晴れ
降って来て木の実ぱらぱら吾を打つ 正子
木の実降るみずから落ちて傷つく実 正子
どんぐりの土に弾けてかがやけり 正子
日にそよぎてらてら赤き曼殊沙華 正子
●お昼ごろ、里山ガーデンへ。あと一週間で閉園するので出かけた。9月14日、開園の日に訪ねていたが、今日は花がうらさびた感じで、一か月でこんなに変化するのだと思った。写真は撮る気にならなかった。むしろ句を詠むほうがよかった。森の道は虫がよく鳴き、大風が吹くと木の実がバラバラ降ってきて、肩や背中を打つので痛い。田んぼに出ると、彼岸花が萎れているところ、まだ咲いているところと、花の終わりが近かった。田んぼの遊歩道沿いに大きな木があり、風が吹くと青い木の実がいくらでもアスファルトを叩いて落ちて来る。日差しが強く暑いので、大きな木の下の椅子で休んだ。休んでいる間も、盛んに青い木の実が音を立てて降ってくる。お昼がわりに、この前と同じにアンパンを食べ、氷水を飲んだ。帰る予定の3時には時間があるので、里山ガーデンの外の光が丘団地へ出て、春に来たことのある道を神奈川大学のグランドを見ながら下り、森の台小学校を過ぎ、坂を下り、紅梅が綺麗だった畑をすぎ、緑区役所に出て中山駅まで歩いた。今日歩いたのは3キロ半。
帰りの電車で『近代美術の巨匠たち』のルドンのところを読んだ。4時には家に帰れた。
Essay
(十二)リルケと俳句について
リルケは『新フランス評論』(1920年)の「ハイカイ特集号」で初めてクーシューのフランス語訳を通してハイカイを知り、その後クーシューの著書『アジアの賢人と詩人』を手に入れ、重要なところに数種のアンダーラインを使い分けて引き、読み込んでいる。それによれば、リルケは、クーシューのフランス語訳の次の鬼貫の俳句に特に関心を示している。(注1)
咲くからかに見るからに花の散るからに 上島鬼貫
この句の「からに」は古語で、「~するとすぐに」の意味である。
クーシューのフランス語訳は
Elles s' épanousissent, alors 彼女たち(花))は咲く、そして
On les regarde, – alors les fleurs 人は彼女たち(花)を見る―そして花々は
Se fletrissent,- alors.. しおれる―そして.. (正子日本語訳)
※ fleur(花)は女性名詞なので、elle(彼女)で受けている。ここでは複数形。
このフランス語訳で気になることがある。この句の「花」をクーシューは「桜」と認識していたのだろうか。「散る」を「しおれる」と訳しているので、「桜」の感じがしない。哲学者(そして医者)でもあるクーシューは何を意図していたのか。この句についてクーシューは次のように注釈をしている。
「さらに一層哲学的なもう一つのハイカイがあります。これは一瞬の閃きのうちに、万象の途切れることのない流れと、仏教の無常が三行の内に集められています。未完成が、表現の驚く以上のものとなっています。感覚的な世界のイメージそのものです。」(注2)
この注釈の「一瞬の閃きのうちに」からは、これは「桜」の花のイメージ以外何物でもないと私は感じる。また、この注釈に「リルケと俳句世界」の論文の著者の柴田依子氏は、「この仏訳句は、開き散ってゆく花の在り方と人とのかかわりのイメージを、alors の語を反復しつつよく伝えている詩的な形態となっている。」と述べている。「alors」は英語なら「then」に当たる。
リルケはこれを「その短さにおいて言いがたいほどの熟した純粋な形の翻訳」(「リルケと俳句世界」)と言い、鬼貫の句を、「ただこれだけです! 甘美です!(rien des plus! C'est delicieux!) 」(「リルケと俳句世界」)」(注3)と受け取っている。「rien des plus!」は、辞書どおりに受け止めれば、最高のものを誉めたり、受け入れるときの言葉で「最高にすばらしい!」である。”rien des plus! C'est delicieux!”は英語に直すと“Nothing better! It’s delicious!” となる。
ただ、「ただこれだけです! 甘美です!(rien des plus! C'est delicieux!) 」をあくまでも私の受け止めだが、リルケの気持ちば、「ただこれだけです!」は、たったこれだけのことで、これほどのことを言っていると取れる。「甘美です!」は柴田氏の訳ではリルケの他の詩で delicious」は「甘美な」になっているので、このままの解釈で置く。
ほかにも、リルケがハイカイに出会ったときの驚きと喜びは、技師であった夫とともに日本に滞在経験のあるネルケ夫人への手紙で知れるところである。「あなたは短い日本の(三行)の詩形をご存じですか」と。(注4)この時点でリルケはハイカイを作るに至っていないが、のちに3つのハイカイを作っている。亡くなる1年前に書いた墓碑銘の薔薇の三行詩もヘルマン・マイヤーによるとハイカイだと言われている。最晩年のフランス語の24篇の短い詩が俳句の影響を受けていると言われている。これらについては別のところで述べたい。
ここで考えられるのは、クーシューのフランス語訳では、花が桜とは感じにくい。なぜなら「花」が一般的な花(fleurs/複数)である。そして「散る」が「しおれる(se fletrissent)」だからである。一般にフランス語で「花が散る」は、「Les fleurs tombent」 で、クーシューはほかの句の訳で「(花が)散る」に「tomber」を使っている。あきらかに意図があると思える。それが、クーシューが鬼貫の句に付けた先の注釈に見られる意図であり、柴田氏の指摘する詩的解釈である。
鬼貫の「花の散るからに」の「からに」は、来年に咲く花(桜)への期待や、輪廻転生の思いが読みとれる。「桜」にある、軽さ、透明感は日本的心情または美意識であろうが、フランス人にとって、普遍的な「花」を「桜」とすれば、かえってわかりにくくなるのかも知れにない。注釈は、全く桜のイメージなのだが。これが謎である。ここが俳句翻訳の難しさであろう。
さて、鬼貫(1661年ー1738年)と「桜」について少し考察したい。鬼貫は「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた元禄時代、江戸中期の関西の俳人である。彼の句集『独ごと』では、「まことの外(ほか)に俳諧なし」と述べている。芭蕉とは芭蕉の弟子を通して知りあっていた。リルケは鬼貫を芭蕉一派、弟子と思ったメモがあるが、(注5)弟子ではない。
鬼貫の見た桜はどのような桜であったろうか。
奈良時代、「花」が「梅」を指すことは知られている。「花」が「桜」を指すようになったのは、「古今和歌集」あたりとされる。在原業平や西行では、はっきり桜である。そして平安時代から明治までは「桜」は特に西日本に多い山桜である。日本人が花見をするようになったのは、八代将軍吉宗が桜好きで、河川の整備や美観維持のために桜を植え、庶民の間で花見が一般化したから、とされる。このころは、エドヒガン、オオシマザクラなど種々の桜が植えられ、咲く時期も花色も違う桜が、群桜として1か月ぐらいかけて花見をしたようである。幕末から明治初めにかけ、ソメイヨシノがエドヒガンとオオシマザクラの交配種として生まれたが、この花は白っぽい花が密に一斉に咲く特徴がある。桜の美意識として、「潔さ」があるのは、ソメイヨシノの散り方の特徴からである。さらには、第2次世界大戦時の特攻機の滑空機名に「桜花」とつけられたり、「同期の桜」の軍歌などにより、散りぎわの潔さが強調されるようになったことにあると言う。それを現在もどこかで、伝統的な「桜の美」として意識しているのではないか。(注6)
「咲くからに見るからに花の散るからに」の「花」は、当時、われわれが現在見るソメイヨシノはまだなく、「山桜が咲くからに」であろう。その散りようも「山桜の散りよう」であろう。クーシューのフランス語訳と鬼貫の句を比べるとき、この事実を知っておくのが良いと思う。
リルケがハイカイに出会ったのが45歳のときであるから、クーシューの注釈を、リルケは詩人のとしての経験と洞察で、俳句を理解したのではないかと思う。リルケと俳句の出合は、その感動の言葉「rien des plus! C'est delicieux! 」をして、私には、「驚き」と「喜び」の声として聞こえる。
参考までに述べるが、アメリカでは詩人のエズラ・パウンドを中心としたイマジストたちが日本の俳諧に影響をうけ、俳句を作っている。彼らがもっとも関心を寄せた句は
落花枝にかへるとみれば胡蝶かな 荒木田守武
である。彼らはこの句の英訳句に、イメージの重層性による詩的効果を見て、彼らも英語で俳句を作っている。たしかに彼らは詩人なので、彼らの英語俳句の言葉は簡潔で洗練されており、緊張感がある。最近の英語俳句とはその語彙とイメージにおいて、一線を画しているように思う。
(注1)~(注5)は(「リルケと俳句世界」柴田依子著/比較文学vol.35 1992年)より
(注6)の段落の「桜」については、『「日本の伝統」の正体』(藤井青銅著/新潮文庫)を参考にした。