曇り、夕方小雨
●台風が来ている。明日近づく予報。
●ここ数日、椅子に座っているといつの間にか眠っている。夜12時ごろ寝ても朝は5時半か6時半に目が覚める。この年齢では普通らしいが、寝ている間も緊張している気がしている。理由もなく一日緊張している。この辺で暑さが収まってくれないと。
曇り、夕方小雨
●台風が来ている。明日近づく予報。
●ここ数日、椅子に座っているといつの間にか眠っている。夜12時ごろ寝ても朝は5時半か6時半に目が覚める。この年齢では普通らしいが、寝ている間も緊張している気がしている。理由もなく一日緊張している。この辺で暑さが収まってくれないと。
晴れ、午後曇り
朝顔の色褪せ保つうす紫 正子
●9月というのに、猛暑はいっこう収まらない。むしろ、いっそうひどくなっているように感じる。ベランダのプランターの朝顔は水が足りなくて枯れたも同然の姿になる。水は如雨露一杯では足りなく、たっぷり2杯、鉢の底に水が溜まるほど注いでいる。半日もすれば水が底をつく。朝顔の色も濃い青だったのが、今朝は色を失って薄紫になっている。いつものように2輪を摘んで今朝の食卓に置いた。
●9月1日の有花さんの投句の「八月尽」ついて自由な投句箱に説明した。私が俳句の問題で説明するのが一番難しいと思っているのは「季語」である。歳時記には、机上で使うもの、吟行などに携帯するもの、さらに詳しい大歳時記と言われるものがある。問題はこの「大歳時記」である。新季語が取り上げられることもあり、著名人がそれを使う場合もある。しかし私から見れば、内容によっては慎重に見極める必要があると感じることもある。著名人の句を批判するのは難しい。俳句を褒めるのは私にとっては、やりやすい。句の問題点を指摘することは、私にとって容易ではない。褒めておけば無難、というわけではない。俳句の問題点は、技術だけでなく、言葉の象徴性や倫理性など、複雑な要素が絡み合っている。季語の範囲があまりに広がり、もはや何でも季語になり得るように感じる。象徴としての季語の働きが弱まっているものもある。季語に触れるには慎重さが求められるが、私自身、慎重さを忘れるというより、つい手を伸ばしてしまう——それもまた、季語の魅力なのかもしれない。季語が「なんでもあり」となれば、逆に季語がないと同様になる。今後、季語はどう変容していくのだろうか。
On September 1st, I offered an explanation in the free submission box regarding Yuka-san’s haiku using the seasonal phrase “End of August.” What I find most difficult when discussing haiku is the matter of kigo—seasonal words. There are various types of saijiki (seasonal word dictionaries): those for desk reference, those carried during ginko (poetic outings), and the more detailed ones known as daisaijiki. The issue lies with this daisaijiki. New seasonal words are sometimes introduced, and prominent figures may choose to use them. Yet from my perspective, depending on the content, I often feel that careful discernment is required.
It is difficult to critique the haiku of well-known individuals. For me, praising a haiku is far easier. Pointing out a poem’s weaknesses is not something I find easy. That said, simply offering praise for safety’s sake is not the answer either. The problems within a haiku are not limited to technique—they involve complex elements such as the symbolic nature of language and ethical considerations.
The scope of kigo has expanded so much that it feels as though anything can now be considered a seasonal word. Some kigo seem to have lost their symbolic power. Engaging with kigo demands caution, yet for myself, it’s not that I forget to be cautious—it’s that I find myself reaching out to them nonetheless. Perhaps that, too, is part of their allure.
If kigo become “anything goes,” then they may as well not exist at all. How will kigo evolve from here?(the translarion by copilot )
晴れ
ゆうまくん二句
秋の蚊のさしあと赤く児がねむる 正子
寝返りがあそびで暑き日が暮れる 正子
秋暑しラッシュアワーに乗合す 正子
●朝の日が少し斜めに差すようになって、秋めいてきた。角川の自選5句のについて、美知子さんからメール。「谷水を啄み鶺鴒水の上/美知子」の句について、好きな句なのだが、すこしもわっとした感覚が残るのはなぜか考えた。「啄み」が説明になっているのだ。「啄む鶺鴒」とすれば鶺鴒のイメージがはっきりする。そこなんだと気づいた。
●かなりリルケに頭が侵されている。夜中、イタリア語講座を見ていた。語学よりも文化的なものを伝えてくれるので面白いから見ていたのだが、講師の男性の一人が髭を生やしたリルケの似顔絵によく似ているのだ。
最近では、髭を蓄えた男性が目につくようになった気がする。私の父親も戦地で軍馬に乗り、髭を生やした姿で写真に収まっていた。これは第二次世界大戦中のこと。最近では、テレビの広告に「どうする?GOする」に出て来る髭の男性も魅力的だし、某企業の社長の髭は文豪の誰かのようだ。某社長は、たまごサンドが外国人に人気なので、これの世界展開を考えていると、一見ミニマムでありながらも世界規模の話を自然な日本語で話した。わたしはてっきり、彼を日本人と思い、「日本人の髭もジェントルマンらしくなった」と感想をもったのだ。ところが、字幕に出た彼の異国人らしい名前に思い込みが外れた。「日本人の」は、行き場を失った。
髭を生やした男性について。私は旧知のある方を若い時しか知らないでいる。ところが最近、ウェブサイトを検索中に、偶然にその方らしい写真をネット上で見て、思わず息を呑むほど驚いたのだった。本当にその方かどうか確認したかったが、二度とそのサイトが出てこなかった。その方の若い時のイメージからは、決して想像できない変化なのだ。その写真は現役時代の講演の時の写真らしかった。夜ねむりながら、その方のイメージを作り直していた。その口髭は、彼の地位を表し、彼の人生の成熟の現れなのか、彼はお洒落を楽しむ余裕があるのかなどを思い、口髭を蓄えたその方を静かに受け入れた。その方の若い時、わが家でみんなで食事した時の楽しそうな会話を思い出した。そうだ、その方にはそういう一面があったのだと思い直した。それは多分、その方の色気というものであろうと。時の流れをまとい、成熟と余裕が滲むような魅力とでも言おうか。
I seem to be quite possessed by Rilke lately.
Late at night, I was watching an Italian language program—not for the language itself, but because it conveyed something more cultural, which I found fascinating. One of the male instructors bore a striking resemblance to a bearded sketch of Rilke.
Recently, I’ve noticed more men with beares catching my eye. My father, too, once rode a warhorse during World War II, and in the photograph from that time, he wore a mustache. These days, even the bearded man in the “Dō suru? GO suru” television commercial seems charming, and the CEO of a certain company sports a full beared reminiscent of a literary giant. That CEO spoke in fluent, natural Japanese about expanding the popularity of egg sandwiches among foreigners—a seemingly modest topic, yet he spoke of global ambitions. I assumed he was Japanese and thought, “Even Japanese beards have become gentlemanly.” But then his foreign-sounding name appeared in the subtitles, and my assumption collapsed. The phrase “Japanese beards” lost its place.
As for bearded men—I’ve only known a certain acquaintance from his youth. But recently, while browsing online, I stumbled upon a photo that seemed to be him. I gasped in surprise. I wanted to confirm it was truly him, but the site never appeared again. The transformation was unimaginable based on my memory of his younger self. The photo seemed to be from a lecture during his professional years. That night, as I drifted to sleep, I began reconstructing his image. I wondered: was that mustache a symbol of his status, a sign of his maturity, or simply an expression of his refined taste? Quietly, I accepted this bearded version of him.
I recalled the cheerful conversation we once shared over dinner at my home in his youth. Yes, he did have that side to him. Perhaps that was his allure—an elegance shaped by time, a charm steeped in maturity and ease. (the translarion by me and copilot)
●俳句日記を8月1日にWordPressに移転してはじめてUSAからアクセスがあった。
晴れ
朝の餉に朝顔二輪を摘んで来し 正子
青葡萄供えて厨子のあかるかり 正子
パンと食ぶ葡萄の粒のつゆけくて 正子
●句美子の家へ。梅ジュースが出来たので持って行く用事、句美子の誕生日祝いの焼き菓子を持って行く用事、角川の俳句年鑑の原稿のことを連絡する用事。これらが主な用事なのだが、梅ジュースを持って行くのを忘れた。玄関のチャイムは鳴らさず入ることになっている。なかなか寝ない侑真くんがすぐに起きるから。今日も部屋に入るとぐっすりと気持ちよさそうに眠っている。しばらく見ていると目をこすって欠伸をしてうん?というような顔をして目を覚ました。私の顔を見ている。誰だろうかと思っているふうだが、顔を左右にふったりすると、声を出して笑ってついに完全に目を覚ましてしまった。20分しか寝ていないそうだ。なかなか楽しい子なのだが、遊び飽きると抱っこしてもらいたいらしく、悲しそうな顔をしてぐずる。抱くとすぐにこにこ。現金なというか自由なというか。
6時頃、句美子が暗くなるといけないから帰っていいというので、従う。この時間帯は通勤ラッシュ。新横浜行がきたが満員なので、後の電車に乗ることにした。5分ほどして日吉行が来たが、前の電車より混んでいる。もういいわ、とこれに乗ると徐々に降りる人が増えて座れるまでになった。日吉に着いた時は老女はさすがに疲れた。
●夜は、「リルケの俳句世界」(柴田依子著)の論文を読み直す。可なり読み込んだと思ったが、その時必要のないところを忘れていた。そして「ヴァレの四行詩」18番から数篇書き写す。