★野ばら咲く愛のはじめのそのように 正子
野バラの咲きはじめるさまは、乙女の恥じらうような愛からという。初々しい風情です。(祝 恵子)
○今日の俳句
蓮華田の花もろともに鋤きし後/祝 恵子
一面に花を咲かせていた蓮華田も、田植えの準備が始まると、容赦なく田に鋤きこまれる。掘り起こした土に、蓮華草のピンク花や緑の葉が混じっているも、なまなましい「後」である。(高橋正子)
○自然教育園の森
東京都港区白金台にある「国立科学博物館付属自然教育園」に信之先生と出掛けた。大都会「東京」の中心部にあって豊かな自然が残る。都市砂漠の中のオアシスともいえる緑地です。コナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹に広く覆われているほか、ススキやヨシの草はら、あるいは池や小川などがある。このような自然を活かした各種の教材園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものが身近に観察できる自然に親しみ、四季折々に変化する生物の姿や風景に心をなごませ、自然と人間との関わりを考える場として大いに利用することができる。池のほとりの杜若(かきつばた)が見ごろであった。
「自然教育園」の公式ホームページによれば、その沿革は、以下のようであった。
自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(約2500年前)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。
平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。
江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。
明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。
その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。
○杜若(かきつばた)
[かきつばた/東京白金台・自然教育園]
★宵々の雨に音なし杜若/与謝蕪村
★杜若けふふる雨に莟見ゆ/山口青屯
★森に池あり杜若濃き青に/高橋信之
カキツバタ(燕子花、杜若、Iris laevigata)はアヤメ科アヤメ属の植物で、湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付ける。内花被片が細く直立し,外花被片(前面に垂れ下がった花びら)の中央部に白ないし淡黄色の斑紋があることなどを特徴とする。愛知県の県花でもあり、三河国八橋(現在の知立市八橋)が『伊勢物語』で在原業平がカキツバタの歌を詠った場所とされることに由来している。在原業平が詠んだ歌は「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立しており、古典園芸植物の一つでもあるが、江戸時代後半には花菖蒲が非常に発展して、杜若はあまり注目されなかった。現代では再び品種改良が進められている。日本三大カキツバタ自生地は、愛知県刈谷市井ヶ谷町にある「小堤西池」、京都府京都市北区にある「大田の沢」、鳥取県岩美町唐川にある「唐川湿原」で、カキツバタの自生地として有名である。なお、「いずれがアヤメかカキツバタ」という慣用句がある。どれも素晴らしく優劣は付け難いという意味であるが、見分けがつきがたいという意味にも用いられる。
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お礼
正子先生、「蓮華田」の句の載せいただきましてありがとうございます。
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野ばら咲く愛のはじめのそのように
野バラの咲きはじめるさまは、乙女の恥じらうような愛からという。初々しい風情です。