広島福山
★亥の子の子らまた坂道を上の家へ 正子
稲の収穫祭として、特に西日本で盛んに行われている亥の子の行事。坂道を上りながら、一軒一軒巡り、藁で縛った石で地面を搗く子どもたち。初冬の風物詩として受け継がれる、子どもたちのあたたかな情景に、懐かしい故郷の地への、作者のしみじみとした望郷の念もふと感じられます。(藤田洋子)
○今日の俳句
丘登る落葉いろいろ踏み鳴らし/藤田洋子
落葉を踏んで丘を登る晴れ晴れとした楽しさがよく表現されている。「落葉いろいろ」に、落葉の様々な色、また音はもちろん、落葉を落としたいろんな木が想像できて楽しい。
◇生活する花たち「茶の花」(横浜下田町・松の川緑道)

★水鳥を見ていて一つが潜りけり 正子
情景がありありと浮かんできます。水鳥は群れを作って池沼や海辺に浮かんでいます。波に漂いながら、そのうちの一羽はひょっと潜った、その瞬間をとらえられました。そこはかとないユーモアも感じる御句です。(多田有花)
○今日の俳句
山茶花の長き季節の始まりぬ/多田有花
抒情が削ぎ落とされ、大変シンプルで一筋通った句である。山茶花は早いものは、十月ごろから咲く。本格的に咲き始めるのは、立冬を過ぎてからであろうが、冬の間中の「長き季節」を咲き続ける。今その咲き始めのとき、花あって身辺楽しい季節が過ごせるであろう。
◇生活する花たち「石蕗の花・山茶花・葛もみじ」(横浜日吉本町)

★夕寒き街のはずれに花屋の燈 正子
寒々としてきた中で見る暮れ時の燈、街のはずれの花店となれば尚更のこと、あたたかく心和みます。ありありと目に浮かぶ情景の中、しみじみと心に灯る明るさです。(藤田洋子)
○今日の俳句
ペダル踏む籠に落葉とフランスパン/藤田洋子
専業主婦としての日常生活を詠んで、読み手も楽しませてくれる。季語「落葉」が効いて、生活の実感を伝えてくれる。(高橋正子)
<イギリスの旅余録>
①ディー川へ森を下る
ディー川はチェスターを流れる。トレヴァーにあるポント・カサルテ水道橋はそのディー川に架かる運河で高さが37メートル。この高さの橋の全景を写真に撮るために、橋の袂から森の小道伝いにディー川へ下った。この小道の楽しかったこと。イングランドの森である。ベリーと呼べそうな実がたくさん生っている。ブラックベリー、ラズベリーとか。姫りんごほどの林檎そっくりの黄緑の実が生っている樹があって、落ちた実からは、林檎の匂いがしていた。この樹は、高速道路わきの茂みのようなところでも見た。ピンクの月見草に似た花もある。秋の小さな野の花が咲いていた。残念ながら、野菊以外は日本で見たことのない花ばかり。写真には撮ったものの、その姿と楽しさを表現しようとしても、流れる色彩のようで、ただ思い出として心にしまうしかない。花や実の名前を知らないとはこういうことである。イギリスの植物図鑑を買って帰るべきだったと悔やまれる。
イングランドは、紅葉がはじまったところであるが、高速道路をバスで走ると、透き通るように熟れた赤い木の実がたくさん見られた。本当に木の実が多い。そして、ラズベリーや、ブラックベリーのジャムは、とてもおいしい。土産に買って帰った、フォートナムアンドメイソンのラズベリージャムは、それはそれはおいしいこと。無くなったら、日本橋の三越に買いにいこうと思うほどだ。一瓶1900円ぐらいのようだが。イギリス料理のまずさを誰もがいうが、ジャムが特別においしいのは、森に木の実がたくさん生るためでもあるのかと思った。今回の旅行で森を歩けるとは思わなかったので、森がほとりにあるディー川も愛すべき川となった。春のディー川、霧の立ち込めるディー川を見てみたい。
ポント・カサルテ水道橋は、世界遺産になったばかりで、案内板にウェールズ語が書いてあるらしかった。興味のあるものは、スペイン語じゃないみたいだ、デンマーク語だ、こんな英語は習わなかったなど、てんでに勝手なことを言ってなんとか読もうとしていた。ウェールズ語はケルト語から来ているらしい。日本で初めてケルト展が東京であった時に見たが、確かケルトには、文字がなかったのではと思ったけれど。そのあたりは、よくわからない。
◇生活する花たち「りんごの花・山茶花・柚子」(横浜・四季の森公園)
★落葉ふる空の青さのどこまでも 正子
落葉ふる森の中をゆっくりと散歩しておられるのでしょうか。目を上げると枝越しに見える空の色はあくまでも青く深い。初冬の広く透き通った青空を称える素晴らしい御句かと存じます。(河野啓一)
○今日の俳句
作品を提げ行く冬の車椅子/河野啓一
「作品」がいい。一つの作品となった画か、書。それを自分で車椅子の膝に載せて、搬入しようとしている。作品は自分自身ともいえる。作品はそうでありたい。
○八つ手の花
八つ手は、手をぱっと開いたような形をして、新しい葉はつやつやとして、梅雨どきには、蝸牛を乗せたり、雨だれを受けたりする。夏が過ぎ秋が来て冬至のころになると、球状に花火が弾けたような白い花を咲かせる。八つ手の花を見ると、冬が来たと思うのだ。瀬戸内の温暖な気候のなかで長く暮らした私は確かに冬が来たと感じてしまうのだ。
高村光太郎の詩に「冬が来た」がある。厳しくきりもみするような冬だ。そんな冬は、八つ手の花が消えたとき来る。冬をどう感じとるかが、その人の力そのものであるような気がする。
「冬が来た」
高村光太郎
きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹の木も箒(ほうき)になった
きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
○生活する花たち「花八つ手・山茶花・さくら落葉」(横浜日吉本町)

★うす桃の菊の日差しも写し撮る 正子
淡いピンクの菊の花、その繊細な花弁は、秋の日差しを細やかに映します。陽だまりと影、朝日と夕映えの差を、菊の「うす桃」に見つけ、一枚の景に写し撮る。おそらく俳人ならではの撮影でしょう。(川名ますみ)
○今日の俳句
一棟をきらきらと越す落葉風/川名ますみ
落葉を連れて風がマンションの一棟を越えていった。きらきら光るのは、落葉も、風も。明るく、高みのある句だ。
◇生活する花たち「石蕗の花・水仙・南天」(横浜日吉本町)

★眩しかり渚に並ぶゆりかもめ 正子
○今日の俳句
まっすぐに道路明るき夜学の灯/高橋秀之
まっすな道路に沿いゆくと、夜間学校の灯があかあかと道を照らしている。その灯に寄り添うように、また励ますように歩く作者の姿が見え、あたたかい句である。
◇生活する花たち「菊・花八つ手と山茶花・千両」(横浜日吉本町)

★鴨泛かぶ池の青さのまっ平ら 正子
漸くやって来た寒さと共に、日毎に鴨の数が増えて来ました。初冬の大きな池の青空をも映す穏やかな水面の光景が想われ、素敵な一句です。
(桑本栄太郎)
○今日の俳句
木の実降るそのひと時に出会いけり/桑本栄太郎
木の実が降るのに出会うことは、だれにでもあるだろう。それを「そのひと時に出会いけり」と、「その時」を切り取ったのが鋭い。降る木の実との一期一会の思いが強い。
○「タリン再訪」を読んで。
日経2011年11月13日(第45181号)の文化欄にある「タリン再訪」(中村和恵記)を読む。末文あたりに至って興味深い文となった。タリンはバルト三国のもっとも北の国エストニアの首都で人口が40万人ほどだが、そのことは知らなかった。記事を末文まで読んで魅力的な文ながら、いまひとつよくわからない。ネットで「タリン」を検索して、タリンとエストニア共和国について調べた。そうしてもう一度読み直すと、記事が光ってきた。著者は詩人で比較文学者。主に英語文化圏の研究者である。ロシア文学研究者の父の仕事で家族がモスクワに住み、日本人学校の学校旅行でタリンを訪問したことがあったとある。中学三年生ぐらいのときかであろうと思う。
タリン旧市街は世界文化遺産に登録され、写真で見ると絵本のような街である。感嘆をあげ写真を撮る観光客も少なくないそうだ。この中世の街タリンをもつエストニアは、いまやデジタル電話ソフト「スカイプ」発祥の地として、IT先進国となっている。この点に関心が向くのである。辛酸をなめた国を、何がそうさせたか。記事を引用する。
「暗い石の壁の内側で押しつぶされそうになりながら耐えていたバルト海の真珠は、再び輝いている。おめでとうエストニア、心から独立二〇年のお祝いを申し上げたい。あなたたちのように長年多言語、多民族で共存しながら自分を保つすべを見出してきた国民であれば、抑圧された民の夢としての愛国心を、周辺民族や少数派の悪夢に変えずに保つことも可能かもしれない。」エストニア人は、自分たちをタフで厳しく、自
立心のつよい、「最後のヴァイキング」とみなしているということである。「頑固」こそがほめ言葉であると。
1991年、ソ連崩壊を目前に独立を再確立し、今年でちょうど20年とのことだ。五年に一度の合唱祭も国民意識確認の場として特別な意義があるとのこと。独立前の四年間は140万人全国民の四分の一の大群衆が集まり、愛国の歌を歌う独立運動が自然に起こったということ。歌う市民が戦車を追いやり、世界でも稀な「歌う革命」があったこと。140万人ほどの国民のうちのエストニア人は100万人。街の本屋はエ
ストニア語書籍で占められていること。いうなれば、100万人でこれができる力があるということ。いまエストニアは発展中である。学ぶべきことが多くありそうだ。
◇生活する花たち「菊・山茶花・とくさ」(横浜日吉本町)

★たて笛の音色幼し冬初め 正子
幼稚園生か小学校の低学年生が、たて笛を一生懸命練習している姿とまだ晩秋の感じが残るが、寒さに向かう引き締まった感じとの対比が素晴らしいですね。絶対にたて笛を吹けるようになろうとする姿が素晴らしいですね。(小口泰與)
○今日の俳句
木枯しや対岸の灯の明らかに/小口泰與
木枯しが吹くと、空気中の塵が吹き払われて空気が澄んでくる。対岸の灯が「明らかに」なる。この灯の美しさに、人は魂のふるさとを思いみるだろう。
○FB日曜句会投句
たて笛の音色幼し冬初め 正子
柚子の木に柚子はいびつな柚子ばかり 〃
レモンの香飛ばせば灯ちらつけり 〃
○後記
(平成24年花冠1月号)
★あけましておめでとうございます。平成二
十四年の幕開けです。日本の産業も金融も農
業も、世界と連動して動き、われわれ庶民の
生活も多かれ少なかれ影響を受けざるを得な
い時代になりました。
★文化に関しては、昨年十一月十二日の日本
経済新聞文化欄に、「欧米古典詩新訳に新味
」と見出しがありました。「現代の言語感覚
」「原文のリズム感」を生かした訳詩が相次
いで出版されるというのです。欧米の名作小
説の多数が新しく訳しなおされているのに、
詩に関しては新訳が後れていると指摘してい
ます。なぜ遅れるかは、自明のとおり詩が言
葉そのものを鑑賞するものであること。先人
の名訳は名訳として大切に残しておくべきで
しょうが、やはり、現代の言語感覚で、原詩
のリズムを生かしたものを読みたいのは、詩
の創作に携わっている人には強い要求でしょ
う。詩における「リズム」は、詩のもっとも
重要な生命と思います。訳文は、二十年も経
つと古く感じるそうですから、グローバル化
に伴い、世界中の情報が手に入る世になった
昨今、たとえば、「フード」は、「頭巾」と
訳さなくてもむしろ「フード」の方が今の言
語感覚にあっていると言えます。そして、訳
は訳者の「自分」を出さない、原文にない言
語は削る、抒情を排する、リズムを生かすた
めに体言止めにするなど、工夫がされていま
す。旧訳に比べれば、イメージが鮮明な印象
です。ここまで述べて、お気づきのかたもお
られるかと思いますが、詩の訳の方向は全く
私が考える俳句の方向と同じなのです。四十
年ほど前に日本語俳句を熱心に英訳していた
ときに、同じような問題にぶつかりました。
ただこれは、信之先生と私だけが俳句英訳に
利用していただけで、公に言う人はいません
でした。大学教授や詩人たちが今この方向で
訳を進めているのをなるほどと思っているわ
けです。また、詩の訳には、もっとさまざま
な人の参加が必要だと言っています。それが
文化をゆたかにするからです。訳詩や訳文に
よって、日本文化は随分豊かになりました。
ここで思うのです。
★芭蕉の言葉に「俳諧は俗語をただす」とい
うのがあります。世間で使われている言葉を
正しく、詩の言葉として生命をもたせること
を意味していると思います。「自分の言葉に
自分の命を正しく与える」作業を今年は特に
意識しておきたいと、年頭に当たって思いま
した。
★ネット上では、フェイスブック日曜句会が
順調です。どなたにもの楽しみになるように、
信之先生ともども努めたいと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。(正子)
◇生活する花たち「千両・茶の花・白椿」(横浜下田町・松の川緑道)

松山持田
★入学せし門は閉じられ冬紅葉 正子
○今日の俳句
花土を購いおれば冬ぬくし/黒谷光子
花を植えようと、花土を買っていると、冬なのに暖かいことよ。ふかふかの土に花もよく育つことであろうと、思いが走る。「冬ぬくし」の温かみがよく伝わってくる。
◇生活する花たち「りんごの花・山茶花・柚子」(横浜・四季の森公園)
★夜は軒陰に白菜星をほしいまま 正子
白菜が軒陰に並べて干されています。夜になればそこに月光、星あかりが差します。まるでその光を楽しみながら白菜たちが眠っているように思えます。(多田有花)
○今日の俳句
一樹立つおのが落葉に囲まれて/多田有花
樹は動かないから、自分の落した落葉に囲まれることになる。その落葉のあたたかさの中にすっく立つのも本来の樹の姿に違いない。
◇生活する花たち「山茶花」(横浜・四季の森公園)