10月11日(金)

晴れ
快晴の空へ鵯飛び出し     正子
貴船菊紫あれば白もあり    正子
新聞に挟みし紅葉のこと忘れ  正子

●気持ちよく晴れた。図書館へ本を返却。新しく借りた『「日本の伝統」の正体(藤井青銅著/新潮文庫)を読んだ。面白いような退屈なような、本だった。古い伝統のあるものが、実は新しいものだったり、伝統の正体は本当のところどうなんだ、と言う話が46項目について考察されている。
「東洋」についてが目新しかった。「桜」も時代による種類の違いを考えなければいけないと気づかされた。西の芭蕉の鬼貫の詠んだ桜はどの種類の桜か、早速、調べる。
●2024年ノーベル平和賞が「日本被団協」に与えられた。この賞に対して、はじめNHKは戸惑いを見せていたし、複雑な心境なのだろうと言う印象をもった。ノーベル文学賞も韓国の女性作家に与えられたが、世界情勢を反映している。核兵器がいますぐにも使われそうな戦争の雰囲気だし、北朝鮮の問題もある。ノーベル賞の姿勢がよく見えたように思えた。

10月10日(木)

曇り、ときどき晴れ
 にんじんケーキが焼けたので
友訪ぬ葛と穂草の道を踏み       正子
  バッハを聞いて
身に入むに「人の望みのよろこびよ」  正子
夜寒さの床(ゆか)にリルケの本三冊   正子
●寒露がすぎて、すっかり晩秋らしくなった。人参ケーキを焼いた。新しいオーブンでケーキを焼くのは初めてなので、焦げ過ぎないようにするのに苦労したが、何とか、しっかり焼けた。人参ケーキはこれまで何本焼いたか数知れないのに、オーブンの機嫌をとるのは難しい。冷めたところで半分を晴美さんに持って行った。

●ここ寒暖差がひどくて、11月ではないか、と思うこともある。そろそろ花冠の編集に入らなければいけないかと思ったり。いや、もう少しあとでもいいのではと、思ったり。季節を読みとる感覚がどうにかなっている。
●「俳壇」11月号が届く。俳人の大井恒行さんが「俳壇時評」で「現代俳句協会は、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会から離脱せよ」の文を書いていた。推進協議会ができた時の会長は有馬朗人先生だった。私などが言うのもどうかと承知しているが、「なんと馬鹿なことを」を思っていたので、大井恒行さんのような意見があることを嬉しく思った。俳句はゲーテが言うような「世界文学」になっている。一応、われわれは俳句を文学と考えている。こんなことを考えると、細部の意見はそれぞれ異なると思うが、世界遺産への登録は止めておくのがいい。
『世紀末ウィーン文化評論集』(ヘルマン・バール著/西村雅樹編訳/岩波文庫)の「日本展」のところを何気なく読んでいた。これはヘルマン・バールと言う評論家が「日本展」について書いたものを西村雅樹先生が訳されたもの。パリやウィーンでの万国博覧会に出展された日本の絵画や工芸品、果ては民具などを通して、19世紀末ヨーロッパで日本流のものが芸術家たちに大変関心を持たれ、根本的なところで影響を与えたたことを述べている。前にも読んでいたので、知識としてそうなのだと知っていた。しかし、どのくらい?どんな感じで?というのが実感としてわからなかった。それが久しぶりに本を開いてリアルにわかった気がした。

「日本展」にバールが書いてあることが実感でき、これはこの事を言っている、あれは、あのことだろうと繋がってきた。日本流のものの流行りはジャポニスムと呼ばれる。
なぜ実感できるようになったのかは、ここ涼しくなってからの、私の事を振り返ってみるとわかる。第一に。ネット上に公開された大学の論文のお陰と言えるのだ。ジャポニスムについて疑問に思ったことは、ネット上でそれに関して大学や国会図書館、情報研究所が公開している論文が読めたことが大きい。だれかが、考えてくれている。論文は7本読んだだけだが、ジャポニスムについてはゲルマにストの先生方の功績が大きいと思えた。同時に「リルケと俳句」についての論文もネットから印刷して読むうちに繋がるものもあった。多層的に理解できたと言える。
またヴァーチャル・ツアーのお陰もある。「モネのジヴェルニーの家」などが論文の実際を見せてくれた。「セザンヌとリルケ」の論文で、セザンヌの画が見たいと思えば、ネットを探せば、解説付きで見れた。クリムトの画も、北斎漫画も、富岳三十六景も見れた。
また、図書館の本は二、三十年前の本がほとんど。この古さが深いところで関連性を気づかせてくれるので役立った。「日本展」がよく読めるようになったのが、この秋のみのり。

10月9日(水)

雨のち曇り
りんご噛みりんごに混じる味のなく  正子
どんぐりの供物にまじり供えあり   正子
秋冷の野に食ぶたまごサンドウィッチ 正子

●今日も雨で最高気温17℃。すっかり晩秋の気配。生協の配達でおでん材料が届く。ミニ大根を間違えて二本注文していたが、多分使い切れるだろう。

『近代絵画の巨匠たち』(高階秀爾/岩波現代文庫)を読み終える。ボナールは晩年とくに身辺の物や景色や人物を描いているので、親密派とも呼ばれている。ナビ派にも参加していたが、本気ではなかったようだ。浮世絵版画の影響を受け、日本美術に大変関心を寄せていた。モネ、セザンヌ、ゴッホのほかにボナールまでとは驚きだった。(もちろん彼らの前にクリムトも浮世絵や日本美術の影響は受けているが。)庭に自ら好む植物を植え、植木屋には手を入れさせなかったという。葬儀の日の朝、ミモザやあんずの木にめずらしくうっすら雪が積んでボナールを悼むかのようだったという。最後に描いた「花咲くあんずの木」(1947年)のあんずはボナールのもっとも愛した木と言われて、見ていると懐かしいような画である。あんずは人によってはアーモンドとも呼んでいるけれど。彼が住んだ家は霧に透けた屋根がばら色に見えるので「小さなバラ色の家」と呼ばれ、幸福な画家とされている。亡くなるときは、「逆光の裸婦」などに描かれた妻(愛称マルト)も亡くなっており、孤独に暮らしたということだ。あんずの木は昔生家にもあって、この花のやさしさは子どもの心を癒したと思う。
「ボナールとマルト」のフランス映画が今年9月24日日本で公開されたということだが、見たかったな。最近ボナールの人気が高まっているようだ。

10月8日(火)寒露

あかあかと照れる林檎が目を奪う  正子
燈明のほのかに灯り寒露なり   正子
朝顔の支柱ほどきて雨つづく   正子

●今日は寒露らしく、気温が朝から上がらず、20度から次第に下がっていった。雨はしっとり降り続いて、長く歩けばずぶぬれになりそうだ。用事で日吉に出たついでに丸善に寄る。『リルケ詩集』(リルケ作・富士川英郎訳/新潮文庫)を買った。『リルケ詩集』(リルケ作・高安國世訳/岩波文庫)とどちらにするか「形象集」の「秋」のところを比べ、富士川訳のほうが意味がすっと落ち込んでくるので、こちらにした。面白いことに「木の葉が落ちる(富士川)」と「木の葉が散る(高安)」、「地球(富士川)」と「土地(高安)」の違いがあった。星野訳は、古本でいつか買うことにしている。
Essay
(十三)リルケと俳句について
●立ち読みだが、「新詩集」の「老女」を読んだとき、思わずわが身を振り返った。やさしく、懐かしく、箪笥のナフタリンの匂いと共に思い出される少女時代。この心持は自分を顧みながら俳句を作るときの心境みたいだと。
リルケについて読むうちに、だんだん引きずられていくようになっている。沼にはまってはいけないのに。『ふぃれんちぇだより(フィレンチェ日記)』(リルケ著)を訳し、リルケ作品を愛読したと言われる哲学者の森有正の言葉がネット上にあった。
 「リルケの名は私の中の隠れた部分にレゾナンス(共鳴)を惹き起こし、自分が本当に望んでいるものが何であるか、また自分がどんなに遠くそれから離れているかを同時に、感得させてくれる」 この言葉はほんとうによく言い当てている。祈りにも似た言葉だ。
そして、ネットサーフィンをしていて、リルケを立ち読み中に魅かれた「新詩集」について
「リルケの<事物詩>成立ーー詩と事物のアナロジー」(小高康正著/関西大学学術リポジトリ/国立情報研究所)があったので、印刷した。「新詩集」についての論文。

10月7日(月)

晴れ
降って来て木の実ぱらぱら吾を打つ  正子
木の実降るみずから落ちて傷つく実  正子
どんぐりの土に弾けてかがやけり   正子
日にそよぎてらてら赤き曼殊沙華   正子

●お昼ごろ、里山ガーデンへ。あと一週間で閉園するので出かけた。9月14日、開園の日に訪ねていたが、今日は花がうらさびた感じで、一か月でこんなに変化するのだと思った。写真は撮る気にならなかった。むしろ句を詠むほうがよかった。森の道は虫がよく鳴き、大風が吹くと木の実がバラバラ降ってきて、肩や背中を打つので痛い。田んぼに出ると、彼岸花が萎れているところ、まだ咲いているところと、花の終わりが近かった。田んぼの遊歩道沿いに大きな木があり、風が吹くと青い木の実がいくらでもアスファルトを叩いて落ちて来る。日差しが強く暑いので、大きな木の下の椅子で休んだ。休んでいる間も、盛んに青い木の実が音を立てて降ってくる。お昼がわりに、この前と同じにアンパンを食べ、氷水を飲んだ。帰る予定の3時には時間があるので、里山ガーデンの外の光が丘団地へ出て、春に来たことのある道を神奈川大学のグランドを見ながら下り、森の台小学校を過ぎ、坂を下り、紅梅が綺麗だった畑をすぎ、緑区役所に出て中山駅まで歩いた。今日歩いたのは3キロ半。
帰りの電車で『近代美術の巨匠たち』のルドンのところを読んだ。4時には家に帰れた。
Essay
(十二)リルケと俳句について
リルケは『新フランス評論』(1920年)の「ハイカイ特集号」で初めてクーシューのフランス語訳を通してハイカイを知り、その後クーシューの著書『アジアの賢人と詩人』を手に入れ、重要なところに数種のアンダーラインを使い分けて引き、読み込んでいる。それによれば、リルケは、クーシューのフランス語訳の次の鬼貫の俳句に特に関心を示している。(注1)
  咲くからかに見るからに花の散るからに 上島鬼貫
この句の「からに」は古語で、「~するとすぐに」の意味である。
クーシューのフランス語訳は
Elles  s'  épanousissent,  alors                 彼女たち(花))は咲く、そして
On les regarde, – alors les fleurs      人は彼女たち(花)を見る―そして花々は
Se fletrissent,- alors..           しおれる―そして..  (正子日本語訳)
          ※ fleur(花)は女性名詞なので、elle(彼女)で受けている。ここでは複数形。
このフランス語訳で気になることがある。この句の「花」をクーシューは「桜」と認識していたのだろうか。「散る」を「しおれる」と訳しているので、「桜」の感じがしない。哲学者(そして医者)でもあるクーシューは何を意図していたのか。この句についてクーシューは次のように注釈をしている。
「さらに一層哲学的なもう一つのハイカイがあります。これは一瞬の閃きのうちに、万象の途切れることのない流れと、仏教の無常が三行の内に集められています。未完成が、表現の驚く以上のものとなっています。感覚的な世界のイメージそのものです。」(注2)
この注釈の「一瞬の閃きのうちに」からは、これは「桜」の花のイメージ以外何物でもないと私は感じる。また、この注釈に「リルケと俳句世界」の論文の著者の柴田依子氏は、「この仏訳句は、開き散ってゆく花の在り方と人とのかかわりのイメージを、alors の語を反復しつつよく伝えている詩的な形態となっている。」と述べている。「alors」は英語なら「then」に当たる。
リルケはこれを「その短さにおいて言いがたいほどの熟した純粋な形の翻訳」(「リルケと俳句世界」)と言い、鬼貫の句を、「ただこれだけです! 甘美です!(rien des plus! C'est delicieux!) 」(「リルケと俳句世界」)」(注3)と受け取っている。rien des plus!」は、辞書どおりに受け止めれば、最高のものを誉めたり、受け入れるときの言葉で「最高にすばらしい!」である。”rien des plus! C'est delicieux!”は英語に直すと“Nothing better! It’s delicious!” となる。
ただ、「ただこれだけです! 甘美です!(rien des plus! C'est delicieux!) 」をあくまでも私の受け止めだが、リルケの気持ちば「ただこれだけです!」は、たったこれだけのことで、これほどのことを言っていると取れる。「甘美です!」は柴田氏の訳ではリルケの他の詩で delicious」は「甘美な」になっているので、このままの解釈で置く。
ほかにも、リルケがハイカイに出会ったときの驚きと喜びは、技師であった夫とともに日本に滞在経験のあるネルケ夫人への手紙で知れるところである。「あなたは短い日本の(三行)の詩形をご存じですか」と。(注4)この時点でリルケはハイカイを作るに至っていないが、のちに3つのハイカイを作っている。亡くなる1年前に書いた墓碑銘の薔薇の三行詩もヘルマン・マイヤーによるとハイカイだと言われている。最晩年のフランス語の24篇の短い詩が俳句の影響を受けていると言われている。これらについては別のところで述べたい。
ここで考えられるのは、クーシューのフランス語訳では、花が桜とは感じにくい。なぜなら「花」が一般的な花(fleurs/複数)である。そして「散る」が「しおれる(se fletrissent)」だからである。一般にフランス語で「花が散る」は、「Les fleurs tombent」 で、クーシューはほかの句の訳で「(花が)散る」に「tomber」を使っている。あきらかに意図があると思える。それが、クーシューが鬼貫の句に付けた先の注釈に見られる意図であり、柴田氏の指摘する詩的解釈である。
鬼貫の「花の散るからに」の「からに」は、来年に咲く花(桜)への期待や、輪廻転生の思いが読みとれる。「桜」にある、軽さ、透明感は日本的心情または美意識であろうが、フランス人にとって、普遍的な「花」を「桜」とすれば、かえってわかりにくくなるのかも知れにない。注釈は、全く桜のイメージなのだが。これが謎である。ここが俳句翻訳の難しさであろう。
さて、鬼貫(1661年ー1738年)と「桜」について少し考察したい。鬼貫は「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた元禄時代、江戸中期の関西の俳人である。彼の句集『独ごと』では、「まことの外(ほか)に俳諧なし」と述べている。芭蕉とは芭蕉の弟子を通して知りあっていた。リルケは鬼貫を芭蕉一派、弟子と思ったメモがあるが、(注5)弟子ではない。
鬼貫の見た桜はどのような桜であったろうか。
奈良時代、「花」が「梅」を指すことは知られている。「花」が「桜」を指すようになったのは、「古今和歌集」あたりとされる。在原業平や西行では、はっきり桜である。そして平安時代から明治までは「桜」は特に西日本に多い山桜である。日本人が花見をするようになったのは、八代将軍吉宗が桜好きで、河川の整備や美観維持のために桜を植え、庶民の間で花見が一般化したから、とされる。このころは、エドヒガン、オオシマザクラなど種々の桜が植えられ、咲く時期も花色も違う桜が、群桜として1か月ぐらいかけて花見をしたようである。幕末から明治初めにかけ、ソメイヨシノがエドヒガンとオオシマザクラの交配種として生まれたが、この花は白っぽい花が密に一斉に咲く特徴がある。桜の美意識として、「潔さ」があるのは、ソメイヨシノの散り方の特徴からである。さらには、第2次世界大戦時の特攻機の滑空機名に「桜花」とつけられたり、「同期の桜」の軍歌などにより、散りぎわの潔さが強調されるようになったことにあると言う。それを現在もどこかで、伝統的な「桜の美」として意識しているのではないか。(注6)
「咲くからに見るからに花の散るからに」の「花」は、当時、われわれが現在見るソメイヨシノはまだなく、「山桜が咲くからに」であろう。その散りようも「山桜の散りよう」であろう。クーシューのフランス語訳と鬼貫の句を比べるとき、この事実を知っておくのが良いと思う。
リルケがハイカイに出会ったのが45歳のときであるから、クーシューの注釈を、リルケは詩人のとしての経験と洞察で、俳句を理解したのではないかと思う。リルケと俳句の出合は、その感動の言葉「rien des plus! C'est delicieux! 」をして、私には、「驚き」と「喜び」の声として聞こえる。
参考までに述べるが、アメリカでは詩人のエズラ・パウンドを中心としたイマジストたちが日本の俳諧に影響をうけ、俳句を作っている。彼らがもっとも関心を寄せた句は
  落花枝にかへるとみれば胡蝶かな 荒木田守武
である。彼らはこの句の英訳句に、イメージの重層性による詩的効果を見て、彼らも英語で俳句を作っている。たしかに彼らは詩人なので、彼らの英語俳句の言葉は簡潔で洗練されており、緊張感がある。最近の英語俳句とはその語彙とイメージにおいて、一線を画しているように思う。
(注1)~(注5)は「リルケと俳句世界」柴田依子著/比較文学vol.35 1992年)より
(注6)の段落の「桜」については、『「日本の伝統」の正体』(藤井青銅著/新潮文庫)を参考にした。

10月6日(日)

曇り
アジフライさっくり揚がる秋の暮   正子
りんごサラダ遊べる皮の紅の色    正子
花ふよう数十おなじ花の向き     正子
●朝起きて窓からベランダを覗くと朝顔が十ほど咲いている。まだ咲くかもしれないが、明日は支柱を外して、片付けよう。

●里芋を買いにJAの直売所に行ったが、里芋どころか野菜が少ない。小松菜や茄子は飽きたし。栗と枝豆とラ・フランスが目についたが、里芋はまだ早いのかも。でも芋名月の十五夜は過ぎてるし、どうかなっているのか。

夕方、友宏さんが来るので、おふくろの味料理をもって帰ってもらう。アジフライ、ほうれん草の胡麻和え、林檎のサラダ、高野豆腐とインゲンの炊いたの、ごぼう,人参、じゃがいも、こんにゃく、厚揚げ、竹輪の煮もの、はりはり大根。「買った料理は食べれん、これが楽しみで。お世辞ではないです。」だそうだ。梅ジュースをもらっていくと言うので、入れ物がないので、スープジャーに入れて渡す。これからはお湯で割って飲むのがおしいという。私は、ヨーグルトにかけている。

今日一番おしいのは、林檎サラダ。胡瓜、ハム、サンつがるをマヨネーズで和え、少しだけ黒コショウ。胡瓜は塩でこすり、すぐ洗い流し、3ミリくらいの輪切り、林檎は皮つき5ミリ幅くらい。

10月5日(土)

小雨  
  鶴見川 
ぎす鳴けり潮の匂いの上りきて    正子
秋の蚊の飯噴くころに増えにけり   正子
秋冷に紅茶を淹れに椅子を立つ    正子

●ヴァーチャル・ツアーで「ジヴェルニーのモネの家」を見た。庭と部屋の内部が見れるが、モネの油彩を飾っているのは大きい一部屋、浮世絵を飾ってあるのが、玄関ホールのほか二部屋。浮世絵の収集の多さに驚く。ンプルな額縁に入れて飾ってある。ジャポニスムは一過性のブームではなく、大きな影響を与えていると知らされた。
Essay
(十一)リルケと俳句について
●リルケは1920年9月、『新フランス評論』(1920年9月1日)「ハイカイ特集号」のフランス語の翻訳を介して初めて俳句を知っている。このとき、鬼貫の
「咲くからに見るからに花の散るからに」
に感動し、日本滞在の経験のあるネルケ夫人に「あなたは短い日本の(三行)の詩形をご存じですか」と手紙を出している。

同年10月には『アジアの賢人と詩人』(P.L.クーシュー著1916年初版)1919年をパリで購入(三刷本)して、アンダーラインを引き、丹念に読んだことが、遺された蔵書の研究からわかっている。
クーシューはこの著書の第二章「日本の抒情的短詩」において、6ページほどを俳諧総論として置き、俳句の定義、特質、起源、作者などについて、日本の版画などと比較しながら簡単に紹介し、さらに具体的に俳句を約70ページほどを訳出し、注釈をつけている。クーシューの説明にリルケがアンダーラインを引いているところがある。四つ挙げるが、それがリルケが受け止めたハイカイである。

①俳句の一般的な特徴は大胆なほどの単純化である。ハイカイは一枚の日本風クロッキーに比較できる。
?ハイカイは我々の目に直接訴えてくる一つのヴィジョンであり、我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる生き生きとした一つの印象である。
③Un petale tombe                 ひとひらの落ちた花びら
    Remonte a sa branche   再び枝にのぼる
    Ah’c'est un papillon!   ああ それは蝶
ARAKIDA MORITAKE
(原句 落花枝にかへるとみれば胡蝶かな 荒木田守武)
この最後に示した例は典型的なものである。ひとつの短い驚き!これが俳句の定義そのものである。
④これら(3つの描線)は、他のいかなる振動にも限定されず、ほとんど際限なくおのずと広がってゆく振動に似ている。
リルケはハイカイを知ったのち、ハイカイの影響を受けて短いフランス語の詩を書いている。影響はどのように詩になっていったかを知りたいところである。
(リルケのフランス語の詩をここに引用する代わりに、我々俳人は、庭に咲いている薔薇の花を思い浮かべ、その薔薇について俳句を作るつもりで以下を読んで欲しい。)

「薔薇」(詩篇I)には、
薔薇の爽やかさに「短い驚き」を、薔薇の花は中心に眠りを持ちながら全体目覚めているというイメージに、「我々の心に眠っている何かの印象を目覚めさせてくれる」を当てはめ、そして一詩そのなかに、リルケの中心的なテーマである「生と死の統一体」が「眠り」と「目覚め」の対比的な語の組み合わせで、簡潔に自在に実現されている。

リルケの詩人としての偉大さは、薔薇を観察する洞察の深さと、自分の中心的テーマ「生と死の統一体」を簡潔に自在に詠み終えていることである。
(つづく)

10月4日(金)

晴れ、一時日照雨
老人の鯊釣る空が晴れており     正子
鯊釣りにカワウ羽ばたくことがあり  正子
鯊釣りの川に潮の上り来ぬ      正子 
●午後、鶴見川へ歩いていった。昨日は川上へ歩いたが、今日は、着いたところから川下へ1km歩いた。人道橋を渡り、鶴見川の左岸伝いに河口から6kmのところまで歩いて引き返した。人道橋の上は秋風が川下から吹いて、30度を超える気温には涼しい風だった。川はさざ波を光らせながら流れている。
人道橋から川沿いを下り始めると、すすきは丈が低く、穂が小さくて若い。黄色い花はキバナコスモスに見えたが、ハンゴンソウかもしれない。尾瀬に行ったときに、片品あたりにハンゴンソウが咲き乱れ、胡麻が植えられていた景色を思い出した。尾瀬のハンゴンソウの花はさびしかった。ずっと下るとハゼを釣っている老人が三人、また一人と居る。そこへ町内会長らしき人が来て、紙を見せながら話しかけている。多分カワウだろうが一羽泳いでいる。水の上に伸びあがって何度も羽ばたく。川の中央に50m間隔ぐらいに赤いブイが浮いている。舟のためかもしれないが、この辺りは舟はいない。もう少し下れば舟に合うだろうが。ハゼを釣っているあたりは潮の匂いがするので、釣りをする人に聞くと、潮は上がってきている、と答えてくれた。
次の橋は架け替え工事中で大工事のようだった。川沿いに新しい三階建て住宅が二十軒ほど並んでいるが、窓の位置も形も同じ。色が同じだったり、違ったりで、オランダの運河沿いの景色のように見えた。彼岸花を裏手の土手に植えている家があって、赤、白、オレンジ色の花が咲いていた。特にオレンジの花がいい。リコリスというのだろうが。通りがかりの老婦人たちがのぞき込んで、来年はもっと増えてきれいになるだろう、など話していた。
昨日より、脚がなれて歩きやすくなっている。いつものバス停から日吉駅東口まで乗った。今日は11000歩を超えた。
●夜、ヴァーチャル・ツアーでオランダの国立美術館(Rijksmuseumライクスミュージアム)を見た。VRゴーグルで見るのかどうかわからないが、単に見ただけ。操作に慣れないので、レンブラントの「夜警」、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」、「ゴッホの自画像」があるようだけど、見ることができなかった。それでも画の色彩や収集品などから雰囲気が伝わった。

10月3日(木)

曇り、午後小雨
秋風に吹かれさざ波川のぼる    正子
堤防の秋草延々と刈られ      正子
秋草の堤防を刈られ匂い立つ    正子

●午後、鶴見川へ川を見に歩いて行った。7000歩ほどある。土手に着くころ、小雨が降り出したが、土手は除草作業中だった。コンバインの小型のような赤い芝刈り機2台が100mばかりを行き来している。稲を刈った後のような匂いが立ち込めている。川の水は、さざ波が川上へ吹かれて上っている。空からカラスのような鳥が舞い降り、水に潜った。カラスではない。黒い鳥。カワウかもしれない。一羽で浮いていたが、ときに水のなかから羽ばたく。そのうち、水を出て、空を旋回し遠くへ飛んでいった。鳥は何もいないのだ。魚が水から飛び上がるのがいる。どきどき白く川波が立つが、魚が水面近くを泳いでいるのだろう。川の茂みに芙蓉が咲いていた。土手下の家には栗の木があり、毬が半分ほど茶色に熟れていた。帰りは日吉駅東口まで路線バスで。歩いている途中に、丸善から頼んだ本がきたからと、スマホに電話があった。ちょうどよく日吉駅でバスを降りたので、丸善に寄り買って帰った。本は『ドゥイノの悲歌』(リルケ作・手塚富雄訳/岩波文庫)。

10月2日(水)

快晴
透明に濃密に秋の化粧水     正子
遠き声確かに鳴ける法師蝉    正子
燭の火に供うふたつの青蜜柑   正子
●夕方5丁目の丘へ行った。蚊がいるので行かないようにしていたのだが、崖っぷちの公園に着くと、蚊の猛攻撃にあった。ムヒを持ち歩いていているので、あちこち塗る。公園からは富士山のシルエットが見える。富士山の右の山々の稜線に夕日が沈むところだった。半分沈みかけた夕日は二分もしないうちにすっかり稜線の向こうに沈んでしまった。沈んだあと、日の丸のような赤い夕日の残像が夕焼けの雲に映った。夕日が落ちたとたんに、富士山の右肩がひととき赤く染まった。それもすぐ消えた。帰りは、遠くにつくつく法師の声を聞きながら坂をくだった。まだ蝉がいる。