曇りのち晴れ
受難曲ずっとつづけり処暑の午後 正子
処暑の陽が百日草の葉に影を 正子
朝顔の連なり咲けり蔓が伸び 正子
●マタイ受難曲(リヒター指揮)を「オペラ対訳プロジェクトの日本語訳」で聞いた。字幕を見ながら聞くと、ドイツ語がここまでにというほどはっきりしている。3時間20分ほどの全曲を聞いたが、たいくつなとこもあったが、イエスの死体を埋めるあたりから終わりにかけては聞きやすかった。想像以上によかったので、最後のほうだけ、今度はコンセルトヘボウでヨッフムのを聞いた。ふっと思い出したが、いつも夏のおわりごろ、「マタイ受難曲」全曲を聞こうとしていた。途中で止めたりもしたが。なぜだろう。今年は、いいと思えた。
●片山敏彦訳でリルケの『果樹園付ヴァレの四行詩』を読んでいて、これにインスピリエーションをうけて俳句を四句作っている。我ながら上出来だと思う。もし、これを花冠にのせるのに、訳文が必要だとしたら、著作権を考えないといけない。リルケ自身の著作は死後100年になるので、大丈夫だ。自由に使っていいのだ。遅れてからリルケを読む感じでいたが、著作権の事を考えれば、今がちょうどいいのだと思った。
それからすると、リルケのドイツ語の原文を使うのが一番安心なのだ。ここで計画を変えなければいけない。そもそもフランス語の原詩が手に入らないから、訳詩ですまそうとしたのがいけなかった。訳詩に惚れ過ぎていたことでもある。これでまた信之先生が遺したルケ作品集にもどってやり直すことにした。それが別に俳句に関係なくてもいい。俳句にこだわるのはよくない。そもそもリルケの本質がなにかしらをひらめかしてくれればいいのだ。それには、少し読みかけている初期の詩がいいだろう。片山敏彦の翻訳詩と自分の作った俳句の兼ね合いに、難しさを感じてていたが、そこだったのかと思った。フランス語の詩は訳文で読むだけにしておくのが安全だ。古書の初版本で手に入ったものだから喜び過ぎた結果だ。
●リルケの詩は手元に日本語訳の詩がなかったので、最初原文で読んだ。そのあと文庫の訳文で読んだ。そういう出会いだったせいかもしれないが、最初から訳文を通してリルケに触れることに難しさを感じている。ドイツ語のリルケは極端に難しいとは感じないのに、日本語のリルケの方がが難しいと感じる。遠ざけられた感覚だ。原文のほうが近い。ドイツをよく知らなくて難しいはずなのに近い。リルケはそんなに格好をつけていないあたたかいし、おもしろい人だ。
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