1月11日(火)鏡開き

●パソコンを置いている机の上に、パソコンの脇に「俳壇」(9月号2021年)がある。花冠の「結社の声」が4ページにわたって掲載されている号。この記事をコピーして、元花冠会員からの年賀の返信に入れたが、仕舞わずにいる。
何気なく繰ると口絵の「ものがたりのある俳句 青木克人」
「朝顔や濁り初めたる市の空 杉田久女」が青い朝顔の写真と掲載されている。追って68ページにこの句の解説がある。ほんの一言、リアルに掘り下げて欲しいと思った個所がある。「濁り初めたる」空は、なぜ濁り初めたかということ。煮炊きの煙か。現実には八幡製鉄所の煙突は見えないが、煙突の吐く煙ではないだろうかと思う。清水哲男氏の鑑賞は詩人らしくこの句の美しさを読み取っている。
●清水哲男氏とあらきみほ氏の鑑賞がある。以下に引用。
①清水哲男
久女の代表作。昭和2年11月ホトトギス入選
小倉    既に二女の母だった三十八歳(1927)の作である。「市(いち)」は、彼女が暮らしていた小倉の街だ。このころの久女は、女学校に図画と国語を教えにいったり、手芸やフランス刺繍の講習会の講師を勤めるなど、       充実した日々を送っていた。そうした生活が反映されて、まことに格調高く凛とした一句となった。今朝も庭に咲いた可憐な朝顔の花。空を見上げると小倉の街は、はやくも家々の竃(かまど)からの煙で、うっすらと濁りはじめている。朝顔の静けさと市の活気との対照が、極めてスケール大きく対比されており、活者としての喜びが素直に伝わってくる。
朝顔は夏に咲く花だけれど、伝統的には秋の花とされてきた。ついでに言えば「ひるがお科」の花である。久女は虚子門であり当然季題には厳しく、秋が立ってから詠んだはずで、濁り初めたる市の空」にはすずやかな風の気配もあっただろう。まだスモッグなど発生しなかった時代の都会の空は、濁り初めても、かくのごとくに美しかった。
          
●あらきみほ
(あらきみほのはいくノートより)
 句意を考えてみよう。庭に丹精している朝顔を眺めている久女。朝顔の咲く早朝というのは朝曇りの濁った空の色である。「市の空」は小倉の町の空であり、久女は、わが庭から小倉の町の空まで、心遥かに眺めやっていたのであろう。


コメント