俳句
晴れ
○新年句会に投句のための句を拾いに鯛ヶ崎公園へ。
○夕方長男が来て、御節で新年を祝う。午後5時到着の予定が午後7時。関越道の渋滞のため、所沢から日吉まで4時間かかったとのこと。
数の子は、やはり、限定品の北海道産のものが当たりでした。
黒豆は今年はとくにふっくら煮えました。
田作りは、もとの魚がよかったようです。
海老は、ミソが一品でした。
○元旦のラジオ深夜便。高村薫氏への新春インタビューの終わりあたりから聞く。
経済も、社会も、政治も行き詰まった感じがあります。では、今年の希望は?の質問に「言葉の深みでしょうか。」の意味のことを話された。やはり、そうでしょう。同感です。
○新春インタビューに引き続き、石川啄木の『一握の砂』が朗読され、合間に唱歌が流れる。唱歌は「灯台守」など、美しいもの。そして「青葉の笛」も。なぜ、『一握の砂』を今日正月に、と思いつつ聞く。派遣の切捨てなど社会問題のある世のせいか、とも思いつつ。最後にきて、『一握の砂』出版100年に当たりますとの紹介。
唱歌は、深夜便を聴く人の年齢に合わせたものだろう。唱歌を聞きながら、今、美しいもの、善なるものは、否定されていると思う。日本人の感じ方の特徴であった「もののあはれ」。それにしても、やはり驚くのは、笛の名手と和歌の名手二人の平家の公達を歌った「青葉の笛」が流れるとは。平家の話をすれば、夜中、私の祖先は清和源氏と聞かされていることを思い出だし、日本人は、文学好きの民族ではないかと言う考えも浮かぶ。平家物語があればこそ、「青葉の笛」がしみじみと聞かれる。首をはねた武将もあわれ公達の弔いのために、寺を建て祀る。戦が物語として、言葉になる。それこそ、高村薫氏のいう、言葉の深み、重みであろう。世の中の行き詰まりのとき、言葉は深む。
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