7月22日(水)


雨。夕立かと思ったら本降り。

●「自由な投句箱」のアクセス数が倍以上に急上昇。理由は不明。「自由な投句箱」の閲覧人数は限られていると思えるが、今日のアクセス数はおどろき。

●整形外科のリハビリを受ける。10分ほどで終わった。療法士の先生が歩き方を見て、右脚を動かすよう脳に刺激を与えるストレッチのようなことだった。リハビリは、気合を入れて根性でやる必要はないからとアドバイスをくれた。家での運動を教えるから、思いついたときにやるようにと。

●石楠の亜浪が言っている「俳句即人間道」。この「人間道」って、どういうことかと改めて思う。先日買った「菜根譚」は、処世訓の書として知られているが、内容には、俳句に通じることが多くある。人間道とは、人間らしく生きることなんだろうなあと。じゃ、「処世訓」とは、なにか。「菜根譚」の中心となる思想は、「中くらい」。俗のことを知りすぎるのもよくないとある。「処世」というと、俗の世を上手くわたる方法と思うが、方法というより、かかわり方なのだろう。宇宙観のようにも思える。「よい生活から良い俳句を」「細く長く」の花冠のモットーも、「平明な言葉を使う」はすべて「菜根譚」にある。

7月20日(月)


晴れ。
茄子の光ビニール袋に透けている      正子
朝採りトマトにすぐ溶け塩の粒       正子
まだ青きトマトばかりを選りており     正子

●整形外科へ。混んでいると聞いて覚悟していったが、そんなことはなかった。
腰部と股関節のレントゲン。それに、骨密度と血液検査。これらの検査は初めて。予想していたことが、二つ、想定外が一つ起こっていた。検査結果を見て人生を振り返った。骨には人生が刻まれている。だからちょっと悲しくなった。水曜日からリハビリに通うことになった。

●「グレート・ギャッツビー」を読んだのは、「ノルウェーの森」の主人公のワタナベ君の絶賛書というわけで惹かれて読んだ。しかし、読み終わって、今、読んだ心底の理由は何かと振り返る。1920年代の話なのだ。無くなった母が2016年生まれだから、おおよそそんな時代の話なのだ。だのに、この話は、旧家に生まれた田舎者の私には今にしても思う、深いところがある。この「グレート」は私には偉大にも華麗にも思えない。

7月19日(日)


曇りのち晴れ。

梅雨晴れの光まといて人・車    正子
梅雨晴れの夜となり星のひとつ生れ 正子
夏の星小説なれど青年死す     正子

●きのう「俳壇8月号」をレターパックで花冠会員に俳句はがきを挟んで郵送。
●久しぶりに、晴れた。夜は星見えて、気持ちが晴れる。

●『クレート・ギャッツビー』、第7章でクライマックスに。ここまで読んで、「文学とは」と聞かれたら、今日の私は「文学は比喩です。」と答えるだろうと思った。ギャッツビーの比喩はシェークスピアを超えていそう。少なくともシェークスピアを思い出させる。

俳句は比喩は避けるべきと教わった。だのに、腹が立つぐらい「ごときの俳句」だらけ。なぜ俳句が比喩を嫌うかと考えを巡らすと、比喩での表現は、俳句では、ある意味、安易、易きに流れ、本質を見るまでの攻めを欠くからと言えそう。小説はというと、比喩でないと真実が言えない気がする。

●ギャッツビーの第7章を明け方4時ごろから読み始めて、朝8時のラジオの「音楽の泉」をたのしみにしていた。だのに、いつの間にか眠って、気づいたら、ラジオからベートーベンの第1の終わりが流れていた。そこのところが、第7章の気分にあっていたのでなんだこれは、と目がはっきり覚めた。ベートーベンの生誕250年は今年だったか、去年だったかと頭が廻った。聞き逃したので、ネットで探しアバッド指揮のベルリンフィルで第1を聞いた。

7月18日(土)


曇り。

●かかりつけ歯科医院の閉院を知り、31日の閉院までに定期検査をしてもらおうと電話。ところが診療は明日で終わりと知ってびっくり、今日定期検査には少し早いが検査をしてもらうことに。午後4時の予約。行くと「どこか痛いのか」と。「特にありませんけど、だた終わりなので診ていただきたい」と。新しいお医者にかかることに私は臆病なのだ。

今日は歯科医院で不思議なこと起こった。いつも土曜日に治療にいくのだが、いつも一緒になる女性がいる。入口のところのマッサージ機に座って私の顔を見るのだ。待ち時間の手持無沙汰と今日で閉院なので、「よく一緒になりますね。」と声をかけた。「とうとう終わっちゃったね。」と。すると、「ちょっと、歩き方がおかしいわね。こっち来て。骨盤がうしろに残ったような歩き方よ。」私の脚を差して「ここと、ここが痛いでしょ。」という。そのとおりなので、神がかり的だと驚いた。ストレッチのやり方を指南してくれた。それから整形外科の理学療法士がいるところへ行くべきだとアドバイスをくれた。35、6歳ぐらいで、髪の毛は抗がん治療を受けたことのある感じ。ヘルプマークの札をバッグに付けていた。

●連日、新聞に藤井新棋聖の記事。中でも感心と思ったのは、「電話をしたら、母に良かったねと言ってもらえた。」の言葉。「言ってもらえた」なのだ。わが息子なら決してこんな言葉は言わないだろう。母親次第なのだろうが。

7月17日(金)


曇り、小雨。
朝顔の茂りの嵩を朝な愛で   正子
開け放つことより一部屋夏座敷  正子
向日葵のきのう見し色瞳に残り 正子

●風呂蓋を新しく、3枚板のものにした。コープに頼んだが、送り状を見れば、広島県の三次からはるばる長距離を送られてきている。途中をネットでみれば、発送から受け取りまでに一日。

●かかりつけの歯科医院が7月末で急に閉院されることになった。流行っていたと思うけどな。新型コロナのせいかも。別の医院に引き継がれる。

●右脚、右腰とまだ痛いので、整体へ。効果があるような、ないような。

●午後、横浜そごうのLoftにある鳩居堂へシルクスクリーンの絵葉書を買いに。新柄が数種。普通の葉書も2種類買う。

あと、同じ階の紀伊国屋書店へ。めぼしい本は、洋書コーナーのクリスティのもの。表紙が気に入ったので欲しかったが、買わず。無くならないように願う。
ミッシェル・オバマの本は、ハードカバーで、4千数百円。ぱらっと立ち読み。

7月16日(木)


曇り。小雨。毎日同じような天気が続く。梅雨明けを望むが、今年はこれまで以上猛暑なので、明けない方がいいと言う人もいる。

薔薇のごとき小さき夏の林檎食む 正子
 思い出
夏旅の市場に小さき林檎あり   正子
歩きつつ林檎食ぶなり夏の旅   正子

●将棋の藤井総太7段が、史上最年少で棋聖のタイトルを取った。17歳の高校生で、母親の立場から見れば、思春期の一番難しい年と思うのに、自分の言葉で、冷静に、すなおに感想を述べているように取れる。謙虚とも言われているが、そういう問題ではなくて、自分の世界をじっくり見ているように思える。すばらしい。

●「俳壇8月号」(正子5句掲載)を花冠の会員に送る準備。俳句葉書を入れて送るつもりで、いろいろ書いてみる。しばらく筆を持っていないので、指が固くなっている。手や指をしなやかにしないと字が書けない。急には治りそうにもないので、筆ペンで書く。穂先がなくて、一見マジックのようなあて名書き用の新種の筆ペン。止め、はらいなども書ける。

葉書に書くと、軽い感じ。ペン字のようだが、ペン字ではないところがミソ。数か月デパートに行っていないので、鳩居堂の葉書が10枚ほど書いて無くなった。絵柄と句があうように買わないといけない。で、仕事は、それ以上進まず。目安がついたので、一段落。

7月14日(火)


曇り。小雨。

●句美子が小型のミキサーを送ってくれた。一人前用分量で、音が世界一小さいといもの。主には、野菜ジュースとか、スムージー用。手始めに人参と林檎のジュース。甘さかげんは良かったが、人参の生っぽさがざらっとした感じが気になる。これは、信之先生は飲まないだろうと、判断。
林檎30g、人参30g、牛乳70cc、はちみつ小さじ半分、角氷小2個。

次に、人参をバナナに変えて作り、信之先生に飲んでもらった。甘すぎ、濃過ぎというので、シナモンを振りかける。半分ほど飲んで、飲みにくいと。これも不合格。野菜がいいかもと思うが、試飲でお腹がいっぱいで、なんだか疲れて、今日は2品で終わる。

7月13日(月)


曇り。

鬼灯に青さ残りて盆の供花       正子
桃売らるかなしき色に熟れもして    正子
メロン食ぶ「長生メロン」と呼ばるるを 正子

●7月月例ネット句会の入賞発表。実際は、昨夜11時ごろ済ませた。
https://blog.goo.ne.jp/kakan02d/
正子投句
34.緑陰に水のごとくに日の斑
明るい初夏の日射しの中の緑したたる木立の陰。木陰に織りなす木漏れ日の縞が水の流れのごとくに美しい。素敵な句ですね。(小口泰與)
35.向日葵を人のごとくに風雨打つ
36.初蝉は何蝉の声短すぎ

●新暦のお盆にはいったので、スーパーにはお供えのほおずきや、桃、西瓜がたくさん。桃も西瓜も季語では秋。梅雨の豪雨を心配しているところに、ご先祖をお迎えすることになる。盆の月だって出ていない。さすがに人の都合に合わせてまだ満月はつくれてない。人工流れ星はあるようだが。

7月12日(日)


雲り。薄日が差す。

●7月月例ネット句会。
https://blog.goo.ne.jp/kakan02d

●「俳壇8月号」が昨日届いた。P187に私の5句「夏休み」が掲載される。題名について、「遠花火」になぜしなかったかと、信之先生。生活詠がお題なので、よくわからないけど、なにかを意識したかもと返事。詠みたいように詠めたので、出版社には悪いが、巧拙、評価はいまさら気にしない。

●昨日買った『菜根譚』に「拙の極意」の文がある。
「文は拙をもって進み、道は拙をもって成る。一(いつ)の拙字に無限の意味あり。桃源に犬吠え、桑間に鶏鳴くごときは、何等の淳?(じゅんぽう)ぞ。寒潭(かんたん)の月、古木の鴉(あ)に至っては、工巧の中(うち)、すなわち衰颯の気象あるを覚ゆ。」

単に拙であるのとはちがうのだろうが、俳句は拙の文学であろうと思う。「拙の奥深さ」を評価すべき。

7月11日(土)


曇りときどき小雨。

●午前、整体院へ。待合の本棚になぜか『ノルウェーの森』(上・下)がある。取り出して読む。わが家にもあるが、村上春樹は読み進みつれて退屈なので、途中で止める状態だが、暇つぶしに読む。主人公がフィッジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を絶賛している。この『グレート・ギャッツビー』は、読んだことがないが、こちらを読みたくなった。私が学生のころ、フィッジェラルドは教授の口からも、学生仲間の口からもきいたことがなかった。ところが、今、たまたま手にする本に、フィッジェラルドがよく出てくる。中には、20世紀最高の文学とまでいう批評に会う。

●午後、お中元の手配のついでに本屋へ。本屋のカウンターで女性店員に『グレート・ギャッツビー』を検索してくださいというと、傍の50代くらいの男性店員がだまって書棚の方へ急いだ。そして、新潮社の『グレート・ギャッツビー』をあっという間にもって来てくれた。すぐさま「ありがとうございます」と言って手に持った。すぐ持って来られた不思議と、あまりにもあっけない瞬間に、しばらく本屋をうろついた。『菜根譚』(角川ソフィア)と『俳句のための基礎用語事典』(角川ソフィア)を入れて3冊を買った。後で考えれば、『菜根譚』と『俳句のための・・』は買わなくてよかった。ま、いいか。