1月20日(月)大寒

曇り
寒ゆるみ桜あんぱんなど買いぬ 正子
バスを待つ互いが離れ春隣   正子
雨あとの道路春光にじみたる  正子

●朝、道路に水を撒いたのかと思うように濡れていた。道がどこまでも濡れて見えた。夜中雨が降ったようだが降っている気配も感じなかった、大寒なのに今日は寒のゆるみか、暖かい。

●循環器内科へ。診療所と同じ階の本屋で薬ができるのを待つ。ブックデザインの本、いいと思って定価を見ると4000円。本はあきらめて日吉東口までバスに乗ったので、東急によって安売りのレモン大袋を買った。食品ロスをなくしましょう、と言って、小さいマイヤーレモンが安くなっていた。寒い時にレモンティーは体が温まるので、今はまっている。スライスしたレモンを冷蔵庫に常備。

●You Tuvbeで「井上ゼミ」の哲学シリーズ「ハイディガー」の11篇の動画の内、半分ぐらいを見る。NHKのテキスト『100de名著』を推奨していた。「井上ゼミ」は神戸大学大学院教授の井上一樹先生の動画。(肩書が違っているかもしれないが。)わかりやすい。

1月19日(日)

曇り
大根を抜きし畑に大根買う    正子
白菜をどっかと立てて売りいたり 正子
寒キャベツ緑いきいき大きな葉  正子
●焼き鳥の注文を娘より受けた。理由はお母さんは焼き鳥が上手だとか。それは知らなかった。子どもが小さい時、子ども俳句会の催しで、母親たちと焼き鳥を焼いて子どもたちに提供したことがある。食べた後の串が山とできた。よほど美味しかったと見える。「ネギマ」は確かに美味しい。子どものころ上級生が畑から抜いた葱を焚火に入れればおしいとやって見せてくれた。実際、葱の産地の人はこれがおいしいという。上級生はそんなことどこで知ったのか、今もって不思議。葱がおいしい季節。
●きのう、郵便局へゆうバックを出しに行ったかえり、畑で野菜の直売をしていた。行列ができていて、並ぼうか迷ったが並んで待った。私の順番がきたとき、ほどんど野菜はなかったが、大根2本とさつまいも一個を買った。それだけで重い。大根1本は暮れにたくさん水仙をもらったお返しにするつもり。帰り道なので渡すと、野菜高のおりに嬉しいと喜ばれた。
そのまま帰っていると、民生員の男性に出会った。娘に言わせると民生員さんは私の保護観察員だという。挨拶は「大丈夫です。元気にしてます。」になる。笑っていたが、老人会の体操の世話に出かけるところだとか。思えば、民生委員の彼も、水仙をくれた彼女も立ち話を言えば、二人とも昔登った山の話と、育てている薔薇の話。たまに、彼女は甕に飼っている目高の話。薔薇時には薔薇をどっさり切ってくれる。水仙時には水仙を香りごとくれる。花をくれるよき隣人かな。

1月18日(土)

晴れ

●夜、独り暮らしの、料理を楽しんでくらしている男性の台所を紹介したテレビ放送があった。贅沢な料理にも暮らしにも見えなかった。普通の感じ。独り暮らしの男性の姉が、「大切な人は最後まで残る。誰もいなくなることはない。心配しないでもいい。」と言ったと言う。真をついた言葉だ。男性は寂しいと思ったことはない、とのこと。それで、年賀状のことが思い浮かんだ。私がもらう年賀状は年々少なくなっているが、無くなってはいない。子供家族や兄弟姉妹とか親戚とか、友人とか。年賀状を取りやめるのが流行っているが、その流行とは関係ない。年賀状をくれている人の気持ちは本当のところは、わからない。しかし、年賀状は私に、「あなたの大切な人は、彼らですよ」と教えてくれているとも言える。

●午前中美容室へ。すぐ前が丸善なので新書・文庫のコーナーに立ち寄る。『マルテの手記』(大山定一訳・新潮社)を買った。リルケを読むのに、『マルテの手記』を読まずには前に進めないと思ったから。リルケの後期の詩は『マルテの手記』が母胎になっている。リルケの俳句だけ、俳句部分だけ関わろうと思っていたが、俳句だけ取り出しては考えられなくなっている。俳句を60年近く経験してきたことでわかることが多い。リルケの詩を裏側から見ているような感じがする。リルケの詩の正統な読み方とは違うかもしれないと思わないでもない。正統派的読み方だけでは読み落としがあるのでは、と思うこともある。この年になると、リルケをどう読もうが個人的の問題なのだ。ちょっと気楽なのだ。

ハイディガーは「私の哲学はリルケが詩で表現したものを思索的に展開したにすぎない」(『リルケ』星野慎一・小磯仁共著/清水書院)と言っている。リルケの詩は実存哲学を詩として表現したということになる。
●昨日モーツアルトの「2台ピアノのための協奏曲 K365 」をマルタ・アルゲリッチとマリア・ジョアン・ピレシュ が弾いているYouTubeに出遭った。二人は80代初めだと思うと奇跡の共演に感激した。女性ピアニストのうるわしき友情がある感じだった。

1月17日(金)

晴れ
寒星の下ゆきときは考えず     正子
寒星の光度まばらに空にあり  正子
窓下に夜越しの寒気たまりたる 正子

●午前中、荷物の配達を待ちながら、リルケの原詩IM ALTEN HAUSEを書き写した。これにインスパイアされて俳句を作ったものの、忘れそうになったから。そしてグーグルの音声機能を使ってドイツ語を発音させた。自分の発音がどのくらいグーグルが読み取れるか吹き込んでみた。グーグルのドイツ語の発音を聞こえたように言うとほぼ大丈夫。何回も吹き込んでいると、徐々に発音が変わるのか、バッチリなときとそうでないときと。フランス語のごくごく簡単なのは間違いなく聞き取っている。面白いと言えば面白いが、疲れた。
●午後、日吉の街へいつもの山路を越えて歩いて行った。下から買い物袋を提げて階段を上ってくる人は、みな小さい声ですれ違いざまに挨拶する。息がきれそうだから。風が冷たいが、わざと寒いところに出かけた気がしないでもない。この寒さがなかなか面白い。ちょうど慶大の授業が引ける時間だったので、駅前は学生であふれていた。それを潜って丸善へ。丸善で罫線のない絵葉書を2種類買った。桜と菜の花を顔に見立てた立雛の画と、椿をデザイン化した画。

●そろそろ中学入試が始まる。似たような学校名でどれも同じに見える。難易度別にランクがあるのは、昔も今も変わりないらしい。小さい時から競争させて、かわいそうなこと。孫を見ているとなんとかならんものかと。大学入試より中学入試が勝負だという。あした応援にお菓子を送っておこうかと、思いついた。

1月16日(木)

曇り

●妹から大きい封筒が届いた。用事のものの他に、昨年11月の帰省のとき、妹の出席する講座を一緒に受講し、そこで出会った同級生から預かった写真がたくさん入っていた。去年の春、20人ばかりで食事会をした写真だそうだ。裏に旧姓で名前が書かれていた。初め、その名前に気づかなかったので、本当にちんぷんかんぷんだった。60年ぶりにみんなを見た。わかったのは、講座で出会った彼女と、男子で、彼に違いないという一人が見つかった。それに、私と似ていて、時に間違えられることがあった彼女かな、と思う人。精一杯のところそこまでだった。

裏に書いている旧姓に気づいて見直すと、一番変わっていないのは「眼差し」。つぎに「少し笑った口もと」かな。彼のあの眼差しは、今は刑事ものの人みたいに渋くなったんだとか、彼はいつもこんな感じで、教室の後ろの席からみんなを見ていたとか。紅顔の少年がこんなに彫り深い顔になって眼鏡をかけているとか。おきゃんな彼女は口もとが、今にも笑い出してしゃべりだしそうで、大人ぽかった彼女は着物を着て来たんだとか。目もと、口もと、変わってないわ。全員の名前と顔が一致した。男子は制服のなかに細い体が入っているような感じだったが、今はそんなことはない。温厚な体が十分服を満たしている。写真を見てすぐ、「みんなきれい」と思った。ちょっとうらやましかったが、それぞれいい人生を歩んできたのだと思えた。誰も不幸になっていない感じで、よかった。彼女の住所は書いてなく、電話番号を書いたメモが入っていた。

花冠の1月号の髙橋正子の俳句日記に彼女に出会ったことを書いたので、1月号を送るつもりでいた。住所がわからなく、年明けの講座で妹に連絡先を聞いてきてもらおうと思っていたところだった。お互いの意が通じたか。

1月15日(水)

曇りのち晴れ
あまやかな色に剥かれて冬林檎  正子
水を撒いてしずめて工事の寒埃  正子
昼の匂い寒中豆を炊きいれば   正子

●リルケの「時祷集」の「貧困と死の巻」(1903)からは、何の思いとどまり、考え込むことなく、わからないということなく読めた。貧困について人生ずっと長く考えざるを得なかったからかもしれない。人生を不安に陥れる貧困は人間が純粋であるために必要なのだ。
「なぜなら貧困は内部(うち)からの大きな響きなのだから」これたった1行の詩。
●引き続き「ピエタ」を読む。このピエタは聖母マリアではなくマグラダのマリア。なぜ聖母マリアではなく、マグラタのマリアを登場させたのか、私なりに思うに、マグラダのマリアノ方がより人間的なので、内面の感情を深く、また新しい視点から掘り下げることができるからではという気がした。

●リルケ「新詩集」の「早期のアポロ」は西脇順三郎の詩を思い出させるので、本棚に西脇の詩集を探した。あったと思うが見つからない。ギリシャ神話のようなイメージがあり帆船の白い帆が海を行く光景だったと思う、その詩を探したかった。西脇の詩集の代わりに『立原道造・堀辰雄翻訳集ー林檎みのる頃・窓』(岩波文庫)と『立原道造詩集』(ハルキ文庫)がみつかり、開いて見た。開いたものの落ち着かなくてすぐ閉じた。これらの本がある事が確認できた。

●今日はモーツァルトのピアノソナタ全曲を聞いて、やはりモーツァルトのバイオリンとピアノのソナタ全曲を聞いた。締めはベートーベンの7番をイヴァン・フィッシャーの指揮、コンセルトヘボウで2回聞いた。大きな抱擁のような分厚い感じの音。結構情熱的だった。

1月14日(火)

晴れ
わが下る坂に風出づ寒夕焼     正子
正月のあけて初めて山路越ゆ    正子
暖房の書肆に鬼の画のはがき    正子

●今日一番驚いたのは、産経新聞のネット記事に大きく載っていた環境問題記者某氏。書いてある情報から私の知る某氏に違いない。不意に現れた感じで、目を疑った。新聞の写真では学生時代の感じが目に残っている。一度何だったか忘れたが、信之先生に手紙をくれたことがある。草葉の陰で信之先生はどんな気分か。

●『リルケ詩集』(富士川英郎訳/新潮社)より「新詩集」(1907-1908)を読む。「早期のアポロ」「愛の歌」「献身」「橄欖園」は「リルケ ノート」に書き込みながら、丁寧に読んだ。「形象集」は日本で言えば立原道造の詩のようだが、新詩集の「毬」「日時計」「盲人」「蛇使い」「薔薇色のあじさい」「読書する人」「林檎園」「子供」は、詠み方はちがうが、この状況を俳句に詠もうとすれば詠める題材である。不思議な感覚を味わった。「新詩集」はリルケがセザンヌの回顧展(1907年)を見たあとなので、ロダンとセザンヌの影響を受けて詩を変えたと考えられる。また、セザンヌは浮世絵を見て画風を変えている。なかなか面白い。

1月13日(月)成人の日

晴れ
●1月ネット句会の入賞発表。正午の発表時間が1時半にずれた。
●モーツァルトのピアノソナタを今日はマリア・ジョアン・ピレシュで聞いた。ピアノの音色がスタンウェイの感じ。最近のピアニストの音色はよく似ている。聞きながらリルケを読むとよく読める。速くではなく深く。聞きながら眠ってはっと目が覚めることが多くなっている。

●夕方日吉の街へ、金蔵寺の横の山路から普通部のグランドを回って歩いて行った。街で用事を済ませ、東急に入るとそろいも揃ってコートを着た青年たちが、二三人グループになって歩いている。卒業式にしては早いのにと思いつつ歩いていて、帰りの坂道で軽い交通事故か、警官が男性に「今日は成人式だからな・・」と話しながらメモを取っている場に遭った。今日は成人の日。
東急では、便箋やはがき、のし袋を色々見たかったので丸善と文具店に行った。丸善で俳句が書けそうな越前和紙の葉書を見つけた。3枚セット。菜の花と桜の紙雛の画が目にはいった。節分の緑の鬼が大口をあけたのとか。何種類か買いたいので次に来た時買うことにした。また、本の補修用のテープと、本当に大げさでなく何十年も探していたぺーパーファスナーという紙を本のように綴じるものを見つけた。こんな簡単なものがこれまでなかったなんて。
アメリカの俳人たちはぺーバーファスナーで綴じた句集を送ってくることも、鋲で留めたものを送ってくることもあった。ごく簡単には籤(ひご)のようなものを穴に通して綴じただけの句集さえあった。彼らの句集ははじめは手作り。何部作るのか知らないが、そんなに多くはないだろう。

とりあえずは、昨日作った「リルケ ノート」を綴じた。5組セットで187円。手ごろな値段なのになぜ今までなかったのかと。パソコンで印刷したものを本の状態にして綴じるのに、しっかりしていて取り外し自由なのでいいのだ。コピー用紙150枚が綴じれる。

1月12日(日)

晴れ

●1月月例ネット句会。13名参加。
投句 寒晴に円すばらしき観覧車      正子
   裸木のあびる光は空のもの    正子
   花苗の生きいき寒のあかるさに  正子

●月例ネット句会の作業中、パソコンのマウスのポイントが完全に動かなくなった。2日ほどまえから、ポイントがどこに行ったのか分からなくなることが多かった。ネット句会の作業を中断しノジマに買いにいった。掴んで手になじむものは赤色しかなかったので、それにした。このメタリックな赤が男の子っぽい。

●わが家の人気おやつはわらび餅。冬でも食べたがる。マウスを買いに出たついでにわらび餅を買って帰った。きょうのは三角に切ってある。お供をしてすぐ友宏さんに句美子と食べるように持って帰ってもらった。

●今日はハンバーグの注文を受けたので、1個150gのを4個作って焼き目だけつけて渡した。食べるときにレンジで完全に仕上げ、熱々が食べれる。ふっくら感は少し減るかもしれないが、家で食べるには十分。

●モーツァルトのピアノソナタ全曲を今日も通して聞いた。一番落ち着く。いろんなピアニストのを聞いていると、好き嫌いがでてくる。だんだん同じものを聞くようになっている。

1月11日(土)

晴れ
寒晴に動き大きく観覧車    正子
花苗の生きいき寒のあかるさに 正子
裸木の全身光を浴びて立つ   正子

●センター北に行った。JAには、生きのいい明るい花苗が売られていた。欲しい花ばかりだが、植える場所がないので見るだけ。ダイソーと、ユザワヤと阪急を色々見て帰った。

●年末に送った「花冠」1月号・372号のお礼の絵葉書をいただいた。昨日のことなのだが、その画は清水の舞台を下から眺めあげて、雪がしんしんと降っている。私の好きな福田平八郎の画風と似ている画だ。その静けさと色合いが送ってくださった人の印象にそのままだったので、ドキッとするぐらい驚いた。そんなことだから、夜ひとりで音楽と聞いていると、遠くにいるのにその人に昼間会ったかしら、というような錯覚がしたのだ。多分自分がいいと思う、自分の好きな画を私のために心をこめて選んで送ってくれたのだろう。感謝のほかない。

●リルケの「新詩集」より「橄欖園」(富士川英郎訳/新潮社)を読む。リルケの詩を読むための「Rilke Note for reading Rilke」を作った。リルケを読むために注釈を読まなければ解釈できない自分だけれど、それだけでなく、このような本が欲しいので、紙にパンチで穴を開けて自分で作ったのだ。結構かわいいのができた。「橄欖園」を読むのに、B5の用紙にメモが12枚必要だった。そのうちメモが少なくても読めるようになることを願っている。例えば「夜」「天使」「祈り」「盲目」「夢」などはいろいろな場合の象徴となっている。これらのいろいろな場合をまとめて知っておきたいのだ。ただ、「内省的で深い」の説明ばかりでは、さっぱり解釈できないので、弱っている。自分で自分用に作るしかない。