曇りのち晴れ
●東京の桜が今日2輪咲いたと天気予報で。あと3輪咲くと開花宣言だそうだ。
●16日にN先生から頂いた手紙に返事を書こうとしている。返事はざっと書いてみたら、3500字ほどになっている。先生の書かれたことに対する返事をしていて、その字数になった。しかし、これは、まだ十分な字数ではない。肝心なところを書いていない。いったん書いたものの。どうも何かが違う感じがあるので、頂いてから3日が過ぎた。
手紙のなかにあった、詩返の5つの俳句についてのN先生の感想なのだ。
「深く感銘を受けた」「詩に詩で応えることができて、羨ましい」という
ところ。メシアンの「幼子イエスへの二十のまなざし」が学生時代の愛聴曲であり、ウィーン留学時代にバッハの「マタイ受難曲」を通して聞いたり、そしてウィーン世紀末文化を研究された、先生が価値判断を見誤るはずがないのである。それなら、私の詩返がそのN先生に深い感銘を受けた、とか、羨ましいとか言う言葉を私にわざわざ使う理由も必要のないのに使ったこと。したがって、「真に受ける」必要があるのだ。そうなれば、それは、正子自身の実力から出たものか、ということになると、はなはだ疑問なのである。そのことに答えが見つからず、まだ返事が書き終らないのだ。
今、思い浮かぶことは、リルケの詩を読んで、それに応える俳句。リルケの言葉に触発されて、正子の言葉が立ち上がっていると言える。リルケの詩に詠まれた景色は、これまで読んだ物語、小説、映像、絵画、音楽、あるいは、ドイツ旅行、イギリス旅行、故郷の景色や海や祭り、四季折々の行事、祭礼など、あらゆる人生の経験から、リルケの立つ庭に立とうと思えば、それに同じではないが、近く立つことができるような感じがする。そして、私は、リルケの言葉の意味を読んでいるのではなく、言葉の表現しない余白、空間を読んでいる。これは俳句を60年ほど読んだり、作ったりした訓練によるものなのだ。その理由でもって、詩返を作っていると思う。だから、私の詩返がN先生に深い感銘を与え、羨ましいと言わせた
のは、リルケの詩があるからなのだ、と漠然と結論付けられる。
このことを先生にお伝えしなければいかないだろうと、これを書きながら思った。
●ゆうまくん、「ないない」と物を隠して見つける遊びを繰り返す。布団の中へ隠すのだが、どんどん奥へ入ってしまう。私が「どこかな」と言いながら探す振りをすると「えぅ!」といって、じっと私の顔をみて、ポーカーフェースをする。私が探す振りをして顔を降ると、自分も顔をふって、勢いであおむけに倒れてしまい、自分で笑う。これをわざと繰り返す。これが一歳にならない赤ん坊かと思うが、おかしい。離乳食のあた、「ごちそうさま」と私がいうと、手をかるく握って合わせる。動作も可愛いが、「ごちそうさま」の言葉がわかっている。
「こいのぼり」の額絵を買ってもらって、絵をさし「り」と言う。「こいのぼり」の「り」だが、こういう言い方もあるかと、思った。