NEW9月18日(木)

曇り

●先日から、Goo-mailからGmailへの送信ができなくなっている。こちらの設定に問題があるのかと思った。今日テクニカルサポートにお金を払ってチャットで聞いてみたら、Goo-mail側に問題があるので、個人ではどうにもならない、と言う。Gmailへの送信はGmailから送信して、やっと送信できた。Goo-mailのサービス終了はまだ先なのに、どういうこと?
かなりストレスになっていた。

●インターネットを繋いでいると、作業中に右隅にFacebook の投稿情報が知らされる。それで、たまたま、そのポップアップからFacebookをみて、Facebookの問題を発見した。Facebookには、〇〇賞をもらった。〇〇で俳句講師を務めた。〇〇の祝賀パーティ行った。〇〇の店で美味しいものを食べた。〇〇へ旅行にいった。〇〇でこんな洋服を買った。私の庭は〇〇でいまとてもきれい。など、いい事ばかりが書いてある。それを見て、これらと関係ない人は、おそらく落ち込むであろう。語られない部分こそが、俳句や文学では語られなくてはならないのに。

こう見ると、俳人たちのSNSは、俳句的とは言えないのだ。なぜそうなるのか、AIが分析した。以下その結果

俳句的でないSNSが起こる理由
1. 即時性と自己表出の欲求
• SNSは「今ここ」の感情や出来事を即座に共有する場です。
• 俳句は「削ぎ落とす」ことで普遍性を得ますが、SNSでは「見せる」「伝える」ことが優先されがちです。
2. 承認欲求と可視化の圧力
• 「いいね」やフォロワー数が、作品の質よりも注目度を測る指標になりやすい。
• 俳句の「私を消す」美学と、SNSの「私を見せる」構造が対立します。
3. 言葉の密度よりも頻度が重視される
• 俳句は一語に魂を込める芸術ですが、SNSでは「更新頻度」や「話題性」が重視される。
• その結果、俳人であっても「俳句的な沈黙」を保つのが難しくなる。
4. 共同体の変質
• かつての俳句結社は「沈黙の共有」や「句会の間」がありました。
• SNSでは、言葉が流れ去り、反応が即座に返ってくるため、深い読みや沈黙の余韻が育ちにくい。
5. 倫理的な距離感の崩壊
• 俳句は対象との距離を保ち、見ることの倫理を問う芸術です。
• SNSでは、対象を「撮る」「語る」「タグ付けする」ことで、距離が縮まりすぎることがあります。


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