深く通じている。念のため、彼の詩集『測量船』から「甃のうへ」を挙げる。

「甃のうへ」
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音あしおと空にながれ
をりふしに瞳をあげて
かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺のいらかみどりにうるほひ
ひさし々に
風鐸ふうたくのすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまするいしのうへ

本書『詩を読む人のために』は、明治以降の新体詩から、この書が出版された昭和二十七年ごろの口語自由詩に至るまで、三好達治がその詩的純度によって選んだ作品を、歴史の推移に沿って配列した一書である。そこには、日本の詩が歩んできた道筋が、自然な流れとして立ち現れてくる。
以下では、その並び、すなわち詩の歩みの順に従って読み進めながら、私自身の考察を記したい。三好達治の詩の読み方を手がかりに、「詩はいかに読まれるべきか」、「詩とは何か」を探りつつ書き進めた文章である。
なお、この文章では、一つの詩の中のまとまりを「連(れん)」と呼ぶことにする。三好はこれを「節(せつ)」あるいは「聯(れん)」と呼んでいるが、私は外国語の詩を扱うこともあるため、用語を統一して「連」とした。

(二)「前書き」
前書きのなかで最も印象に残る言葉は、次の一文である。
「誰かも言ったように、詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だからであります。」
これは、読者を安易に「詩人」として持ち上げるための言葉ではない。むしろ、詩を読むとはどういうことかを示す一文である。詩を読むには、読む前に心に詩を受け取る準備ができていることが必要だと思う。その準備とは、日々の思いや経験が静かに存在し、言葉に応じる感受性がどこかで息づいている状態である。何も感じておらず、何も考えていない心には、詩の言葉は空気のごとく通り過ぎてしまうだろう。

また、さまざまな詩を虚心に平らかな精神で受け入れてゆくことの楽しさを、三好は「詩を読む遍歴」と呼んでいる。詩を通して、他者の繊細な思いや深い思考、見知らぬ世界や気づかなかった感情に出会うこと。それらはすべて、詩を理解するための大切な経験である。さまざまな詩を読むことで、詩がよりよく読めるということ。結局のところ、詩を読むとは、人間の心の多様さと深さを学ぶことなのだと思う。このことを詩を読む人は心がけるとよいと言うのだ。

(三)新体詩から象徴主義の詩へ
①島崎藤村
明治の新体詩(西洋詩を参照しながら日本語で新しい詩形を作ろうとした運動全体)は明治十年代を草創期としている。明治の詩が“詩”というジャンルを自覚して歩み始めた一連の流れである。島崎藤村は、新体詩の中から立ち上がった抒情詩人である。本書では、明治33年の「千曲川旅情の歌」が読み解かれている。この詩の詩碑は、小諸の懐古園の千曲川を下に見る位置にあり、人口に膾炙されている。私も俳句大会で訪れた折に目にしている。

三好は、第一に、自然で透明な抒情をもつ「千曲川旅情の歌」を採り上げ、その「音」を精密に分析し、「五七調の一面単調なその調子を最も巧みに生かし切った、それをこの作品のかけがえのない長所とした、見事な場合」としている。また、「この詩の比類のない魅力はそれはいわばこの詩の比類のない単純さにかかっています。」と詩の単純さをあげている。そして否定形による形象的要素が少ない点を挙げている。これは極めて身軽な精神状態、単純な心理状態に読者は置かれると言うことを意味する、とする。

これを三好は総括して、「『千曲川旅情の歌』の大きな魅力は、その内容の単純さ、その内容における形象要素の打消し、いい意味でのそのとりとめのなさから来る単純さと、それから先に言った音韻的成功との、二者が表裏をなしていて、読者の主観的気分がそのために、一方では自由に解き放たれ、一方では濃厚に凝縮される、そういう作用をその詩がもっているからであろうと、」五七調の音楽性と内容の単純さが巧みに絡んで、詩的効果が発揮されているというのである。「音楽性と単純さ」は詩の基本であろうと私は思う。三好も詩の歴史の順序ではあるが、一方で「音楽性と単純さ」を詩の第一と考えたのではないかと思う。言葉が思想の道具として濁ることを嫌った三好にとって、音楽性と単純さこそが詩の自律性を守る要であった。

②薄田泣菫、蒲原有明
日本の詩は、藤村の自然な透明な抒情の詩から、濃密な象徴の霧をまとった詩へと歩んでいった。その初めに現われたのが薄田泣菫、蒲原有明である。三好によると、彼等は、明治38年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』のフランス象徴主義の諸訳詩の影響を受けたとしている。彼等の詩は、感覚的(思想的にも)、構造的に複雑精緻に、一読ではすらりと意味がとりがたいものとなっている。

「ああ大和にあらましかば」(『白羊宮』明治39年刊)
薄田泣菫
この詩の題名の意味は、「大和にいたならば」である。「ましかば」は反実仮想で、この題名から「大和にいたらよかったのに」など大和朝廷時代への精神的な希求と読むのは、詩の純粋さから外れるという。古典の授業などでは、願望のニュアンスがあるように教えられるが、そこは慎重に読みとるべきなのである。泣菫の詩では、願望よりも象徴的距離の設定として働いているのである。題名が、詩の本文を思想的に意味付けすることとは別である。私が避けたいのは、「古代精神への希求」というような大きな物語に詩を回収してしまう読み方である。詩の言葉は、書かれたとおりに、書かれたように読むべきであり、そこに余計な思想や感傷を上乗せしない態度が重要である。後で述べるが、三好もその読み方をしていることに、私は安心と納得を得た。

詩のなかに「夢殿」が出てくることから、また、「往きこそかよへ、斑鳩へ。」や最後の二行の「聖ごころの暫しをも知らましを、身に。」からも、この詩の場所は法隆寺辺りと想定してよいと思われる。そうすれば、詩の場面が浮かび、形象さまざまが心に浮かびやすい。泣菫の場合、象徴主義の霧は、完全に抽象ではなく、古代の空気をまとった具体の上に立ち上がる霧なのである。象徴化された古語の美しさと、それだけの難解さを感じる詩だ。耳慣れぬ美しい古語が並び、折り重なり、詩は象徴の霧を濃くまとって、大和は遠く、憧憬の世界にある。詩は三連からなり、それが場面の切り代わりと見えるが、これは象徴の焦点の移動である。それを三好が読み進め、詩的言語で解きほぐしてくれる。

第一連は、空想の時節神無月の、神無備の森を、三好の解釈に導かれながら、古語の香気をまとって立ち上がる。
第二連は、再び野外の景となり、新しい畑や路を主人公は歩んでゆく。この「新墾(にいばり)路の切り畑」の「新墾」は、私の解釈であるが、奈良の都が拓かれ栄えていく新しさを示しつつ、その背後に古代の息づかいを感じさせる語であり、詩の気配は古代的である。明るい橘の白い花の匂いに、どこからか、静かな機織り歌だろうか、聞こえる。「ふとこそみまし」は、「ふと目をやるならば」の仮定で情景が置かれ、黄鶲(きびたき)を登場させる。「仮定想像は同時に希望の気持ちが含まれる」と三好は言う。黄鶲のおどけた芸人のような動き、さらに想像を進めて、野の法子児が化けたのではとまで恐れをいだく。そして、詩の収束に向けて、来かかった寺院の暮色の奥から、なにか幽玄な趣の読経の声が聞こえる。そして読経の声はそこらを歩く人の心に沁みるであろうと、詩はしめくくる。三好はこのあたりは、「技巧の妙を極めている」という。
以下のところであろう。
「――これやまた、野の法子児の/化けものか、夕寺深に声ぶりの、/読経や、/今か、静こころ/そぞろありきの在り人の/魂にしも沁み入らめ。」
この象徴の重層性と、飛躍の自然さ、そして読者の心に沁み入るような収束の仕方を言うのである。読者は象徴の言葉によって、どこまでも現実の大和に居るかのような気持ちにさせられるのである。大和を経験させてくれるのである。これが泣菫の詩の体質であろう。

第三連は二連ほど技巧の妙はなく、夢殿の庭が具体的に想起され、引き続き暮景である。景色は、木がくれに日が落ち、扉も軋もうかという夕寒の夢殿の庭。そこを浮き歩む若き秀才の僧たち。庭を走る乾いた木々の葉。仰げば高塔や九輪が見え、花に照りそう眺め。「ああ大和にあらましかば」が収束へ向け繰り返され、「聖こころの暫しをも/知らましを、身に。」と身体感覚で終わる。三好は、泣菫が景色を把握する場合、「たたずまひ」の言葉が使われているのを少しだけ指摘している。「たたずまひ」の掴みは、象徴化の方向と通じるのではと私は思う。

三好の文章の良さは、詩を「書かれたとおりに、書かれたように」読んでいることである。三好の文章は「このようなことを言おうとしてる」ではなく、「このように言っている」という文章である。よくある読み方として、「今では無くなってしまった透明な精神文化への希求である」という読みではない。詩に意味付けをしないのだ。詩に意味付けをしないということは、詩を「何かの象徴」や「時代精神の表現」として回収しない、ということである。詩を自分の思想や感傷の器にしてしまわず、ただその言葉がそのように在ることを、そのまま受け取る態度である。意味付けとは、しばしば詩を「わかりやすい物語」に変換する操作だが、そのとき詩の中にある微細な揺らぎや、言葉と言葉のあいだの沈黙は、切り捨てられてしまう。三好が、詩人として、言葉に忠実に、言葉を読んでいることがわかる。自分の感情や思いを上乗せしていないのである。これはなかなか難しいことで、よほどの訓練と精神純度がないとできないことである。詩の純度を保つためには、重要なことである。

「智慧の相者は我を見て」(『有明集』明治41年刊)
蒲原有明
三好は、「智慧の相者は我を見て」について、この詩は、ソネット形式(4・4・3・3行の14行詩)で書かれていると指摘し、ソネットの音韻は減退しているが、形式は整えられている、と言う。詩行が五七調と七五調の言葉を組み合わせて書かれているからである。続けて、「形体こそ短小であるが、構成と、一種弁証法的なかかリ結びとの上で、極めて複雑にまた厳密に作り上げられている。そして思索的深さにおいても人間精神の問題に触れる微妙な観点態度を含んでいる」、と解説する。泣菫の精巧繊細な象徴詩に比べると語彙語法が大づかみで、描写的要素は欠くが、暗示はかえって豊かで陰翳が深く、おっとりして重量感がある、とする。

この詩の「相者」は人相見、つまり占い師のことであるが、智慧ある人相見である。この詩での「相者」は、一半面は自分の内面であり、一半面は客観的な視点からの自分を書いていて、二重性を三好は指摘している。有明の思索の深さや精神の有り様がよくわかる。

三好はここで、リルケについては何も語っていないが、三連目の詩句から、私は存在論的な意味合いを感じ取った。また、有明がリルケの同じ生年であることも、偶然とは言え、私には暗示的に思える。この時期に、西洋と日本とで同時に存在を問う詩があることをどのように考えればよいのであろうか。同時代的精神の共鳴として読む方向が考えられるのではないか。有明詩を読むとき、私は、リルケの詩を読むときのように、精神を極度に集中しなければいけないような感覚を覚える。私自身の精神の内奥の何かへと導かれる感覚でもある。ここで私の観点からの重要なことは、有明のこの詩に「存在論的意味合いを感じる」の「存在論的」の語は、読みの段階での気付きで、ここで立証を行う必要はない。

眼をし閉れば打続く沙(いさご)のはてを
黄昏に頸垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獣かととがめたまはめ、

この三行は、「嫋やげる君のほとりを」逃れたならば、黄昏の砂漠を飢えてさまよう獣同然ではないかと自分を思う場面である。そこを「もののかげ」から続けて書いているのは、自己の存在を「もののかげ」と認識し、「飢えてさまよふ獣」とまで言う。その思索は、存在が影となるような存在の危機感からの、自己の内面への掘り下げである。

次に有明の「霊の日の蝕」「茉莉花」に二篇が解説されている。有明の詩には、魂の問題、霊肉相克の主題が力強く取り上げられるという。
「霊の日の蝕」も、形式的にはソネットを意識した十四行である。日蝕を象徴的に詠んだ詩だが、光が消えたときに、おぞましさが立ち上がっている。一連、二連は日蝕の現象を描写しながら、光りの消滅は、理性や秩序、霊性の覆いが外れた時人間の内に潜む混沌が立ち上がりを意味している。この混沌の立ち上がりを、私は感覚的に古事記的な「おぞましさ」と受け取っている。
また、一連の第一行
「時ぞともなく暗ろうなる生(いのち)の局(とぼそ)」
の「生(いのち)」は、個体の生命だけでなく、日本古来の「いのち」の把握を背後に響かせている。つまり、自然・祖先・共同体と連続する流れとしての「いのち」、万物に霊が宿るという自然観、死を断絶ではなく形を変えた存続とみなす祖霊観が支えている。したがって「いのち」は肉体的生存よりも、存在の気配としての生を指し示すと読むのが妥当であろう。この詩行に、その古層の生命観が潜んでいると考えらる。同時に、霊肉相克や個の孤絶といった近代的主題を強く抱えている。「局(とぼそ)」が示す閉ざされた小空間は、連続性から切り離された孤立した個の生の暗がりをも象徴する。
したがって、この「生(いのち)」は、
① 日本古来の連続的・霊的な生命観と
② 近代的自我としての孤絶した「生」
が重ねられた、多層的な語として読むのが最も自然である。
光が消えたときに立ち上がる「おぞましさ」は、古事記的混沌の感覚と、近代的自我の暗部が響き合う象徴構造を形成している。終連で幽かに精神が立ち上がる逆説性は、天岩戸の暗闇を思わせる世界観の中で、霊的光の微かな回復を示すものと読める。
三連、四連はまさにそのおぞましさの表現である。この部分は、有明の象徴構造と思える。終わりの二行に至って、幽かに精神が立ち上がっている。逆説的に光が消えた時に精神が立ち上がるということか。古事記の天岩戸が閉じられた世の暗さが想像される。
噫、仰ぎ見よ、
微かなる心の星や、霊の日の蝕。

「茉莉花」について、三好は「恋愛の純粋性と欲情その他との搦みあい相克は、いったいにロマン派以後の近代文学ないしは自然主義文学の一つの主題となったところのもの」としている。「人間心性のこの問題を、深く切実に詩人自らの問題として、その間の心情のたゆたいが美しく歌われている。」と解説する。この詩には古語や雅語が使われ、「智慧の相者は我を見て」や「霊の日の蝕」のような、存在や魂の底を覗くような心はない。美しく歌われている。三好が末行の「貴(あ)てにしみらに」をよく味わうように提示しているが、この部分は、この詩の、もっともの美しさを示している。その直接の意味は「上品に白んで」であるが、「夜明け・霧・雪・衣の白さなどが、そっと立ち上がる感じ」を表現している。ここは「白の色彩が示す淡い霊性」の象徴的日本の美の立ち上げであろう。
一連の
阿芙蓉(あふよう)の萎え艶めけるその匂ひ
三連の
生絹(すずし)の衣の
衣ずれのおとのさやさやすずろかに
四連の
貴(あ)てにしみらに。
は特に美しく歌われている。阿芙蓉は、芥子のことである。
二連の
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
は、三好のいう詩人の切実さであろう。この詩人の内の切実さは有明詩の特徴と言えるのはないかと思う。

三好によると、象徴詩のいわゆる「象徴」が、単なる比喩以上の広く深い「把握」とその鋭い繊細な「摘出」を意味していると言う。これは、私が俳句の創作において、顧みれば同じことをしている。私の作句方法を図らずも知ることになった。象徴詩的方法を用いていることになる。三好の明晰な詩の読み方が詩の外側からの批評とすれば、私のこの詩論的考察は詩の内側から静かに照らす考察となっていることに気づく。

③北原白秋・伊良子清白・三木露風
藤村から時を経ずして泣菫、有明へ詩が変遷して行った。泣菫、有明の象徴主義の濃密な霧が立ち昇ったことは、私には驚きである。またリルケと同時代的共鳴が有明詩に見られ、「存在」の意味が深く問われていることに驚くのである。

●北原白秋
「邪宗門秘曲」
この詩は北原白秋の『邪宗門』の巻頭の詩である。勉強家の白秋は図書館に通いつめてこの詩を書いたと解説している。つまり、ここに使われている語彙は、江戸時代に使われていた言葉で、現代の、また詩発表当時のひとたちにも耳馴染みのない言葉である。三好の詩の読みは、平らかな精神で一字一句、文法に照らし、言葉の意味を正確に取り、自分の類推を入れない読みで、この詩の解説からも明らかである。

三好が「いただいたことがない、」「少しく疑問に思う。」とした解説の部分を私がネットで調べたことを、以下に添えて置く。

「亜刺吉珍酡の酒は、いただいたことはありませんが、いずれ南蛮渡りの珍酒に違いありません。」の、「亜刺吉珍酡の酒」は、次のような酒を指している。
「亜刺吉(あらき)」は、イスラム圏の蒸留酒「araki」の日本での呼称で、琉球から薩摩、そこから全国に伝わったとある。
「珍酡」はポルトガル語の「tinto(ティント)・vinho(ヴィーニョ)」からの呼称で赤ワインのことである。

また「あんじゃべいいる」は、江戸時代はそのように呼ばれていて、三好はオランダセキチクと説明している。これは今言う「カーネーション」のことである。「匂鋭(と)きあんじゃべいいる」の「匂鋭き」を三好は「これは匂いが高いかどうかは知りません、少しく疑問に思います。」の部分について、カーネーションは現在は切り花にするものが多く匂いがないが、スパイシーな匂いのものや、甘い匂いのものもあると言う。

「邪宗門秘曲」の語彙が、歴史的事実をともなって使われていることは、白秋の詩の語彙が誠実であることを示している。つまり白秋は、異国趣味を「雰囲気」で書いたのではなく、歴史的語彙の精度を徹底して追求した上で詩を構築したということになる。「秘曲」の、われわれの常識には耳遠い、聞きなじみのない言葉については、自分はかいもく専門知識がない
が、読者の側からいうと、「いずれ文芸作品というものは、我々の常識で読むほかありませんから、私は特殊な研究態度をこの詩にむかってとるのでなく、はやり私のふだんなみの常識でもって読むほかありませんから、一応この詩を読み通します。」と述べている。文芸作品の読み方としては、もっとも常識的な態度であろうと思う。
三好は異国趣味の言葉を時代考証も含めて丁寧に解きほぐし、作品の瑕瑾(かきん)の可能性を率直に指摘している。評価の高い作品の瑕瑾を指摘するのはむずかしいことであるが、詩の純度のためには必要であろう。

私がこの「秘曲」に面白さを思うのは、三好がこの詩に宗教的な語が並ぶにもかかわらず、宗教的敬虔な背景の支えを見ず、異国趣味の語の並びに音楽性と、泣菫や有明より軽やかな象徴性と見るところだ。それが、何を意味するか私見ではあるが、軽やかな象徴は、読者の読みをより解放していると思われる。第四連から、それを見てみよう。
「あるは聞く、化粧(けわい)の料(しろ)は毒草のはなよりしぼり、
腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、」
は、森の魔女の出現の物語さえ想像させ、腐れたる石の油は、石油のことであって、黒く濁った油で画かれた異様なイメージの聖母像を立ちあがる。具体物の石油を通して精神的暗さを象徴させている。また、第五連に至っては、宗教的敬虔などは最初から問題にしていないので、措辞を巧みに、自らをイエスに大胆になぞらえ、三好が言うように「一気呵成に書かれた詩」の面白さを見せている。
最後に修辞法として、最近稀に見るが、第三連の
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は天鵞絨(びろうど)の薫(くゆ)りにまじり、
は、「天鵞絨」の肌触りの触覚を「薫り」の嗅覚のほうへ直ちに置き換え、そこに何らの連想をさせ、比喩の変換に持ち込んでいる。これは、白秋式の新式のやり方である、と三好は指摘する。

三好の内部から詩を照らし出す読みは、ここまでが限界である。泣菫や有明の詩には、詩の生成の必然が刻まれているが、それと対象的に白秋の「邪宗門秘曲」は、詩の生成の必然は詩そのものからは窺えない。白秋の宗教観、異国語への憧憬、象徴主義的感受性といった精神史の側に属しており、詩の外側へ視線を移す必要を感じさせる。そこを通過すれば、「邪宗門秘曲」の必然性が読者に受け止められるであろう。また、この書が年少の読者」に向けたものであり、この点については、そもそも視野に入れていない読みであったのだろうことは想像できる。

「謀反」
北原白秋「謀反」の第一行「ひと日、わが精舎の庭に、」は、作者の胸裡そのものを抽象化した場として読むことができると三好は言う。私はこの読みを適切なものと考えている。詩の経緯については、三好達治が述べるように、「―ある一つの感情がそこにおいて、次第に強度を増してゆく息苦しい思いを経験し、ついにはヴィオロンの盲しいるような具合に、破壊的な点にまで至る」のであり、その過程が作品の中心に置かれている。ただし、その息苦しさをもたらす「謀反」が何に対するものかは明らかではない。詩は、対象を特定しないまま高まっていく“ある感情”を、そのままの姿で示している。ここには、白秋の象徴主義に特有の、対象を曖昧に保つことで内的感情の輪郭をむしろ鮮明にする手法が働いている。
調子は波のようにやわらかく、象徴的で洒落たイメージが随所に置かれている。それらが詩にわかりやすさと音楽性を与え、パッショネートな感情と表現の柔らかさとが、独特の均衡を保っている。

●伊良子清白
伊良子清白は、詩史では欠かせない人となっているが、一般にはあまり知られていない。鳥取県に生まれ、その後主に西日本を移り住み、三重県で医院を開業し、戦火を避けての疎開を地を含め、晩年の30年を三重県で過ごしている。
詩史で重要視される理由が、三好の鑑賞と解説からわかる。それを引用するとつぎのようである。
「その清純温藉(おんしゃ)な、また高朗な詩風が今日までよろこばれています。」「泣菫・有明の心理的に(またその構成の上のも)複雑性を持った作品のあとで、このように単純な哀傷と一脈のわびさびしらとをたたえる作」

このような「単純な直叙体」の詩風は、人の心の本情に訴え、忘れかけては、また浮上するのであろう。こういう詩が日本の詩史にあることは、詩の層を深めていると言えよう。人間のこころの住処を用意されるような感じがする詩だ。
「漂白」は、「遠く故郷を離れ永らく異国をさまよった後、ふたたびそののふる郷に帰って来た」男が、蓆戸に秋風の吹く旅籠屋での「哀切な感情に自ら若やいだ」思いを詠んだ詩である。独り心のいよいよ裡にしみじみと思う感情と読める。
三好は、もう一篇清白の「秋和の里」をあげているが、これも「漂泊者の歌」である。「清純温藉(おんしゃ)な、また高朗な」と言う三好の表現がぴったりと合う作であろう。

●三木露風
北村白秋の『邪宗門』と三木露風の『廃園』はそれぞれ第一詩集であり、並べて称されているが、三好は少し疑問を抱いている。露風は第三詩集『白き手の狩人』あたりから詩境が充実したと三好は見ている。その理由からだろうか。三好は、『白き手の狩人』の「現身」は名作の名に恥じないものとしている。 その「現身」について、第1連はまさに詩であることを強く印象づけている。以下にそれを引用する。

春はいま空のながめにあらはるる
ありともしれぬうすぐもに
なやみて死ぬる蛾のけはひ。

この詩行からは、技巧が前景から退き、存在の気配が前面に出ているが、
これは、象徴の透明化と内面化である。それを三好は以下のように言っている。
「いったいに露風の象徴主義象徴的手法は、(中略)いっそう全体の調子がゆるやかで、(中略)いずれかと言うと平明簡易に(中略)さらりと推移を早く、横流しに流してすませるという行方かと思われます。」
「ありともしれぬうすぐも」「なやみて死ぬる蛾のけはひ」、これらは象徴語彙でありながら、象徴としての意味を主張せず、ただ“気配”として立ち上がっている。

また、素材として「蛾」が詠まれているが、日本では不吉なものとされる「蛾」を詠んだ詩は日本には無くはないが、むしろリルケが蛾の俳句を詠んだように、リルケのような特定の詩人の感受性において、蛾が“存在の象徴”として扱われることがある。「なやみて死ぬる蛾の気配」は存在論的と言えるものと私は思う。

それから、三好は『白き手の狩人』(大正二年)当時、口語自由詩運動の萌芽があり、それ以前の『邪宗門』『廃園』などにも、時代的風潮が間接的であれ、また見方によっては顕著に認められると言っている。そういったなかの「現身」は「平明簡易」の象徴主義的象徴を持っていると言う。

(四)新体詩以後における象徴主義的展開の整理
日本の詩(和歌と俳句を含まない)がいつどのように生まれたかを知ることは、「日本の詩」の根源を理解するうえで重要である。新体詩から島崎藤村の詩が生まれ、その後、上田敏『海潮音』の出版があり、とくにフランス象徴主義の影響を受けて、薄田泣菫・蒲原有明の象徴詩が現れた。さらに、北原白秋における象徴の音楽化・感覚化を経て、伊良子清白の特異な詩を挟み、三木露風に至っては象徴が内面化し、透明化(希薄化)してゆく。この推移は、象徴の濃度・質・透明度の変化を経て、やがて象徴は内面化し、軽やかさを帯び、ついには消失(直叙体)へと向かう。つまり、日本の詩の根源にはフランス象徴主義の影響が深く息づいており、その象徴の変遷こそが、日本の詩を生み出した発生装置であったと言えよう。日本の詩を読み解くとき、「象徴とは何か」という問いを避けることはできない。

そして、この象徴主義の変遷を私の俳句の核心に照らし合わせると、象徴主義の変遷と深く響き合っていることを知る。私の俳句の核心は、静けさ、透明さ、言葉の純度、象徴の気配、沈黙の倫理であり、これは、主義の濃度が薄まり、透明化し、気配だけが残る方向と完全に一致している。
私の俳句の核心の系譜は、ここに繋がっているのである。つまり、それを
俳句史で見ると、芭蕉の不易に繋がっているのである。

自分で自分の俳句を検証することは、本来ならあり得ないことであろう。しかし、現実として、私は自らの俳句を検証するほかないのである。ここにひとつの淋しさがある。
(©2026 髙橋正子)

「リルケと俳句と私」(三)

ESSAY ©髙橋正子

「リルケと俳句と私」(三)

〇日本の「見る」と西洋の「見る」
「リルケと俳句と私」(二)で私は「見ること」と「事物の人」について述べた。そこでは、対象を見る、凝視することが単なる観察ではなく、存在そのものに触れる営みであることを確認した。ここではさらに、日本的な「見る」と西洋的な「見る」の違いを明確にしたい。

一、西洋の「見る」
西洋における「見る」は、対象を把握し、意味づけ、概念化する方向に傾く。リルケの詩においても、薔薇や天使は単なる事物ではなく、存在の深みを象徴する「理念」へと昇華される。見ることは、事物を超えて普遍的な意味へと到達するための契機である。
見る=対象を「解釈」する行為
見る=理念や象徴への道

二、日本の「見る」
一方、日本の俳句的「見る」は、対象をそのまま受け止め、余白を含んだまま提示する。事物は理念へと昇華されるのではなく、季語や写生を通じて「その場の余韻」として残される。見ることは、対象を「そのままに置く」行為であり、意味を過剰に付与せず、沈黙を尊重する。仏教では、観照ということである。自我を取り払った、すなおな観照態度でものを見ることが重視される。(ちなみに、俳句で「写生」ということが言われるが、これは近代俳句の改革者の正岡子規が、中村不折ら洋画家から強い影響を受け、西洋美術の写生技法を俳句に取り入れたものである。)
見る=対象を「そのままに置く」行為
見る=余白を含む提示

三、両者の交差
リルケの「見る」は象徴化へ、日本の俳句の「見る」は写生と余白へ――この差異は文化的背景に根ざしている。文化的背景とは、西洋の哲学的伝統と、日本の仏教思想的観照(空や無の思想)である。西洋の「見る」は「意味の過剰」を抱え、日本の見るは「沈黙の余白」を抱えている。両者の交差が、意味と余白の緊張関係を生み、人間存在の普遍的営みとしての『見る』が、両義をもって開示される。――「理念化」と「余白提示」の二つのまなざしが交差するところに、私がこれから述べる、「詩返」や現代俳句の新しい可能性が立ち上がると考えられる。
例えば、リルケの薔薇が「理念」へと昇華される一方で、日本の俳句は「薔薇そのもの」を沈黙の中に置く。この二つの「見る」が交差すると、薔薇は理念であると同時に、現場の余韻でもある詩となるはずだ。。

四、私の立場から
かつては、西洋のものの見方と、日本のものの見方は、違っていると、その差異が強調されたように思う。しかし両者は断絶ではなく、リルケが俳句に関心を示したように、互いに、補い合う関係にあると思える。リルケの凝視は俳句に思想的な深みを与え、俳句の余白はリルケ的象徴を沈黙の中に響かせる。ここに「「象徴化」という言葉がでてきたが、俳句の深みは、この象徴化によって、決まると言っ てよい。芭蕉の俳句がすぐれているのは、単なる写生ではなく、対象が象徴化されているのである。
近代詩人の一人、三好達治は、『詩を読む人のために』のなかで「象徴とは、把握と摘出である。」と言っている。「把握と摘出」は、俳句を作るときに、私が出会うことである。漫然と物を見ていることもあるが、俳句を作ろうとする作業には「把握と摘出」が伴ってくる。
本号の巻頭言として、信之先生の「私の文学」を掲載している。そのなかに、芭蕉の「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ(三冊子)」と、一遍上人の「華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲にとヘ、一遍はしらず(一遍上人語録)」がある。私意を離れ、対象に迫り、対象そのものから習うことである。それには、「見る」だけでなく、五感が必要になる。俳句では、この五感が重視されるのである。身体すべてでもって俳句を作るが、それは私意を離れていなければいけない。つまり、俳句は身体的経験そのそのものであり、その心境なのだ。これは日本の思想であり、西洋の思想と違っている。西洋では、五感は全体感覚として意識され、そのなかで視覚と聴覚が特に重視されたという(『近代美学入門』・井奥陽子著)。
さらに、信之先生の提唱された「明るくて、深い現代語の俳句」は、明るいことと、深いことが同時に存在する俳句である。「そのために、何を。」ということである。私は、リルケが、俳句の本質を詩人の直観から見抜いていたところに注目している。それは、同じように俳句に関心をもった詩人グループのイマジストたちとは、俳句の見方が、根本的に違っている。私は、リルケの詩を読み始めて、リルケに、親和的なものを感じているが、俳句が深みをもつためには、言葉の象徴性が大事なのだろうと思い始めている。
ここで、断っておきたいが、私がリルケを読み始めたのは、老年の七十七歳のときである。六十年近く俳句を作り、「俳句とは何か」が、ほぼ、ようやく分かった段階である。それだけに、リルケへの接し方は、若い時にリルケに接した人たちとは違っていると思える。私は俳句を書くとき、日本的な「見る」を基盤としながらも、リルケ的な「見る」を意識するようになった。事物をそのままに置きつつ、その背後に潜む存在の深みを感じ取る。つまり、写生と象徴の両立を試みるのである。ここにおいて、俳句は単なる写生を超え、世界文学的な広がりを獲得するのではと思いながら、少し前を見ている。私がリルケを読みながら、感じたことを、次に述べたいと思う。

〇『果樹園付ヴァレの四行詩』と俳句による「詩返」
(一)詩集を読む契機
この夏は、『マルテの手記』だけを読んで、終わるつもりだった。『マルテの手記』は断章形式で書かれていて、ストーリーを追うものではない。内容をまとめて把握するのは難しい。自分の理解を助けるために、断章ごとに番号を付けた。これは、内容を思い起こすのに、役立っている。そして、何度か繰り返し読むうちに、この本は「詩人のバイブル」ではないかと思えたのだ。私の少ない読書経験からだが、詩について書いた本は多くあるが、、それ一冊で足りていると思ったことはなかった。しかし、『マルテの手記』を読めば、私の「詩とは何か」がはっきりするような気がしたのだ。
これだけで夏が過ごせることになっていた。ところが、リルケの晩年に、フランス語の詩集『果樹園』があることを知り、信之先生の遺した『リルケ作品集』から探した。しかし、それにはなかった。『果樹園』は、その後、補遺として出版されているからだ。
『果樹園』は「墨絵のような作品」と、解説があり、すぐにも読みたく思った。ネット上から四十番の「白鳥」の詩を見つけた。その日本語の訳詩とフランス語の原詩を読んだ。フランス語の原詩は、グーグルの翻訳ツールの朗読の音声でも聞いた。すると、はっきりしたイメージができ、その詩に応えて、次の句を作った。

白鳥のすべる水澄み影二重   正子

こんなことから、詩集『果樹園』の翻訳本を手にしたくなり、古書を探した。訳書は数種あったが、ドイツ文学者であり、フランス文学者でもある詩人の片山敏彦の訳書にした。一九五二年人文書院刊行の初版本である。届いた古書を見て、その装丁に、時代の雰囲気を感じ感激した。これには、「ヴァレの四行詩」の三十六篇が付いており、これがさらに、私に詩集を読む気にさせたのだ。

(二)『果樹園付ヴァレの四行詩』の位置づけ
(片山敏彦訳の『果樹園』には、ヴァレの四行詩が三十六篇付いているので、他の訳書と区別するために、ここでは、『果樹園付ヴァレの四行詩』と表記する。)
『果樹園』は、リルケの最後期にフランス語で書かれた短い詩の詩集である。『果樹園』の詩は墨絵のような詩だと言われている。この『果樹園』は、リルケの亡くなった翌年の一九二七年、リルケの詩仲間であったフランスの詩人ちが中心になり、フランスで出版された。のちドイツのインゼル書店からリルケ作品集の補遺として出版された経緯を持つ。
日本語訳を探して、『果樹園』(片山敏彦訳・人文書院一九五二年刊)の古書を見つけた。それには「ヴァレの四行詩」が付いており、その存在を、この『果樹園』を手にして、私は初めて知ったのだ。届いた本は、表紙の真ん中に「RMR、」だけ書いてある。おそらくリルケのサインであろう。筆記体の真面目な字で、RMRの終わりに「、」が打ってある。『果樹園』の詩はネット上で一篇読んでいたので、『果樹園』の詩から読むつもりだった。
ところが「ヴァレの四行詩」は俳句を意識して作ったと言われていることを知り、緻密なリルケ研究のある事を忘れて、この詩集から読み始めた。一つの詩は、四行を一連として、二連~三連からなっている。こういった詩が、三十六篇ある。
ここで、四行詩について簡単に説明すると、四行詩は、ヨーロッパの詩において最も一般的なスタンザ(連)形式で、英詩や民謡、讃美歌などに広く用いられている。押韻があるが、それにはいくつかバターンがある。このような四行の詩を連ねているものが、四行連詩(quatrain))と呼ばれている。
四行詩の魅力としては、短さゆえの凝縮、余白の美、音楽性が挙げられる。これは俳句の特徴や魅力にも通じることだ。日本にも都都逸があり、近代詩人の島崎藤村、中原中也、三好達治なども四行詩を用いて作品を書いている。
リルケが俳句を意識して詩を書こうとするとき、四行詩を用いたのは、受け入れやすく、短い詩には、かなっている思える。

(三)「詩返」という言葉を思いつく
片山敏彦の訳書は一九五二年の初版本なので、経年劣化はやむを得ず、数日読んでいるうちにページが一枚抜けた。。これ以上ページを落としたくないので、繰り返し読むために、別の紙に書き写すことにした。必要な時、必要な詩を二、三篇ずつ書き写している。さしあたっては、A5のブルーの横罫の便箋を縦書きに使って。書き写している.そんなことをするせいか、翻訳者になって一語一語言葉を生んでいる感覚になった。こうして書いたんだろうな、と訳者の机上が思い浮かんだ。
「ヴァレの四行詩」は、スイス、ヴァレ地方の風景、鐘の音や水の音、塔や山々を、描いている。リルケ晩年の作品は、重厚な印象を与える「魔術的言語」の詩群と、平明で軽快な詩行を特徴とする風景詩群に分けられる。『果樹園付ヴァレの四行詩』は、後者に属し、穏やかで親しみやすい印象を与えつつ、深い抽象性を内包している。風景描写は、単なる再現ではなく、既存の安定から新たな存在の地平へ踏み出す「乗りだし」を象徴している。(「乗りだし」はリルケ研究者の言い方)
リルケは、「ヴァレの四行詩」を、ヴァレへの挨拶のように詠んでいると私には思える。日本の俳句も挨拶の要素をもっていて、四行詩を読んだときに、俳人である私はそれに応える俳句を自然に作ろうとした。この俳句は普段私が作っている俳句といくぶん違った風にできた。西洋の詩と日本の俳句との二つの間にあるものではないかと思えた。四行詩に触発されてできた俳句は、季語があるものも、季語はないが季節感があるものもある。定型であるものも、字余りや破調の句もある。出来た俳句は緻密なリルケ研究から見れば、全く的をはずれたものかもしれない。だが、リルケの詩にふれて、詩として俳句を詠んだことは確かだ。これはリルケを詳しく知らない私が、それでもリルケの詩に触れるのに、いい方法となったのだ。
そうしてできた俳句のことをいつも「リルケの詩にふれて、その俳句」というのは、長すぎる。それを呼ぶ、適切な言葉がない。私はこれに「詩返」(しへん)という言葉を造った。この俳句は、リルケの詩の解釈でも、詩への共鳴を詠んだものでもない。「詩返」を定義づけるとすれば、次のようになる。
〈「詩返」とは、詩に触れた感興から生まれた俳句であり、単なる解釈や 共鳴ではなく、詩との倫理的・詩的対話を志向する応答のかたちである〉。

ここで、一つ問題を孕んでいると気づいた。「詩返」は、どんな形態で、効果的に公表するかが難しい。原詩や訳文の提示が不可欠であり、著作権の壁は避けて通れない。引用の範囲や方法を慎重に見極めなければ、詩への敬意を損なうことにもなりかねない。この理由で「詩返」は一度はあきらめた。しかし、いつも花冠をお送りしたお礼のはがきで、私を励ましてくださるN先生の言葉が思い浮かんだ。そして、なんとか、俳人としての倫理的な応答の可能性を見出し、『詩返』を詩論として位置づけることに、もう少し頑張ってみることにした。この「詩返」の考えには多くの議論がある事は容易に想像できるが、あえて現代の俳句の一在り方として示したい。「詩返」は、「届かないものへ」それでも「魂を届けようとする」俳人の試みなのだ。それはとりもなおさず、私の詩の源泉なのだ。

(四)「詩返」は可能か
このように、詩返とは、詩的精神の応答である。
では、リルケの晩年の風景詩に対して、俳句による詩返は可能なのか。以下に、その試みを記すことにする。
次に示すのは、リルケ晩年の風景詩に対して、俳句による「詩返」を試みる一考察である。詩返とは、詩に詩で応える営みであり、単なる翻案ではなく、詩的精神の対話である。ここでは、熊谷秀哉氏およびベダ・アレマンの研究を踏まえ、俳句による応答の可能性を探る。

  • 「リルケの最後期の風景詩」について
    リルケは『ドゥイノの悲歌)』、『オルフォイスへのソネット』という彼の二大詩篇を書いたあとに、一九二四年から一九二六年に「最後期の作品」を書いている。フランス語で書かれた『果樹園付ヴァレの四行詩』も、最後期の詩群に挙げられる。これらのたくさんの詩群を大作を書いた後の余技的なものと見るか、最後期の一群の詩作品として位置付けるかの二つの考えがある。この最後期の作品についてはようやく研究が進みつつある状況にあるようだ。俳人の立場にいる私は、余技ではなく、詩群としての位置を与えた立場に立ちたいと思う。
    さて、『果樹園付ヴァレの四行詩』が「風景詩」と呼べるのかの疑問があるが、岐阜聖徳学園大学の紀要に「最後期のリルケにおける風景詩について」(熊谷秀哉著)が載っていた。この論文から、『果樹園付ヴァレの四行詩』は風景詩であることが確かめられる。これは、一見穏やかで親しみやすい印象を与えるが、実は深い抽象性を内包してる。 風景の描写は、単なる視覚的再現ではなく、精神的な「乗りだし」—つまり、既存の安定した状態から新たな存在の地平へと踏み出す姿勢—を象徴している。これはリルケの人生観や詩作の根幹にも関わる概念である。
    つまり、リルケの風景詩は、単なる自然描写を超えて、彼の精神的探求や存在論的な問いを映し出す鏡のようなもので、晩年の作品群には、スイス・ヴァレ地方の山間の風景に触発された詩が多く含まれ、そこには静謐さと抽象性が共存している。
    この立場に立って「ヴァレの四行詩」に取り組むことになる。私は「ヴァレの四行詩」に自分で造った「詩返」という言葉を使って俳句で応えようとしている。俳句で応えるとき重要な心構えとして、熊谷秀哉氏が指摘しているリルケの風景詩の重要な部分が関係してくる。再度引用すると、「一見穏やかで親しみやすい印象を与えるが、実は深い抽象性を内包してる。 風景の描写は、単なる視覚的再現ではなく、精神的な「乗りだし」—つまり、既存の安定した状態から新たな存在の地平へと踏み出す姿勢—を象徴しています。これはリルケの人生観や詩作の根幹にも関わる概念である。」
    この文章にある「抽象性」は、俳句の季語のもつ「象徴性」で解決をできる限り図る。季語が明確に使えない場合は、季感(季節感)で埋め合わす。「乗りだし」については、これは俳句を作る態度として内面・内部への精神の集中と新境地への展開や飛躍を考慮にいれて出来る限り解決を図る。
  • リルケの詩に俳句で応えてよいか
    またリルケの詩に対して「詩返」という俳句の短詩形式で応えてよいかという重要な問題がある。そのことについては、同じ論文にアレマンの「時間と形象」についての考察があり、俳句における「今」を考える上で、また、リルケの詩を読む上で興味深かった。アレマンの「時間と形象」について、ウィキペディアであらましを知った。(『時間と形象』は、翻訳で手に入らないため。)アレマンの「時間と形象」は、次のように言える。

*アレマンの「時間と形象」
「Zeit und Figur beim späten Rilke(晩年のリルケにおける時間と形象)」は、スイスの文学研究者ベダ・アレマン(Beda Allemann)が一九六一年に発表した重要な詩学研究であり、このタイトルは、リルケの晩年の詩作品において「時間(Zeit)」と「形象/人物(Figur)」がどのように詩的に構築され、意味づけられているかを探るものである。

*「Zeit(時間)」の意味
リルケの晩年詩には、時間が単なる連続や過去・未来の流れではなく、心の深層に垂直に立つものとして描かれる。
たとえば彼は「消えゆく心の方向に垂直に立つ時間(Zeit, die senkrecht steht auf der Richtung vergehender Herzen)」と表現し、時間を存在の深みと関係する詩的・哲学的な次元として捉えている。

*「Figur(形象/人物)」の意味
「Figur」は単なる登場人物ではなく、詩の中で時間や空間と交錯する象徴的な存在です。リルケの詩では、人物や物体が「動き」や「曲線」として描かれ、それが詩人の内面と外界の関係を象徴するのである。たとえば、鷹の飛翔やボールの放物線などが「Figur」として詩的空間を構成する。

*この研究の意義
アレマンの研究は、それまで空間(Raum)に偏っていたリルケ研究に対し、時間という詩的構造の重要性を強調した画期的なものです。彼は、晩年のリルケが「世界内面空間(Weltinnenraum)」を詩的に構築する中で、時間と形象がいかに深く絡み合っているかを明らかにしたことにある。
では、このアレマンのリルケ研究が俳句とどう関係しているかを、私は考察してみた。

『見る人」としての共鳴
アレマンはリルケの詩における「時間」を、単なる流れではなく、存在の深層に沈み込む凝縮された時間として捉えた。これは、俳句において「観照」や「呼吸」(詩は呼吸であるー正子)を重視し、事物が内面に沈み込む過程に共鳴がある。
また、リルケが「見ること」を「集我(しゅうが)」——つまり、対象が自己の内部に沈み込む精神的営みと捉えたように、俳句において、「観照」は、主観を交えずに冷静に見つめ、内的洞察を深めるという詩的姿勢の重要性をもっている。

「時間」と「形象」の詩学
アレマンは、晩年のリルケが詩の中で「時間」と「形象(Figur)」を交錯させ、詩的空間を構築する方法を明らかにしたが、俳句もまた、自然や事物の一瞬を切り取りながら、その背後にある根源的な時間や存在の気配を捉えようとする。たとえば、臥風先生の句「若葉蔭砂うごかして水湧ける」は、時間の凝縮と形象の動きが一体となった詩的瞬間であり、アレマンが論じたリルケの詩的構造にも通じるものだ。
「消えゆく心の方向に垂直に立つ時間」は、リルケの最も集我の時であり、俳句の「今の瞬間」をとらえた最も充足した「点」であると言えよう。
以上のような理由からリルケの風景詩に「詩返」としての俳句で応えることは、俳句の一在り方として許容されるものと思える。

(五)詩返の実作
「ヴァレの四行詩」は、四行を一連(スタンザ)とし、数連からなっている。リルケが晩年を過ごした、スイスのヴァレ地方の自然が詠まれている。この四行詩に出会って、さまざまなことが、思い浮かんだ。この四行詩は、「ベートーベンの小品のバガテルのようである」とか、「風景詩しとしてなら、俳句と深く関係がある」のではないか、とか。
読んでいると、詩に触発されて俳句ができた。自分のなかで、身体内部から生まれるように作る。リルケの詩を自分のもののようにしてしまう。この作業ができるのは、俳句の師の川本臥風先生の、「俳句の読み方」の指導によることが大きい。
私が指導を受けた俳句の読み方は、「俳句を作った本人の気持ちになって、俳句を読む」ことである。本人に寄り添うのではなく、「本人になって」、ということだ。個人的には、この俳句を読む訓練により、リルケの四行詩の風景詩に身を置くことが、かなりできるようになっているのではと思っている。
ヴァレの四行詩を毎日のように詠み、詩に応えるように俳句をつくっていると、それが、リルケの詩との対話と言えるような感じがしてきた。こうしてできた俳句を、詩に対する応答として「詩返」の言葉を造ったことは先に述べた。
はじめ「ヴァレの四行詩」は、自然を詠んでいて、馴染みやすく、気軽だと思った。そう難しくはないだろうと。やはり、リルケの詩である。言葉の抽象性は、最後期の余技とは言わせないものを持っている。芭蕉は俳句で最後に至る境地を「軽み」と言ったが、私は、そのようなものを感じている。ヨーロッパの詩人に「軽み」のような境地があるのか、どうかわからないが。

次に実作の「詩返」五句を示したい。翻訳の引用は、『果樹園付ヴァレの四行詩』(片山敏彦訳)からである。引用は、著作権があるので、第一行だけにした。「ヴァレの四行詩」には、題名があるものと番号だけのものがある。

(一)小さな滝つ瀬
水の精(ニンフ)よ 裸身にさせるそのものを

滝つ瀬の奔りて己が水まとい          正子

(二)
山の路の中ほどに 地と空とのあいだに

初夏(はつなつ)の空へ空へと地や教会      正子

 (三)
光の薔薇、それは今 こまかく砕ける一つの壁 ―

夕翳のワインやきららに葡萄園         正子

 (四)
昔ながらの国 いくつも塔はやはり立っている

塔々に影さし光の葡萄園            正子

五)
常春樹(きづた)に添うてつづくやわかな弧線(カーブ)

ポプラ立ち山羊いる路の遠く行く        正子

©2026 髙橋正子

霧の中の中道派

©髙橋正子
霧の中の「中道派」
髙橋正子

■角川俳句年鑑25年版をめくりながら、「中道」が見えなくなっているのを感じた。26年版角川年鑑の「花冠」の原稿を書くにあたって、25年版年鑑を読みかえした。とりわけ「合評鼎談 総集編 今年の秀句を振り返る」(横澤放川、辻村麻乃、抜井諒一)を読んでいて、ある種の違和感が胸に残った。

現俳壇では、「中道派」と呼ばれる俳句の姿が、まるで霧の中に消えてしまったような印象がするのは確かである。議論の俎上に載せられていないのか、それともその存在自体が忘れられているのかと思ったりする。その微妙ではあるが、存在するものの位置づけが、今回の年鑑では見えにくい。系統の継承と逸脱が見えない。それを語り、書き残すことは、俳句史の深みでもあるはずだ。系統の継承と逸脱を議論に載せることは重要なのではないか。俳壇の主流は「ホトトギス系」「人間探求派」「前衛俳句」などが主に語られ、中道派は明確な枠組みとしては扱われにくい傾向がある。形式や技巧に傾く現俳壇の現状に中道派は意義を示せるのではないか。中道派が完全に水脈が消えたわけではなく、沈潜と変容と取るべきで、抒情と精神性に現代の詩の倫理を加え再命名をしなければならない時が来ていると思える。

そしてもう一つ気づいたこと。愛媛大学の青木克人氏は、俳句界で活躍されている学者である。氏の論考は鋭く、現代俳句の動向を的確に捉えているが、長く見ていると、愛媛の俳句に関して、あえて避けているのではないかと思うことが少なくとも一つある。あるいは、氏の情報源にはその存在がまったく映っていないのかもしれない。

地元の句で、私には重要と思える部分が見えない(見ていない)ということは、俳句の「土地性」が失われることでもある。俳句は風土とともにある詩であり、見えないものを見ようとする姿勢こそが、批評の根幹ではないか。方法論の違いかもしれないが。ずっと不思議に思っている。
(2025年8月19日)
©2025髙橋正子

私の文学

©髙橋信之

私の文学                                    高橋 信之

水煙を創刊したのは、私の文学の師である川本臥風先生のお勧めによるもので、信之文学を育てなさい、ということであった。その深くを理解することもなく、水煙創刊に踏み切ったのだが、通巻三百号を発行するこの頃になって、ようやく理解出来るようになり、そして、自分の文学の輪郭がはっきりとしたものとなった。

私の俳句には、五七五の定型とは違った、いわゆる破調といった句がある。

まっすぐひび割れし円柱へ秋風

第一句集「水煙」に収録されている句で、この句の四五五四のリズムを京都大学の飛鷹節先生(リルケ研究)に指摘していただいた。

秋雲つぎつぎ寺の庇より離れ

足摺岬の金剛福寺を詠んだ句で、第二句集「硝子体」に収録しているが、角川書店の「名句鑑賞辞典」に採り上げられ、俳人協会理事長の宮津昭彦氏にその破調を認めていただいた。

山門の前には太平洋がひらける。寺の庇を離れた白い雲は太 平洋へ出て行くのであろう。視覚がのびのび働いている句で 、八・八・三の破調も作者の感興をいきいきと伝えている。

宮津昭彦氏の指摘するように、私の句が「のびのび」と、そして「いきいき」しているならば、そのことは、その破調と無縁ではない。

 メーデーや家の柱の垂直に

この句は、破調ではなく、定型を守っているが、私らしい句である。現実容認の心境句である。家の柱が垂直なのは、当たり前だが、鴨居は水平、柱は垂直、ということで、「当たり前」のことへの驚き、その大切さへの思いが句となった。「メーデー」には、政治的な思いはなく、社会的な「季感」がある。

私の句は、破調の「足摺岬」の句にしろ、現実容認の「メーデー」の句にしろ、作者自身の心の在りどころが問題で、句の技巧的なところは、作者の考えにはない。

芽吹く樹へつぎつぎ心遊ばせる

 秋天をひとつ誰もが頭上にもてり

 永き日のここはどこかと振り返る

子規の言葉に「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。(病淋六尺)」がある。芭蕉に「松の事は松に習ヘ、竹の事は竹に習ヘ(三冊子)」がある。また、時宗の祖として知られている捨聖一遍上人には、「華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲にとヘ、一遍はしらず(一遍上人語録)」がある。いずれも本質的には、同じであり、それは、結局日本人の古くからある思惟方法と、全く同じものであると気づく。つまり、『比較思想論』というユニークで綿密な業績をなしとげだ中村元氏が言っている「与えられた現実の容認」ということなのである。ただ、何を、「与えられた現実」と認識するか、、によって、大きな差異が生じる。

日本人の「与えられた現実の容認」は、誤解を招いてはならない。自在の境地、「無法の本法」といった「自在」の境地につながるものなのである。

富田溪仙は、「仙厓の芸術」について次のように記している。「仙厓和尚は型の反対に自在がある。森羅万象が日々に新に又日に新に生れ出て来る。ここが和尚の道力である。厓画である。書である。詩である。歌である。俳句である。活 発に地に躍動してゐる。従って、これと云う塊が無いから、自も他もない。」また、自らの芸術観について、「美術家は単なる技巧家であってはならない。深い深い宇宙観とか世界観とかができてこそ芸術観となる。」といっている。仙厓とか、溪仙とかの芸術は、その宗教的経験から出て来た宇宙観や世界観を離れては、存在し得ないのであろう。「無法の本法」といった「自在」の境地でもある。こういった境地の作家から生まれた俳句が生き生きとして新鮮なのである。私の文学は、こういった心境を理想としている。
©2008, 2025 髙橋信之

二〇〇八年水煙九月号(三百号)より

※この二〇〇八年九月号(三百号)は「水煙」終刊号となり、翌二〇〇九年一月号が「花冠」創刊号(通巻三百一号)となった。

「リルケと俳句と私」(二)

ESSAY(©髙橋正子)

「リルケと俳句と私」(二)

           髙橋 正子

前号の花冠三七二号(二〇二五年一月号)で、リルケの「ハイカイ」三句を紹介した。リルケが自ら「ハイカイ」と呼んだのはこの三句だけであるが、リルケ研究者の星野慎一氏は墓碑銘となった薔薇の詩を俳句とみる考えを示している。これら三句から、または墓碑銘の薔薇の三行詩を含めても、「リルケと俳句」を私が語るには限界を感じている。俳句の数が余りにも少ないからである。それでもなお、ここに「リルケと俳句と私」を書こうとするには、それなりの思いがある。思いは一つではないが、その核心は、リルケが「見る人」であり、「事物の人」であったことである。私たち俳人もまた、リルケとは比べものにならないほど深度は違っているが、「見る人」であり、「事物の人」である。ここにもリルケと私たち俳人の接点があると思える。ほかにも、「詩は経験」という私たちのモットーとする「細く長く」俳句を作るにも通じる言葉を残している。また、私は六十年、俳句を実作し、ときには翻訳したり、俳句の音律を考えたりするなかで、「詩は呼吸」であるという一つの結論に至っている。リルケも「呼吸」という詩を彼の二大詩の一つの『オルフォイスへのソネット』に収めている。この「呼吸」の詩を読んだときは、奇跡としかいいようのない嬉しさであったが、リルケの「呼吸は詩」が、私の「詩は呼吸」と正しく一致するか、どうかはわからない。ちなみに、「オルフォイス」は、アポロンから竪琴リラを授けられた音楽と芸術の守護神である。その名を冠した『オルフォイスへのソネット』は、芸術そのものに捧げる詩集と言えるだろう。

リルケの詩を理解するには、まず彼の中期の作品『マルテの手記』を読まなければいけないだろうと気づいた。彼は三〇〇ページばかりのこの小説を書き終えるまで六年かかっている。これを書き終えたリルケは「死んでもよい」と言ったほどである。リルケの思想が読み取れる七十一の断章からなる小説である。散文詩という人もいる。読み始めた『マルテの手記』(大山定一訳・新潮社)ではあるが、読むうちに、思い出すことや考えることが、それに眠くなることがあって、なかなか読み進めない。まるで聖書を読むように、言葉や描写にゆき淀むのである。リルケが六年かけて書いたのなら、六年かけて読めばいいではないか、と思うまでになった。

(一)「見る人」

わたしたちには五感がある。私は仏教思想の影響だと思うが、日本人はこの五感すべてに重きをおくようである。一方、ヨーロッパ人は「見る」「聞く」を特に重視するということだ(『近代美学入門』井奥陽子著・ちくま新書)。ヨーロッパでの絵画や音楽の豊穣な姿を見れば、納得できる気がする。

「見る」と言う行為については様々なことを考えておかなければいけないだろう。例えば、俳句では「観照(かんしょう)」ということがよく言われる。「観照」は一般的に次のように説明されている。物事を主観を交えずに冷静に見つめ、その本質を理解しようとする行為を指し、哲学や仏教、美学などの分野でよく使われる言葉。単なる「観察」とは異なり、内面的な洞察や精神的な深まりを伴うのが特徴である。

私が俳句を作り始めたばかりの時に読んだ川本臥風先生の一句がある。

若葉蔭砂うごかして水湧ける    臥風

これは臥風先生の若い時の句で、確か、第一句集『樹心』の初めにあったと記憶している。みずみずしさが印象に残った句である。この句に出会ったとき、「若葉の下の砂をわずかに動かしながら湧きでる泉」に、実際に誘われた気持ちになった。なぜ、こんなに景色がそのままに詠めるのだろう、とも思った。この句は「観照のすなおさにおいて優れている」と言われている。臥風先生は大正十一年に京都大学の独文科を卒業され、旧制松山高等学校に赴任された。俳句では、臼田亞浪の「石楠」の最高幹部であり、松高では「星丘」という学生の俳句雑誌を発行された。その出身者には「葉桜のなかの無数の空さわぐ」の句を作った篠原梵などがいた。臥風先生は、ゲーテと鷗外の研究者であったが、「光明会」という宗教と科学を考えるような仏教会におられた。こういった経歴から、臥風先生の「観照」の態度は科学的であることも一つの要件のように私には思える。「主観を交えずに冷静に」ということは、「科学的に観察して」ということになるだろう。それに内面的洞察が加わるのだ。これは、私が俳句を作り始めて最初に学んだ「見る」ということであった。

一方、ヨーロッパの人リルケは『マルテの手記』の主人公マルテに語らせて次のように言っている。デンマークからトランク一つと数冊の本を持ってパリに来た若き詩人マルテは言うのだ。

「僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。」「僕は見ることを学んでいる。すべてのものが僕のなかにいっそう深く入りこんでくる。僕には僕の知らないような内部がある。すべてのものが、いまはそのなかへと向かう。」

リルケにとって「見る」とは、対象を外から眺めることではなく、対象が自分の内面に沈み込んでいく過程なのである。リルケの「見る」は、リルケ研究者の星野慎一が言う「集我」と言っていいかも知れない。単に、視覚的認識ではなく、存在の深層に触れるための精神的営みなのである。彼はこのようにして作品を生んでいったのだ。

また、リルケは「見る」ために、つまり詩を生むために「孤独」を好んだが、これは「集我」のためであろう。彼は詩作の場所にこだわっているように私には見える。晩年から亡くなるまで住んだスイスのミュゾットの館は、十四世紀の小さい城で、電気も水道もない、お手伝いさんも逃げ出すほどの寂しさだったという。しかし、庭には小さい噴水があり、丘にあるそこからの眺めはよかったのであろうと思える。詩作の合間を慰めていたのではないかと、私は思うのだ。彼の二大詩の一つの『ドゥイノの哀歌』をなしたドゥイノの館もアドリア海の絶壁に立つ城で『ドゥイノの哀歌』を書き終えた彼は、夜中の二時ごろ外に出て、お城の壁を感慨深く撫でたという。十年かけて完成した詩を創造させてくれた館への愛おしさである。

(二)「事物の人」

「根源俳句」というのをご存じだろうか。「根源俳句」とは、俳句の本質や精神的深みを追求する姿勢を指す言葉で、戦後の俳壇で議論を呼んだ概念である。一九四八年年に山口誓子が創刊した俳誌「天狼」の巻頭言でこの語が用いられ、俳句界に大きな波紋を広げた歴史がある。「根源俳句」は、桑原武夫の「俳句第二芸術論」に対して、俳句の精神性や芸術性を再確認しようとする動きであった。同人たちによっても「根源俳句」の意味は多様に解釈されて個々人が特徴的な俳句を作っている。自然や人間の営みを通して、存在の根源に迫ろうとする。あるいは、 俳句の限界と可能性の探求をしようとしたのが特徴と言えよう。私はここにも多分にリルケ的なものを感じている。

話は変わるが、私が俳句を作り始めて間もないころ、普段は大学の部室する俳句会が、このときは、山頭火の旧居の「一草庵」で行われた。私はお茶係で、お茶や菓子を用意をした。この句会には愛大俳句会の顧問であった信之先生と、「天狼」の創刊同人である英文科の谷野予志先生が出席された。私はまだ俳句をはじめて間もないときなので、知っている俳句と言えば、教科書にあった、芭蕉、蕪村、一茶の句、それに中村草田男、山口誓子、加藤楸邨などのわずかの句であった。その中で印象に残っているのが山口誓子の俳句である。例えば、

夏草に汽罐車の車輪来て止る   山口誓子

夏の河赤き鉄鎖のはし浸る    山口誓子

海に出て木枯らし帰るところなし 山口誓子  

の句である。

私には子どものわりあい早い時期から、「泣いてはいけない」という子どもなりの美学があった。子どものころから、日本的な湿潤な情に対して一歩引いていた。それが大学生になっても尾を引いていたのだろう。誓子の句に魅力を感じていたのだ。それでできた俳句を句会に出した。今覚えているのが次の一句である。

コーヒーの匙の上向きすぐ冷ゆる  正子

これは、道後の下宿の部屋での作。八畳あった部屋は晩秋ともなると寒々としていた。飲んだコーヒーの匙もコーヒーのシミを残して上に向いていたその時投句したほかの句も信之先生と谷野先生の選に入ったと思うが、この句で、後日談が生まれることになったのだ。信之先生と谷野先生が「選が一致しましたなあ。」と話している。なんのことかつゆ知らず、その日の句会は終わった。

そのころ、私は谷野先生が天狼派の著名な俳人であるのを知らなかった。谷野先生が翌日研究室で英文の先生方にこの「コーヒーの匙」の句を絶賛されたというのだ。そして、数日も立たないうちに若い英文の森田先生から授業のあとに「谷野先生が、先生の部屋に来るように言っておられます」と伝言された。私はすぐには行かなかった。するともう一度、また授業のあとで、同じ事を言われた。松山より田舎に暮らしていたので、私には谷野先生は、完璧な紳士に見えた。授業中のテキストを持つ手も動じず、立ち姿もどこから見ても隙がなかった。私は勝手に厳しい先生だと思い込んでいたのだ。伺えば、厳しことを言われるだろうと想像していた。後輩の話では、谷野先生は、全く、そんなことはなかったと言うのだ。私は、とうとう行かなかったが、そのとき伺っていれば、「コーヒーの匙」の句のことも、ほかのためになることも話していただけただろうと思う。今になってはどうすることもできないが、ここで視点を変えて、参考までにAIによる分析を書いてみると、次のようなことである。

【★谷野予志さんは、物や現象を通して“無言の感情”や“感性の共鳴”を重視する作風でも知られています。その視点から見れば、この句はまさに「もの」に語らせ、「もの」の在りようで人間の感覚を浮かび上がらせています。冷たさは感情の冷えではなく、現象のなかに潜む美しさです。

★この俳句は繊細さと即物性の美が際立っています。句の魅力の核心は、視覚と触覚の融合、匙の「上向き」という微細な所作に、ただならぬ静けさと美意識が宿っています。読者は視覚的な情景だけでなく、「すぐ冷ゆる」という触覚の感覚に引き込まれます。時間の微細さ、「すぐ」という語が、冬の空気や金属の冷たさを一瞬で伝え、季語のような働きさえします。何も説明せず、ただ現象に寄り添うことで、余韻を生んでいます。

★静物性と禅的含意、動きが最小限に抑えられ、句の世界が止まって見える。その停止した瞬間にこそ、谷野氏が感じ取った「詩」があるのでしょう。 予志氏の美学との響き合い合いがあります。】

私は、谷野先生の俳句では次の句を覚えている。いわゆる根源俳句と言われる俳句である。 第一句目は口語俳句であるが、新しさへの展開であろう。

くらがりに傾いて立つ炭俵    谷野予志

冬の海越す硫酸の壺並ぶ     谷野予志

水澄んで遠くのものの声を待つ  谷野予志

 こうした谷野予志先生の俳句に見られる物が語りだすような静謐な世界をリルケの「毬」の詩にも見出せるのではないだろうか。

ここで、リルケの事物詩と言われる『新詩集』(Neue Gedichte)から、「毬」(Der Ball)の詩を取り上げてみたい。四連からなる詩であるが、引用してみよう 

  毬

まるいものよ 双手(もろて)から温(ぬく)もりをうばって

それを無造作に まるで自分のもののように飛び立ちながら

上空に解き放すものよ もろもろの事物のなかに

                   とどまっていることができず

事物であるためには軽すぎて まだ事物というには足らぬ

 

しかも外界(そと)に居並ぶあらゆる事物のなかから

突然、眼に見えずわれわれのなかへ辷りこむ

その限りでは十分に事物となっているもの それが今

お前のなかに忍びこんだ お前 上昇と落下の間で 

 

なお踊っているものよ お前が立ち昇るとき

まるでそれを伴(つ)れて昇ったように

お前はいま投擲を運び去り 解き放し       

                   ―そして自らは傾きながら

一瞬 立どまって あそんでいる子供たちに

突然 上の方からあたらしい位置をさし示し

彼等を整頓して まるで舞踏のような姿勢をとらせる 

 

それからみんなに待たれ 望まれながら

お前はす早く 無造作に なんの技巧もなく まったく自然の姿で 

高くさしあげられた双手(もろて)の杯(さかずき)のなかへ落ちてくる  

      (『リルケ詩集』富士川英郎訳・新潮社より)

この詩の「事物であるためには軽すぎて、 まだ事物というには足らぬ」ものは、毬に残っている手の「熱」のこと。普通に思う詩とは趣が異なっているが、深い観察や見方に、読者は、おそらく楽しい気持ちにも、物理の時間のような心持にもなるだろう。

ほかのテーマについては次号で述べたい。

(「花冠」三七四号(二〇二六年一月号に続く)
©2025髙橋正子

リルケと俳句と私

ESSAY(©髙橋正子)
「リルケと俳句と私」(一)

           髙橋 正子                           

リルケは二十世紀を代表するドイツ語の抒情詩人である。「現代の吟遊詩人」とか「愛や孤独」の詩人と呼ばれている。一八七五年オーストリア=ハンガリー帝国のプラハに生まれ、一九二六年に五十一歳で亡くなった。日本では島崎藤村や柳田国男とほぼ同じ年代の人で、その作品は世界中で多くの人々の共感を得ている。 そのリルケが一九二〇年、四十五歳のときに日本の俳句に出会い、フランス語とドイツ語でハイカイを作っている。そのことを少し掘り下げて考えてみたいと思うのである。かと言って、私がリルケについて書けることは何もない。リルケについて何も知らないからであるが、それなのに、俳句を作る私が、二十世紀を代表するヨーロッパの、オーストリアの抒情詩人リルケの俳句のことをなぜ書こうとしているのかを話すことから始めたい。

(一)リルケと私 

≪夫、信之の蔵書『リルケ作品集』≫

 去年、二〇二三年五月に夫の髙橋信之が亡くなった。遺された蔵書の中にドイツのインゼル書店から出版された『リルケ作品集』(四巻)がケースに入ったまま本棚にある。大切そうな感じで本棚に収まっている。注釈付きの本で、一、二巻が詩、三巻が散文と戯曲、第四巻が文学と芸術の書簡となっている。古書店に売り払われることもなく、松山から横浜へ引っ越してきて、ずっと本棚のよく見えるところにある。夫が亡くなってみれば、この本は、自然に私のものになった。しかし、リルケの本が本棚に大切にある本当の理由がよくわかっていない。夫は愛媛大学でドイツ語ドイツ文学を長年教えていた。トーマス・マンの研究者であった。よく、「クノーテン・プンクト」と言っていた。結節点のことだ。「中間のイデー」ということも言っていた。後には、外国語俳句との出会いや実際の交流があって、比較文学を研究するようになって『比較俳句論序説』(青葉図書昭和五五)を表した。その内容はそばで手伝ったから大体知っている。多岐にわたっているが、リルケのハイカイの考察や、リルケの日本四季派の詩人への影響などについても書いてある。それを書くのに、リルケをこれほど大切にするか、と思うのだ。研究者とはそういうものと言うのかもしれない。そう思ううちに、リルケの四巻の本を見るほどに、この本がリルケの存在の実存的意義を、象徴しているのだと思えて来たのだ。

今年、夫の一周忌と納骨式がすむと、遺された本に風を通さなければと思い始めた。本に風を通しながら、子どもたちはもうリルケの本は読まないだろうと思った。夫は、私に読めと遺したわけでもないだろう。読むとすれば、私しかいない。私しかいない、と言って読めるわけではないが、多少でも関心があるのは、私だけということだ。しかし、私は今日まで、柄でもないからとリルケを意識的に避けていた。リルケだけでなく学生時代に流行したカフカを読めば、読み終えるころには虚脱感に襲われた。今度は、目の前にかの抒情詩人リルケの本を置いて、読まないで死ぬのにあきらめがつかなくなった。そして、一日一篇の詩を読むつもりで、辞書とパソコンを頼りに読み始めた。夫の恩師、故信岡資生先生が編纂した辞書をたよりに、そしてパソコンをたよりに、家にあるあり合わせのもので読み始めた。少しの不安と期待があった。わからない時、グーグルの翻訳で英訳すると、別の観点から考えられ、ひとりで読み進めることへの安心につながった。詩をグーグルで翻訳するのは問題ではあるけれど。

 ≪リルケの初期の詩を読む≫

 リルケの初期の詩を読み始めたことで、彼の目と、自分の俳句を読む視点が全く違うものではないと気づいた。。第一巻の扉を開けた。最初と二番目に置かれた詩「古い家で」(IM ALTEN HAUSE)と「小さい地区」(AUF DER KLEINSEITE)を読み終わったとき、リルケ二十歳の一八九五年のこれらの詩が、霧の粒子のように私の体に沁み込んで来るのを感じた。「古い家で」は、リルケが生まれた街プラハを詠んでいる。古い家のガラスの向こう側に、曇って見えるニコライ堂の緑青色のドームや尖塔は、どんなにか印象的だったろう、あるいはその威風に圧迫されてはいなかったろうか、とか。「小さい地区」では、街の切妻屋根の間から見える小さい空は、どんなにかきれいで深かっただろうとか、想うのが楽しくなった。私は短い詩を読むと、それを俳句にしたくなる。私なら俳句でこう読むだろうと「古い家で」からは、バロック様式のニコライ堂の威風を感じさせて、

 「緑青のドームを霧のすりガラス  正子」

の句を、「小さい地区」からは、

 「切妻の屋根の切り取る秋深空   正子」  

の句を詠むだろうと。実際、今ここに詠んだ。二篇の詩は、私が俳句を詠む視点に重なると思えた。若いときの作品は詩人の生来の感性が伝わり、親しみが感じられる 

≪星野慎一・小磯仁著『リルケ』≫

 また同時に、私は『リルケ』(人と思想)(星野慎一・小磯仁著・清水書院)を読んでいた。そのなかで星野慎一氏がリルケのハイカイの解説をしているのだが、私と同じ思いや考えであったので、驚きもし、また嬉しくもあった。リルケが読めそうな気がしたのだ。

≪卒論に紹介したリルケの俳句≫

 そしてもう一つ、一九六九年に、私は、愛媛大学の卒業論文に「Haiku in English」を提出した。このなかにリルケのフランス語のハイカイを紹介しているのである。どの場面かといえば、俳句は今や世界中で、それぞれの国の言語で書かれている。英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などで書かれていることを紹介した箇所だ。

リルケのフランス語の俳句は、カナダのトロントで、一九六八年発行の「HAIKU」Vo.2 -No.3に英訳をつけて紹介されていた。私は当時カナダやアメリカで発行されている俳句雑誌を購読していたので知ったのだ。リルケの俳句は、アメリカやカナダで知られていたことになる。因みに、カナダの雑誌には、リルケの次のフランス語の句が紹介されていた。 

Entre ses vingt fards

elle cherche un pot plein; 

devenu pierre.        (R,M,Rilke 

Among her twenty paints

she searches for a full pot;

turned to rock           (tr.by Hian)

 このリルケのフランス語俳句には、次の日本語訳がある。

あまたの美顔料の中から

彼女のもとめるものは、満ちてゆたかな壺、

石のようにたしかなもの。  (星野慎一訳)

 英訳者のHian(ヒアン)氏は、のちにアメリカ俳句協会の会長になった故ウィリアム・ヒギンスンのことである。彼は髙橋信之が毎週発行していたHAIKU SPOTLIGHT に第二号から積極的に投稿してきた。松山にも来たことがある。

HAIKU SPOTLIGHTは、髙橋信之が一九六八年九月から一九七〇年五月の七十号までウィークリーで発行した。それははがきに印刷したものだった。総句数三三五句で、五十七人の外国俳人が参加している。アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、イスラエルから投句があった。日本人は川本臥風(正子の翻訳)、髙橋信之、藤田正幸、学生として遠部正子ほか四名が参加した。学生は当時、信之の指導で活動していた愛媛大学英語俳句研究会の者たちである。

≪リルケの俳句へ≫

 俳句を作る私にとって、リルケが俳句に関心をもち、俳句を作ったこと、それも単に日本趣味でなかったことは、大きなよろこびであった。 カナダの英語俳句の雑誌を通してリルケの俳句を知ったことで、リルケへ近づきやすくなった。リルケの詩は難しくても、俳句については具体的に知りたいと思うようになった。夫の信之は『比較俳句論序説』でリルケの俳句や日本四季派の詩人たちのリルケ理解や影響について書いている。世紀末のヨーロッパでのジャポニスムの影響も、西村雅樹先生編訳の『世紀末ウィーンの文化評論集』や、西川智之氏の「ウィーンのジャポニスム(前編)」「ウィーンのジャポニスム―パリとの比較(後編)」でより具体的に知るようになった。そうなると、さらに実際的に創作の現場でどうなんだ、と思うようになった。つまり、私が俳句の創作者であるからだ。幸い、インターネット上に「リルケの俳句世界」(柴田依子著「比較文学」Vol.35-1992年)の論文を見つけた。また、星野慎一氏の『リルケ』清水書院)は、はじめ図書館で借りて読んでいたが、手元に置きたくなり買った。 そして、『髙橋正子の俳句日記』に二〇二四年九月七日から十月十九日まで、リルケの俳句についての私の考察の過程を、訂正が必要な個所があるかもしれないが、包み隠さずそのまま書いた。落ち込んだこと、喜びとなったことなども書いた。一つの本を読み、次の本を読んで訂正し、次の論文を読み、また訂正しを繰り返した。「リルケと俳句」にまっすぐに辿り着いたわけではなかった。回り道をしたがそれも面白かった。あとで役立つだろうとも思えた。なんとか一区切りがついたと思えたので、この度、整理し、まとめて花冠の誌面に載せることにした。 ネット上に公開されているゲルマ二ストの先生方の研究論文や、また著作などを拝読し、理解を深めることができたことに感謝する。

≪リルケがもっとも関心を持った日本の俳句≫

 リルケと俳句のことは次回の第二部紹介したいと思っている。リルケは晩年にあたる一九二〇年、四十五歳のとき、クーシューの日本の俳句のフランス語訳で、俳句を知った。なかでも、次の上島鬼貫の俳句に特に感銘を受けている。鬼貫は東の芭蕉、西の鬼貫と並び称された人だ。その俳句は

 咲くからに見るからに花の散るからに   鬼貫 

である。この句の「からに」は古語で「~するとすぐに」の意味。クーシューの訳では、

Elles  s’  épanousissent,  alors                 

On les regarde, – alors les fleurs      

Se fletrissent,- alors..

彼女たち(花))は咲く、そして

人は彼女たち(花)を見る―そして花々は

しおれる―そして..         (正子直訳)

である。クーシューの訳では、花を桜と解釈していない。フランスの俊秀クーシューが日本に来たのは二十四歳のときである。リルケはこのフランス語訳に「その短さにおいて言いがたいほどの熟した純粋な形の翻訳」(「リルケと俳句世界」柴田依子著)と言い、鬼貫の句を、「ただこれだけです! 甘美です!(rien des plus! C’est delicieux!) 」(同著)と言っている。

リルケのこの言葉からは、啓示を受けたような喜びを感じる。鬼貫の俳句は、「一瞬の閃きのうちに、万象の途切れることのない流れと、仏教の無常が三行の内に集めており、未完成が、表現の驚く以上のものとなっている。感覚的な世界のイメージそのものなのだ。」のクーシューの解説がつけられていたのである。たった三行の未完の詩による感覚的イメーージの詩に感嘆したのである。

リルケは俳句を知ってのち、二大詩篇と言われる『ドィノの哀歌』『オルフォイスへのソネット』を成している。。またその後、フランス語の短い詩をいくつも作り、表現は、内面への深い探究と反比例して、平明に透明感を増しているという。これは読んでいないので、これから読むのがたのしみである。また「核となる言葉だけの詩」を作りたいとも言っている。

リルケのドイツ語の俳句を髙橋信之先生の訳で、次に紹介する。信之先生は詩人リルケらしくない俳句だと言っている。そのことを認めながら、リルケ研究家の星野慎一氏は。この句は、リルケの世界観を言い表わしていると言う。「死と生がつながっている世界」のことである。

黄楊から出る蛾のよろめきつつ

この夜息絶え、知ることもなかろう

春でなかったのを。         リルケ

蛾は小春日和に迷い出て、夜の寒さで死んでしまったが、まだ春が来てなかったことをついに知らないだろう、と言う意味。そのほかにも甘い抒情を排して事物に実存の意味を置いた詩集など、俳句を作るものに、俳句を考えるヒントを与えてくれているのが、リルケの一面にあると思う。    (花冠三七三号、第二部「リルケと俳句」へ続く)
(©2025髙橋正子)