★わが視線揚羽の青に流さるる 正子
○今日の俳句
沢蟹や水音絶えぬ作業場に/安藤智久
沢蟹は、梅雨のころからしきりに出歩く。水音の絶えずしている作業場にも赤い爪を振って沢蟹が現れ、作業場の景色が涼しく、作業にも弾みがつきそうだ。(高橋正子)
○黄昏
7月28日、バスとトイレをいつもより念入りに掃除し、床を拭き、そしてバスにお湯をため、夕飯は天婦羅を揚げることにして、黄昏どき、日吉本町5丁目あたりへ写真を撮りに出かけた。幸いに、猛暑のあとに台風6号が訪れ、去ったあとには、避暑地ほどの涼しさが舞い降りた。今日も曇りで時折気づかないほどの雨粒が落ちるが降りもしない。4時25分、正確には黄昏前、西に傾いた太陽の在り処が薄雲を透けて確かめられる。
黄昏に何をする当てがあろうか。何もしないでよいのであろう。あの人は誰かしらと顔もよくわからないが、という時間。人生の黄昏ともいう。写真を撮るのが目的で片や名目で、やるべき仕事はあっても、それは家に置いてきて、5丁目あたりを風に吹かれながらパカパカのシャツを着て歩く。団地の坂を上ると、ランタナの白い花がふんだんに垂れている。左手のグレーがかったタイルの家には、北側の部屋にオレンジ色の灯が点っている。その家の横を覗いてわかった。高いがけの上に建っている。この家は、本町駅前を走る道路から見ると、ちょうど農家の花梨の木の上のほうにある。私が一人勝手に、ユトリロの家と名づけている家だ。
ユトリロの絵に似て雨の花梨の実 正子
この家がなければ、ユトリロなど思いも着かなかったろう。この家の北側の道を通るときは、いつも部屋にオレンジ色の灯りが付いている。撮りたい花もあるが、やたらにシャッターを押すものどうかと、いつも撮らずに通り過ぎる。その家の角を曲がれば、春には満作が咲いていた家がある。白い壁が歳月が経って灰色がかって、小粋な窓がある。今日は、ななかまどの青い実が成っていた。ユトリロの家とこの家はもう秋の気配が漂っている。
黄昏はただ一人歩くだけ。団地には人ひとりいない。ミンミン蝉にまじり、つくつく法師が鳴いている。竹藪のはずれの桜かなにかの木にいるのだろう。葛が生い茂る様を写真に撮る。もしや、気づかぬところに葛の花が写っているかもと期待して。丘にある5丁目は、まだ荒地もある。月見草の原っぱがあるが、どれも凋んでいる。中学校には、マリーゴールドが元気よく咲いている。青桐に実が成っているいるので、写真に撮るとストロボがたかれた。もう、確かに黄昏がやってきた。ライオンズマンションの下に公園がある。その上に保育所があって、泣きながら母親に手を引かれて帰る女の子がいる。おかあさんは、機嫌をとらないのかしら。ただ、だまって、怒りもしないし、なにも言わないで、手を引くだけ。太ったお父さんが自転車でやってきて、保育所の門を開けて中に入っていった。お母さんが幼い子をおんぶしてあわただしく出てきた。
もう、引き返そう。坂をくだる途中の塗装屋さんの塀から白い桔梗が覗いている。金柑の白い花が咲いている。狭い歩道を若い小柄な娘さんが携帯を見ながらすたすた歩いて、追い抜きそうになる。だから道を譲ってあげる。坂を下ると日吉本町駅前の通りに出る。知り合いが向こうでにこっとするので手を降る。民家に睡蓮鉢がある。そうだ、金蔵寺にもう、蓮が咲いているかもしれない。行こうかと思ったが、あそこは、午後5時きっかり、山門を閉めてしまう。もう5時はとっくに過ぎて、6時20分。ならば、まっすぐに家に帰ろう。
たそがれ。古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(かれ)は」の意味。ネットで黄昏を調べていて、面白い箇所にあたった。
<松浦寿輝著 「物質と記憶」より
(吉田健一は)
黄昏とは荒廃した衰滅の時刻ではなく、昼間の光のすべてを同時に湛えたもっとも豊かな時刻であることを強調する。黄昏の光線に「魅力があるのはこれが一日のうちで最も潤いがあるものだからである」と彼は言う。>
この吉田健一は、吉田茂の長男。外交官時代の吉田茂について英国にも暮らしている。「物質と記憶」は、フランスの哲学者ベルクソンの主著の一つだが、吉田健一の黄昏について引用した松浦寿輝著「物質と記憶」は、(読んでいないのだわからないが)日本文学論のようだ。
「黄昏」のイマージュは、ベルクソンで言えば、どうなんだろう。物質と記憶の間の表象。
コメント
お礼
今日の俳句に沢蟹の句を取り上げていただきありがとうございます。
沢蟹は雨が降ると行動範囲を広げるようです。井戸水を引いた作業場でわさびの根をむしったり洗ったりするのですが、ここは川から近く、水路を伝って沢蟹が入ってきたりします。人影が動くとなにかの陰に隠れ、しばらく作業をしているとこちらの様子を窺いながら、そろりそろりとまた歩き出します。