10月5日(土)

小雨  
  鶴見川 
ぎす鳴けり潮の匂いの上りきて    正子
秋の蚊の飯噴くころに増えにけり   正子
秋冷に紅茶を淹れに椅子を立つ    正子

●ヴァーチャル・ツアーで「ジヴェルニーのモネの家」を見た。庭と部屋の内部が見れるが、モネの油彩を飾っているのは大きい一部屋、浮世絵を飾ってあるのが、玄関ホールのほか二部屋。浮世絵の収集の多さに驚く。ンプルな額縁に入れて飾ってある。ジャポニスムは一過性のブームではなく、大きな影響を与えていると知らされた。
Essay
(十一)リルケと俳句について
●リルケは1920年9月、『新フランス評論』(1920年9月1日)「ハイカイ特集号」のフランス語の翻訳を介して初めて俳句を知っている。このとき、鬼貫の
「咲くからに見るからに花の散るからに」
に感動し、日本滞在の経験のあるネルケ夫人に「あなたは短い日本の(三行)の詩形をご存じですか」と手紙を出している。

同年10月には『アジアの賢人と詩人』(P.L.クーシュー著1916年初版)1919年をパリで購入(三刷本)して、アンダーラインを引き、丹念に読んだことが、遺された蔵書の研究からわかっている。
クーシューはこの著書の第二章「日本の抒情的短詩」において、6ページほどを俳諧総論として置き、俳句の定義、特質、起源、作者などについて、日本の版画などと比較しながら簡単に紹介し、さらに具体的に俳句を約70ページほどを訳出し、注釈をつけている。クーシューの説明にリルケがアンダーラインを引いているところがある。四つ挙げるが、それがリルケが受け止めたハイカイである。

①俳句の一般的な特徴は大胆なほどの単純化である。ハイカイは一枚の日本風クロッキーに比較できる。
?ハイカイは我々の目に直接訴えてくる一つのヴィジョンであり、我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる生き生きとした一つの印象である。
③Un petale tombe                 ひとひらの落ちた花びら
    Remonte a sa branche   再び枝にのぼる
    Ah’c'est un papillon!   ああ それは蝶
ARAKIDA MORITAKE
(原句 落花枝にかへるとみれば胡蝶かな 荒木田守武)
この最後に示した例は典型的なものである。ひとつの短い驚き!これが俳句の定義そのものである。
④これら(3つの描線)は、他のいかなる振動にも限定されず、ほとんど際限なくおのずと広がってゆく振動に似ている。
リルケはハイカイを知ったのち、ハイカイの影響を受けて短いフランス語の詩を書いている。影響はどのように詩になっていったかを知りたいところである。
(リルケのフランス語の詩をここに引用する代わりに、我々俳人は、庭に咲いている薔薇の花を思い浮かべ、その薔薇について俳句を作るつもりで以下を読んで欲しい。)

「薔薇」(詩篇I)には、
薔薇の爽やかさに「短い驚き」を、薔薇の花は中心に眠りを持ちながら全体目覚めているというイメージに、「我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる」を当てはめ、そして一詩そのなかに、リルケの中心的なテーマである「生と死の統一体」が「眠り」と「目覚め」の対比的な語の組み合わせで、簡潔に自在に実現されている。

リルケの詩人としての偉大さは、薔薇を観察する洞察の深さと、自分の中心的テーマ「生と死の統一体」を簡潔に自在に詠み終えていることである。
(つづく)

10月4日(金)

晴れ、一時日照雨
老人の鯊釣る空が晴れており     正子
鯊釣りにカワウ羽ばたくことがあり  正子
鯊釣りの川に潮の上り来ぬ      正子 
●午後、鶴見川へ歩いていった。昨日は川上へ歩いたが、今日は、着いたところから川下へ1km歩いた。人道橋を渡り、鶴見川の左岸伝いに河口から6kmのところまで歩いて引き返した。人道橋の上は秋風が川下から吹いて、30度を超える気温には涼しい風だった。川はさざ波を光らせながら流れている。
人道橋から川沿いを下り始めると、すすきは丈が低く、穂が小さくて若い。黄色い花はキバナコスモスに見えたが、ハンゴンソウかもしれない。尾瀬に行ったときに、片品あたりにハンゴンソウが咲き乱れ、胡麻が植えられていた景色を思い出した。尾瀬のハンゴンソウの花はさびしかった。ずっと下るとハゼを釣っている老人が三人、また一人と居る。そこへ町内会長らしき人が来て、紙を見せながら話しかけている。多分カワウだろうが一羽泳いでいる。水の上に伸びあがって何度も羽ばたく。川の中央に50m間隔ぐらいに赤いブイが浮いている。舟のためかもしれないが、この辺りは舟はいない。もう少し下れば舟に合うだろうが。ハゼを釣っているあたりは潮の匂いがするので、釣りをする人に聞くと、潮は上がってきている、と答えてくれた。
次の橋は架け替え工事中で大工事のようだった。川沿いに新しい三階建て住宅が二十軒ほど並んでいるが、窓の位置も形も同じ。色が同じだったり、違ったりで、オランダの運河沿いの景色のように見えた。彼岸花を裏手の土手に植えている家があって、赤、白、オレンジ色の花が咲いていた。特にオレンジの花がいい。リコリスというのだろうが。通りがかりの老婦人たちがのぞき込んで、来年はもっと増えてきれいになるだろう、など話していた。
昨日より、脚がなれて歩きやすくなっている。いつものバス停から日吉駅東口まで乗った。今日は11000歩を超えた。
●夜、ヴァーチャル・ツアーでオランダの国立美術館(Rijksmuseumライクスミュージアム)を見た。VRゴーグルで見るのかどうかわからないが、単に見ただけ。操作に慣れないので、レンブラントの「夜警」、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」、「ゴッホの自画像」があるようだけど、見ることができなかった。それでも画の色彩や収集品などから雰囲気が伝わった。

10月3日(木)

曇り、午後小雨
秋風に吹かれさざ波川のぼる    正子
堤防の秋草延々と刈られ      正子
秋草の堤防を刈られ匂い立つ    正子

●午後、鶴見川へ川を見に歩いて行った。7000歩ほどある。土手に着くころ、小雨が降り出したが、土手は除草作業中だった。コンバインの小型のような赤い芝刈り機2台が100mばかりを行き来している。稲を刈った後のような匂いが立ち込めている。川の水は、さざ波が川上へ吹かれて上っている。空からカラスのような鳥が舞い降り、水に潜った。カラスではない。黒い鳥。カワウかもしれない。一羽で浮いていたが、ときに水のなかから羽ばたく。そのうち、水を出て、空を旋回し遠くへ飛んでいった。鳥は何もいないのだ。魚が水から飛び上がるのがいる。どきどき白く川波が立つが、魚が水面近くを泳いでいるのだろう。川の茂みに芙蓉が咲いていた。土手下の家には栗の木があり、毬が半分ほど茶色に熟れていた。帰りは日吉駅東口まで路線バスで。歩いている途中に、丸善から頼んだ本がきたからと、スマホに電話があった。ちょうどよく日吉駅でバスを降りたので、丸善に寄り買って帰った。本は『ドゥイノの悲歌』(リルケ作・手塚富雄訳/岩波文庫)。

10月2日(水)

快晴
透明に濃密に秋の化粧水     正子
遠き声確かに鳴ける法師蝉    正子
燭の火に供うふたつの青蜜柑   正子
●夕方5丁目の丘へ行った。蚊がいるので行かないようにしていたのだが、崖っぷちの公園に着くと、蚊の猛攻撃にあった。ムヒを持ち歩いていているので、あちこち塗る。公園からは富士山のシルエットが見える。富士山の右の山々の稜線に夕日が沈むところだった。半分沈みかけた夕日は二分もしないうちにすっかり稜線の向こうに沈んでしまった。沈んだあと、日の丸のような赤い夕日の残像が夕焼けの雲に映った。夕日が落ちたとたんに、富士山の右肩がひととき赤く染まった。それもすぐ消えた。帰りは、遠くにつくつく法師の声を聞きながら坂をくだった。まだ蝉がいる。

10月1日(火)

晴れ
彼岸花ひとむら庭に抜きでし    正子
眺めいし窓に映れる鰯雲      正子
紫蘇の花うすむらさきの穂となりて 正子
●たくさんの郵便物。二人には、葉書でお祝とお礼の返事。今日から葉書が85円に。84円切手に1円切手を貼って出す。
Essay
(十)リルケと俳句について
●昨日コピーした「セザンヌとリルケ」(角 英祐著/ジャーナルフリー34巻1965年)をよく読んで、まずは、セザンヌとリルケの問題を片付けておかないといけない。リルケ自身の問題は「詩」の問題であり、それは、俳句という詩につながる問題だと思うからだ。
(これから書く文は、自分が考えるための文であることをお断りする。)
リルケは、1907年、32歳のとき、パリでのセザンヌの回顧展を連日訪れて見ている。(日本の洋画家の有島生馬もこのとき偶然訪れ、非常に感動を受け日本に最初にセザンヌを紹介したと言われている。)32歳の抒情詩人リルケは「形象詩集」や完結前の「新詩集」など精神的遍歴の歴程にあり、抒情詩人としての自分の在り方に懐疑と反省の眼を注いでいたという。
会期中の妻宛ての手紙の一つに、「自分は自然を歌っているつもりでいて、本当は自然を只一般的な契機として、只自然の召喚Evokationに応じつつほかならぬ自分の内なる魂を歌っていたにすぎない。自分は自然をみなかった。自然が私に吹き込む幻覚Gesichteをみていたにすぎない」と記している。これは私の俳句においても確かに言えることで、反省をすべきことであるし、俳句では戒められることである。
このことは、先になって考えたいが、今少し飛躍があるかもしれないが、つまりは「抒情」ということが問題なのであろうと思う。これは、俳句について、最も言えることで興味深い。「俳句と抒情」の問題は重要なのだ。

9月30日(月)

曇り
栗おこわ栗がもっともつやつやと   正子
星あかり路地に虫らが生きて鳴く   正子
星明かり宙のさみしさ長しえに    正子
Essay
(九)リルケと俳句について
●『リルケ』(星野慎一・小磯仁著/清水書院)が届いたので、丸善へ取りにいく。「これでいいですか」と店員に言われ、一瞬、違うと思ったが、装丁が新しくなっていた。新しくなってからも、もう9年経ってる。中身は同じで安心した。値段も時代を反映して840円から1320円となっていた。

●「リルケは俳句の何に魅力を感じて、自らもハイカイを3編(句)残し、さらに墓碑銘の俳諧とも言われる3行詩をなぜ残したのか」を知りたいと思うのがリルケを考えるきっかけである。ただそのことだけに関心を絞っておかねばいけない。このことを自分に戒めておく。

ネットでセザンヌやジャポニスム、リルケについてブラウジングしていたら、「リルケの俳句世界」(柴田依子著/比較文学Vo.,35)の論文を見つけた。印刷したので、これからこれをよく読んでみるつもり。

●リルケはセザンヌの画に魅かれている。セザンヌの画をネット動画を見ていて、気づいたことがある。リルケがセザンヌに魅かれた理由の一つがそれではないかと思った。「サント・ヴィクトワール山」からは「見た目の風景画から存在の本質に迫る風景画へ」の文があった。わかりやすく言えば、風景画に描かれている山や木や家やが、力強い存在感、力強い線をもっていることではないかと私は解釈した。
上の文章を生成AIに貼り付けた。AIが「セザンヌとリルケ」(角 英祐著/ジャーナルフリー1965年34巻p112-120))を挙げてくれたので印刷。この論文のレジメはドイツ語。この論文はJ-STAGEでオープン公開され無料で読めるようになっている。私が大学に入学したばかりのころ書かれた論文だ。ネットで探せば、疑問に思うところを、だれかが考えてくれて、論文で読めるのはありがたい。だが、探すのが大変だ。ここまでくるのにどれだけ検索したか。今日,ダウンロードした二本の論文は、私には非常に貴重な論文である。感謝する。

9月29日(日)

曇り、のち雨
蕪剥けば包丁やわらかに当たる  正子
秋の燈に夫居しころは何せしか  正子
秋の燈に無為の瞼の眠りそう   正子
●雨が降ると思わなかったが、昼ごろから雨。晴美さんが栗おこわと作ったからと持ってきてくれる。信之先生は生前、晴美さんのおこわを喜んで食べた。なんどかいただいている。今日もお供えして、お下がりを、なにしろ季節のもの、夕方友宏さんがきたので、二人で食べるように持って帰ってもらった。
●古典芸能番組で観世流の能「三輪」を見る。里の女の面、どこか生きているようにも思える。能面にしては幽かな表情がある。こういう面を何というのだろう。衣装の白と紅の絹の感じがとてもきれい。白は白でなく、紅は紅でない色。手に持った榊の緑が印象的。

9月28日(土)

曇り
なぐさみの青き朝顔咲き残り    正子
わが頬を照らすや林檎積み売られ  正子  
林檎の点星のごとくに散らばれる  正子
●掘りたての里芋を買いに電車に乗った。昼前の電車なのに、土曜日のせいか、満員。私は背が低いので、立ってる人の胸辺りしか見えない。傍の人を見ると、手に『愛はすぐそばに』という文庫本を持っている。半分ぐらいのところに栞が挟んであるので、こんな本を読む人はどんな人だろう、と顔を見たら、初老の華奢な男性だった。女性だと思っていたので、男性だったのでそうなのか、男性でこんな本を読むんだと思い、よくよく本を見た。実は『死はすぐそばに』と書いてあった。なにか、「死」も「愛」も同じようなものに感じられた。ここまで生きてくれば、死も愛も一緒でいいじゃないかという気持ちがした。。
肝心の里芋だが、JAの店員さんに聞くと、おととい初物が入荷して、きのうも今日も入荷はないとのこと。あすは入るかもしれないと、電話番号を書いた紙切れをくれた。しかたなく、阪急に行って里芋を探したら、三個入りの袋があるにはあった。まだほんとに出始めたばかりなのだ。

9月27日(金)

小雨
秋霖に婚礼の鐘鳴りわたる    正子
配達の梨の新鮮仏前に      正子
秋雨に濡れればシャツに雨匂う  正子

●今日は夕方から雨がひどくなりそうなので、早めに本を返しに出かけた。図書館のすぐ近くにある結婚式場の鐘が鳴り始めた。12時の鐘かな、と思ったが、11時44分。たぶん、結婚を祝う鐘なのだろう。本当の教会の鐘ならもっと大きく傍にいればうるさいほどなのだが、それほどでもなかった。秋雨のなかに鐘の音を聞くのは初めてだった。


●図書返却。あたらしく『近代美術の巨匠たち』(高階秀爾著/岩波現代文庫)、『やっぱり京都人だけがしっている』(入江敦彦/洋泉社)を借りる。『マルテの手記』『ドイツの詩を読む』を延長で借りる。

ゴッホのことは比較的知っているが、セザンヌのことは、ほとんど知らない。『近代美術の巨匠たち』は画業に通じるたのしいエピソードがあって、面白く読めそう。電車でセザンヌのはじめを少し読む。


●『やっぱり京都人だけが知っている』は、「本屋」の章を読むと京都は本屋だらけの印象を受ける。名前が個性的な本屋がいろいろ。「甲鳥書林」についてもあったが、虚子や吉井勇などの歌集や句集で見たことがある。
そして、「京都人は黙して語らず、自らの意志で行動(出版)する。背馳的で諦念の底に住んでいる。」と評するのには頷いて、ひとり笑った。

●自民党の総裁選挙があって、石破さんが勝つ。まあ、良かったと思う。

9月26日(木)

晴れ
耳よりも心そばだつ虫の声   正子
秋草をなべて見てゆく夕散歩  正子
萩苗の花を咲かせて売られける 正子

●午前、パソコン4台をノジマに持って行って処分してもらった。Lavie3台、Vaio1台。ノートパソコンとは言え重いので、2台ずつ運んでノジマへ2往復したのだ。この前FMV2台、Asus1台を処分してもらたので、7台処分したことになる。まだ銀行の払い下げの1台が残っている。
Essay
(八)リルケと俳句について
●『リルケ』(星野慎一・小磯仁著/清水書院)は、図書館で借りているが明日が返却日。238ページの本の一言一句に意味があるので、自分に買うことにし、丸善に注文した。

ついでに丸善で、岩波文庫の星野慎一訳の『リルケ詩集』を探したがない。今はそれに代わり高安國世訳の『リルケ詩集』がある。それの「ドゥイノの哀歌」の第1哀歌の訳を見ると「nichts」の訳が「nicht」に近い訳になっていたので、それでいいのかなと、そんなことが一瞬頭をよぎった。それで、星野慎一ならどう訳しているのだろうと探したが、星野訳は絶版のようなのだ。

リルケのnichtsとdas Gantzは俳句を作る私からすれば、関心のあること。星野訳の『リルケ詩集』が絶版らしいと知って、本屋でつくづく思った。翻訳を読む前に原詩で「ドゥイノの哀歌」を無謀にも読もうとしたことは、第一哀歌の4行目で、はや意味があることだと思えた。この月面着陸を願うような企ては、間違いとは言い切れないと思えた。帰宅してオンラインで岩波文庫の星野訳リルケ詩集を探した。かなり古そうだがあった。ほかにも、大山定一、富士川英郎、手塚富雄、高安國世、神品芳夫、小林榮三郎の名前に出会った。

「ドゥイノの哀歌」を読む月面着陸的企ての契機はこうなのだ。
本棚に信之先生の遺したインゼル書店のリルケ作品集がある。私が読む以外は子供たちは読まないだろうと思って開いて見た。読めるかなと思いながら、最初のリルケの詩2編を辞書とAIを頼りにして読むことができた。最初の詩はプラハの街を読んだ詩。

同時に、『リルケ』(星野慎一・小磯仁著)を読んでいる。そこに、リルケのハイカイの星野の解釈があって、これが私の考えと同じだっとことが非常にうれしく、私にもリルケが読めるかも知れないという思いが湧いた。

ドイツ語を知らない私が辞書とAIを使って読む時間は、初期の詩も「ドゥイノの哀歌」も大して変わらないだろうと思った。実際は、「ドゥイノの哀歌」の8行を読むのにレポート用紙3枚のメモが必要だったので、時間は数倍はかかっている。が、例えば他の本でその内容を読もうとすれば、そのくらいの時間はかかるので、むしろ、数行にある濃度に沈潜できるので苦ではない。そんないきさつで、「ドゥイノの哀歌」を読むことになったのだ。

リルケに気持ちが行ったのは、残りの人生が少ないことなのだ。読書について、おそらく意識的かもしれないのだが、ある時の、二回の時の「読むということ」で傷ついたトラウマから、リルケとファウストは柄でもないないからと避けてきた。それなのにか、それだからか、ここに来て、読まずに死ぬのは悔やまれる気がするのだ。それと、信之先生の一周忌を修めて、世の中から離れて「ひとり」になったことも関係している。「孤独」が手に入った。これは私の性にあっている。こんなことから、リルケを読み始めた。おそらく、これは自分の俳句のためなのだ。