晴れ
●ずいぶん乾燥して室内で湿度20%、外は14%ぐらいらしい。加湿する必要があるのかどうか。湿度に気を遣う人もいないし。
●自由な投句箱が賑やかになった。この寒い時期が自我に集中するのには一番いい季節かも知れない。個人的には、寒中はすべてうるさくないので好きな季節。行事は春を待つための楽しそうなものだけ。主婦がこまごま働かなくていい。「下働き」という言葉があったが、最近はさっぱり聞かない。小さいころから下働きはよくした。これはみじめったらしい。下働きがなくなったのはいいことだ。
●3時半ごろセンター北のユザワヤやボタンを買いにいった。この時間帯、電車は下校の高校生で満員である。うっかりしていた。中学生は制服だけなのに、高校生はみんなコートを着ていて、この景色は新鮮。
ユザワヤでボタンを見るが、チャイルドボタンという袋入りボタンがたくさんあった。動物や花、車や星などいろいろあるが、はめにくそう。家にあるボタンを探すか、他の店に行くかしないといけない。ユザワヤの会員証を更新。更新すると、30%オフだというので、子どものケープを編む毛糸を3玉買った。ウォッシャブルの100%ウール。早速編むと糸の滑りが良い。ウールとも思えない。繊維も日進月歩している。
晴れ
ピアノソナタ一日聞きつつ毛糸編む 正子
大寒の空の真青に不足なし 正子
独り居に自由に気ままに冬ごもり 正子
●朝、冷え込んでいるので、ハニーレモンに少し葛粉を入れて、葛湯風にして飲んだ。これが温まる。今日の生協の配達でわけあり林檎が届く。蔕のところに1センチほどの切れ目がある。すぐ食べなくてはと思い。割ると蜜がいっぱい。お得感十分。
●郵便物色々出す。まず、句美子に「いには」2月号を転送。次に、中・高の同級生から同窓会の写真をもらったお礼の手紙と花冠を送った。最後に、喪中で新年の挨拶ができなかった人に寒中お見舞いの葉書と花冠1月号を送った。気になっていたことが、一気に片付いた。
●夜、ミントブルーの子供ベストが出来上がる。毛糸だけみると、ミントブルーは少し暗めだが、編みあがるといい色。色違いでもう一枚編むか、どうか。
晴れ
1955年ごろ
夜狐の声に布団のいや重し 正子
1990年二句
道に出で狸しらっと吾を見る 正子
梅林を雉が歩けりわが先を 正子
●ネット短信No.435とNo,436を出す。一日に二度送信することになった。今回は通信状況を確かめるために、返信必須にしている。返信がない人が5名。明日電話でメールが届いているか確認。
●「いには」2月号に角川俳句12月号から句美子の句の鑑賞文が掲載される。今日俳誌を送っていただいた。明日句美子に転送。
●有花さんから電話。新しい会員を紹介してくれるという。新会員の入会はほとんど期待していないが、いなくなることはないのが不思議。
●子供のベストをかぎ針で編む。小さいのですぐ編めそうだが、減らし目とか大人物と同じよう面倒で、虫眼鏡で編み図を見ながら編んだ。それでもポケットも付けて、閉じ合わせたので、明日は縁を編んで出来上がりになりそう。編み物をしている間、クラウディオ・アラウのモーツァルトのピアノソナタ全曲を聞いていた。モーツアルトのピアノソナタ全曲が一番集中できる。全然飽きない。今年になって全曲を10回以上聞いている。
●朝、仏様用にご飯は炊いたが、昨日焼き残したクレープを焼いて朝食。出汁をとった昆布がたまったので、佃煮風に炊いた。なかなかの一品に仕上がったので、夜のお菜に。出汁を取った後の昆布は冷凍庫に入れて溜まったら炊くことにしているが、あまりたまらない。普段は出汁パックを使っているので、昆布だしをたまにしか取っていない証拠。
曇り
水仙の葉の折れがちに倉裏に 正子
千両を活けし玄関開け広げ 正子
麦の芽と思うや矢車草芽生え 正子
●愛媛新聞に花冠1月号から以下の3名の句が載る。
蟋蟀の声のどこから列車待つ/高橋秀之
リツトウの響きの通り冬来る/川名ますみ
出迎えの薄羽きとんぼ市営団地/上島祥子
●花冠の書類の整理。頂いた句集が増え続ける。好きな句を選んで花冠に掲載している。人生の思いの詰まった句集には、句集名もその人らしさが出ていて面白い。
晴れ
かわせみのチチと父呼ぶ冬の山 正子
睡蓮を沈めて青き冬の水 正子
寒中の精進れんこんよく食べて 正子
●夕方、句美子の家へ。夕方はやはり寒中のこと、冷え込んでいる。焼き魚の注文に応えて「横須賀漁港」の鰆の切り身があったので、それを買った。厚みがあって生きがいい。焼いている時から鰆の匂いがする。振り塩は帰省の土産の尾道の天日粉砕塩。塊があるので、ぱらぱらと振る。塩だけでおいしそうだ。厚みがあるのでしっかり焼いた。好みはよ香ばしくよく焼いた魚。
●今一番疑問に思っているのが、俳句や詩や散文では、「多義性、曖昧性」が評価されている。現代社会が複雑だから多義的、曖昧になるのはやむを得ないという。その複雑さを解き明かすのが詩人や文学者の務めではないかと思うのがだ、どうなんだろう。実験的な作品に挑むのはそれはそれでいいとしてもだ。読者にたいする親切心が足りない一方で、読者の解釈が大いに許される。私は、恣意的な解釈にイラっとすることもあるが、その恣意的解釈ができるのが、その作品の大きさだと言う意見もある。本当?と聞き返したくなる。ちょっと手を抜いてないですか。もっと思索を深めて核心へ迫った方がいいのではと思うときの方が多い。
「多義性、曖昧性」は自分を隠しているように思える。たいていの場合は著名であれば、その多義性の意味が増大し、無名であればその多義性は否定される現象があるのが現実であろう。文学の不公平性がジャーリズムによって拡大されいるのではないかと思う。
芸術における「多義性、曖昧性」は一筋縄ではいかない問題らしい、と言うことを洗て目て認識した。「一筋縄ではいかない」とわかれば、私としてはすっきりするわけだ。
晴れ
かわせみを枝に止まらせ冬の水 正子
冬山に翡翠鳴けばあのあたり 正子
寒椿紅濃ゆければ夫を恋う 正子
万作やまだこれからの蕾なり 正子
●昼過ぎ、四季の森公園へ行った。目的は鴨を見るためだが、北口から入ると目の前にある蓮池の水はしずかで一羽の鴨もいない。しずかな水は寒中とは思えないほど明るい光を返していた。コサギが池の端に風に吹かれながら一羽いた。鴨は鶴見川でも見なかったし、ここにもいない。
蓮池のほとりの木道で公園の管理人さんに会ったので、「鴨は来ていますか。」と聞くと、「ええ、たくさん来ていますよ。」と言う。「何時ごろ?」と尋ねると、「私がきたのが朝の6時半だから、そのときはにぎやかでしたよ。」と言う。6時半はきつい。しかし、一番電車で来て、早朝の池の鴨を見たくなった。
そう言えば、このまえ鶴見川に行ったのも午後、今日も午後なのだ。この時間は鴨はどこかへ行っているのかもしれない。鶴見川の鴨は海へ行っていることも考えられる。ここの鴨はどこへ行くのだろう。信之先生と鴨を見に来たとき、お昼は駅の上のレストランで済ませることもあったから、午前中に来ていたのだろう。
カワセミが一羽、長く伸びた枝に止まっていた。池のすぐ傍の山でときどきカワセミの鳴く声が聞こえる。
池のほとりの万作はようやく咲いたのが数花あったが、まだ蕾は固い。セツブンソウのある林縁の丘に目を凝らしたが影も形もなかった。がまずみの実があちこち熟れていて、すっかり枯れた公園では赤色が可愛らしく、目立っていた。
池を巡って葦原に行くと、葦原は景観のために数か所刈り残されているが、湿原が山からゆるやかな段差をつけながら下って広がっているのがわかる。葦のなかに鳥がいて影が動いていたが、一瞬姿を見せたのでアオジのように見えた。睡蓮池には水が青くたまっていて、睡蓮は水の中で睡眠中と思われ、池が二段になっているのがわかる。
畑には菜の花とヤグルマギクがびっしり芽生えていた。春が楽しみだ。そして、たいして風もないのに山の木が触れ合ってギーギーと鳴る。ぶらぶら歩いて公園を出た。3キロほど歩いているだろう。
晴れ
寒ぬくし桜若木のすくすくと 正子
午後の墓地供花にも石にも日脚伸ぶ 正子
寒ぬくし祈れば祈りきりもなし 正子
●墓参。午前中に行くつもりだったが、お昼を回った。今日はあたたかくて、いい天気なので出かけるのにはいい。お墓には珍しく誰もいなかった。線香をあげたり、お花を立て替えたりするのも慣れてきた。日脚が伸びて、墓域全体が明るく、きれいに見えた。枯れた供花は取りのぞかれて、パンジーやアリッサムなどを花壇のように植えた墓もいくつかある。お墓に貼られた芝生はまだ枯れたまま。桜の冬芽が太っていた。
帰り、駅前に小田急OXがあるのに気づいたので、入ってみた。お花も売られていた。生きがいいし、値段も手ごろ。次からは買って来なくてもここで買えばいいと思った。ようやくお墓のある鶴川の街の様子がわかってきた。
●お墓から帰ると5時を過ぎていた。夕飯は思いつかないので、冷凍の浅利飯にした。冷蔵庫から茹でキャベツやトマトと卵を取り出し、みそ汁を作って終わり。食後には、はれ姫。今日はなにもしない日にした。「自由な投句箱」の選とコメントは朝早く済ませたので、しなければいけない仕事はない。
●花冠1月号(No.372)に載せた「リルケと俳句と私」の私の文について感想をいただいた。文面から評価いただいたことはわかるが、それをどう受け止めてよいか悩んでいた。今夜、何もしないでいると分かることがあった。その評価の言葉は「絶大なやさしさ」から生まれたものなのではないか、と気づいた。これまで、私が感覚的に「やさしさ」を把握できるのは、人間の等身大のやさしさでしかなかったのだ。そうではなく、「神の」というものではなく、人にも「絶大なやさしさ」があるのだと気づいた。「絶大な」の代わりに「計り知れない」と言い換えてもいいかもしれない。
晴れ
子どもらの呼び合う大声日脚伸ぶ 正子
鴉らの水浴ぶ川に春隣 正子
?梅に川涸れがちに流れたり 正子
●本の整理。最後まで残す本をどれにするか。長く関心を持ってきたことを書いた本は、新しく買った本でも身に馴染んだ感じがするので手放さない。例えば、半年前に買った『ヒューマニズム』(渡辺一夫著)など。著者がどうであるかより、私が著者をどう思っているかをよく考え吟味した。結局は、洋服なら着古して身に馴染んだような服、本も同じ具合になった。
●日が長くなった。夕方の買い物から帰ってから、暖かくてまだ明るいので鯛ヶ崎まで散歩に行った。夕方歩くと脚がむくみにくいらしい。出かけてみると、5時はとうに過ぎているのに広場で子供たちが大勢遊んでいる。「さよなら」を言う子供もいるが、まだまだ遊んでいる子供が多い。日の入りも明日は5時を過ぎるそうだ。
●明日は信之先生の月命日なのでお墓へ。お花は、今日はスーパーで買ったので、菊ばかりの花束。白、黄色、ピンク。今日も暖かかったが、明日も大寒なのに暖かい天気らしい。きのう仏壇を引っ越して居間に置いたばかりなので、勝手になれない。明日は命日香を忘れないように焚かないと。今月は松になっている。
晴れ
●野球のイチローさんがアメリカ野球殿堂入りを果たした。そのインタビューで「自分の能力を生かす能力はまた別にある」と話していた。私も、最近このようなことを思っていたので、納得できる言葉だった。私が思うようになったのは最近で、いくぶんものごとを客観的に見れるようになったからだとも思う。俳壇がどうあろうが、自分の俳句には本当に関係ないと思えるようになったのだ。ずいぶん、客観的になったと思う。
●通販で買ったデスクを組み立てる。初めて見るネジなどが入っていた。説明の絵と字が小さい。虫眼鏡で拡大しながら見るが、それでも見づらい。ユーロボルトとそのネジが初めての物。ボンドが入っていたが、そのボンドが手に少しついて、ついたところに点のように血が滲んでひりっと痛い。手袋をはめていたが、やりにくいので外すしたために、ボンドが少しついた。ボンドになにがはいっているのだろう。慎重に組み立てて1時間ほどで出来上がった。デスクの天板の後ろの15センチくらいがカーブしている。多分電源コードのためであろう。これに仏壇を載せる。載せたところ、デスクの上の仏壇は、思っても見なかったが、信之先生に似合っている。
●保管や保存していた書類や本など、捨てれるものは捨てる。中身をよく読んでいると捨てれなくなる。ちらっと読んで、捨てるかどうかを判断。大げさな言い方だが、これまで一生懸命生きて来たものへの訣別というべきものもある。今の瞬間は、一生懸命だったこととは、ほとんど関係ない。今は今でしかない。幸い昨日今日と3月上旬並みの気温。片付けが進む気がする。
曇りのち晴れ
大寒の雲を抜け来しかもめ二羽 正子
かもめ飛ぶ羽に寒さの翳りあり 正子
大寒の風の浮力に白き雲 正子
レモン百果熟れし黄色のまだ若し 正子
●家から鶴見川まで歩いた。鴨を見るためだったが川には何もいなく、太陽のすぐ下の川面が金の星をばらまいたように煌めいていた。美しいと言っていいほどの煌めきをしばらく見ていた。寒中の日差しが強く、日傘をリュックから取り出して差した。川下を見るとオオバンが数羽いた。くるみの木は葉をすっかり落とし、枝を精一杯広げていた。くるみの木のある広場で20メートルくらいのリードをつけられた白と黒のぶち犬が走っていた。
矢上川のほうへ回ったが、ここにも鴨はいなくて、オオバンが少しいるだけだった。それよりも驚いたのは、川の水が異常に少ないと思えた。雨が降っていないせいだろうが、烏が川を歩いている。矢上川に沿って、いつもは街のほうへ道を折れるが、今日は折れないでどんどん歩いた。新幹線の橋梁を潜ると川沿いに花壇がある。住民が世話をしているのだろう。?梅と白水仙が咲いていた。ちょうど理工学部の裏あたりだろう。高いところに校舎らしい建物が見える。嘴太烏がたくさんいて、川へ降りて水浴びをしたり、水を飲んでいる。カルガモが数羽いたし、オオバンも二羽いた。鯉もいる。そのまま歩くと電車が通るのが正面に見える。綱島街道に出た。ここは川崎市の木月。いつも来る仏壇店のすぐ横に出た。その隣がシュークリームが評判のケーキ屋。残念なことに今日は休みだった。右手坂伝いの終わりに日吉駅が見えるが、見えてから入口まで長い。携帯の歩数計を見ると12000歩。4キロ半ほど歩いている。家を出て日吉の端をぐるっと一巡したようだ。日吉駅から電車で帰った。
●ラジオをさっぱり聞かなくなったので、眠るまで本を読む。買ったばかりの『マルテ』を読んでいる。リルケはなんでいつでも一生懸命なのだろうと思いながら読んでいると、読んでいる自分も一生懸命に読もうとしていることに気づく。おかしな人等だ。