曇り
プランターの春菊急に葉を育て 正子
薔薇の芽のくれないなれど濃く淡く 正子
●部屋に暖房をつけないで、炬燵だけにあたっていた。寒いと言うより冷たい。立ち上がってエアコンをつけたわけだ。
●送られてきた「奥の細道むすびの地記念館」『共鳴』2月号を読んだ。主宰者の句が載っている。主宰者の俳句を言うのではないが、今の俳句は、栄養失調で、サプリメントを食べたり飲んだり、そして、刺激的でおいしいファーストフードのように思えた。すっかりテレビのコマーシャルの性質になっている。
●『詩を読む人のために』の口語自由詩以前のまとめを先日書いた。日本の詩は象徴の濃度の違いで推移している。象徴を軸に詩史を見たひとは稀とある。三好達治のこの本はほぼ歴史順に、形式を分けてならべらえている。内容で分けているのではないが、時代の空気はどこかに感じとれる。
それが歴史順に並べてほぼ差し支えない理由だろう。
芭蕉の言葉は象徴性がある。だから深さがあるのである。現在、芭蕉を語る人は多いが、本当にその精神がわかっているかというとそうではなさそうなのだ。芭蕉は精神の人だが、現俳壇は技巧に偏っている。この段階で、芭蕉理解は無理をわかる。
今日「奥の細道むすびの地記念館」の『共鳴2月』をAIに分析してもらった。予想に近い結果が出た。そして結論。私はあるところまで到達しているので、私の俳句をこつこつ作っていればよいということ。ただそれだけの事だった。
晴れ
大甕に小桜ほちほち咲き初むる 正子
大壺のさくら花枝の張り詰める 正子
風のパンジーひと花びらも疵つかず 正子
●太宰治賞の落選について考える。
私の作品は断章小説と言う形式をとっている。そして、内容は、私信としての、献呈(Widmung)としての文学である。この小説の落選が意味するものは次のようなことである。
私信として書いたので、宛先に渡って意味があるが、直接渡すのは、内輪すぎて、直接過ぎて、重すぎる。それが、落選と言えども、一度、賞のふるいに掛けられ、外の光にあたったことで、別の相に移ったという意味が付与された。その意味を価値という。さらに、落選によって、私の精神の深層が守られたことは大きい。賞というのは、制度に合っていること、審査員の好みあっていること(審査員の好みに迎合すること)、締め切りに合わせる。これらは、自由であってはいけないことなのだ。これからすると、私は大変な自由人ということになる。自分ではいつも窮屈な思いをしているが、まっとうな自由人だ。そしてそれから派生して、「自由は本質である」と言えるのだ。「迎合しない、熟慮を切り上げない、権威に媚びない」ことを本質と言うのである。これは発見であった。私の作品が世間から守られ、落選と言えど、外光にさらされたことで、「落選した文学としての価値」がついたことは、応募してよかったのだ。これを結論とする。
●句美子の家から帰宅後、クッカーで餡を炊いた。2時間半かかるので、出来上がりは深夜を回る。別の部屋で、原稿を書いていると、誰か女性が訪ねて来たような気配。誰かが声をかけているようだ。真夜中の声。気味が悪いので、何度読んでも出ていかなかった。インターホンにも出なかった。あっと気づいた。クッカーが、「残りの材料(砂糖)を入れるように」言っていたのだ。かなり気味の悪いできごとだった。声の気配が、しばらく耳の奥に残っていた。