ESSAY
「リルケと俳句と私」(二)
髙橋 正子
前号の花冠三七二号(二〇二五年一月号)で、リルケの「ハイカイ」三句を紹介した。リルケが自ら「ハイカイ」と呼んだのはこの三句だけであるが、リルケ研究者の星野慎一氏は墓碑銘となった薔薇の詩を俳句とみる考えを示している。これら三句から、または墓碑銘の薔薇の三行詩を含めても、「リルケと俳句」を私が語るには限界を感じている。俳句の数が余りにも少ないからである。それでもなお、ここに「リルケと俳句と私」を書こうとするには、それなりの思いがある。思いは一つではないが、その核心は、リルケが「見る人」であり、「事物の人」であったことである。私たち俳人もまた、リルケとは比べものにならないほど深度は違っているが、「見る人」であり、「事物の人」である。ここにもリルケと私たち俳人の接点があると思える。ほかにも、「詩は経験」という私たちのモットーとする「細く長く」俳句を作るにも通じる言葉を残している。また、私は六十年、俳句を実作し、ときには翻訳したり、俳句の音律を考えたりするなかで、「詩は呼吸」であるという一つの結論に至っている。リルケも「呼吸」という詩を彼の二大詩の一つの『オルフォイスへのソネット』に収めている。この「呼吸」の詩を読んだときは、奇跡としかいいようのない嬉しさであったが、リルケの「呼吸は詩」が、私の「詩は呼吸」と正しく一致するか、どうかはわからない。ちなみに、「オルフォイス」は、アポロンから竪琴リラを授けられた音楽と芸術の守護神である。その名を冠した『オルフォイスへのソネット』は、芸術そのものに捧げる詩集と言えるだろう。
リルケの詩を理解するには、まず彼の中期の作品『マルテの手記』を読まなければいけないだろうと気づいた。彼は三〇〇ページばかりのこの小説を書き終えるまで六年かかっている。これを書き終えたリルケは「死んでもよい」と言ったほどである。リルケの思想が読み取れる七十一の断章からなる小説である。散文詩という人もいる。読み始めた『マルテの手記』(大山定一訳・新潮社)ではあるが、読むうちに、思い出すことや考えることが、それに眠くなることがあって、なかなか読み進めない。まるで聖書を読むように、言葉や描写にゆき淀むのである。リルケが六年かけて書いたのなら、六年かけて読めばいいではないか、と思うまでになった。
(一)「見る人」
わたしたちには五感がある。私は仏教思想の影響だと思うが、日本人はこの五感すべてに重きをおくようである。一方、ヨーロッパ人は「見る」「聞く」を特に重視するということだ(『近代美学入門』井奥陽子著・ちくま新書)。ヨーロッパでの絵画や音楽の豊穣な姿を見れば、納得できる気がする。
「見る」と言う行為については様々なことを考えておかなければいけないだろう。例えば、俳句では「観照(かんしょう)」ということがよく言われる。「観照」は一般的に次のように説明されている。物事を主観を交えずに冷静に見つめ、その本質を理解しようとする行為を指し、哲学や仏教、美学などの分野でよく使われる言葉。単なる「観察」とは異なり、内面的な洞察や精神的な深まりを伴うのが特徴である。
私が俳句を作り始めたばかりの時に読んだ川本臥風先生の一句がある。
若葉蔭砂うごかして水湧ける 臥風
これは臥風先生の若い時の句で、確か、第一句集『樹心』の初めにあったと記憶している。みずみずしさが印象に残った句である。この句に出会ったとき、「若葉の下の砂をわずかに動かしながら湧きでる泉」に、実際に誘われた気持ちになった。なぜ、こんなに景色がそのままに詠めるのだろう、とも思った。この句は「観照のすなおさにおいて優れている」と言われている。臥風先生は大正十一年に京都大学の独文科を卒業され、旧制松山高等学校に赴任された。俳句では、臼田亞浪の「石楠」の最高幹部であり、松高では「星丘」という学生の俳句雑誌を発行された。その出身者には「葉桜のなかの無数の空さわぐ」の句を作った篠原梵などがいた。臥風先生は、ゲーテと鷗外の研究者であったが、「光明会」という宗教と科学を考えるような仏教会におられた。こういった経歴から、臥風先生の「観照」の態度は科学的であることも一つの要件のように私には思える。「主観を交えずに冷静に」ということは、「科学的に観察して」ということになるだろう。それに内面的洞察が加わるのだ。これは、私が俳句を作り始めて最初に学んだ「見る」ということであった。
一方、ヨーロッパの人リルケは『マルテの手記』の主人公マルテに語らせて次のように言っている。デンマークからトランク一つと数冊の本を持ってパリに来た若き詩人マルテは言うのだ。
「僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。」「僕は見ることを学んでいる。すべてのものが僕のなかにいっそう深く入りこんでくる。僕には僕の知らないような内部がある。すべてのものが、いまはそのなかへと向かう。」
リルケにとって「見る」とは、対象を外から眺めることではなく、対象が自分の内面に沈み込んでいく過程なのである。リルケの「見る」は、リルケ研究者の星野慎一が言う「集我」と言っていいかも知れない。単に、視覚的認識ではなく、存在の深層に触れるための精神的営みなのである。彼はこのようにして作品を生んでいったのだ。
また、リルケは「見る」ために、つまり詩を生むために「孤独」を好んだが、これは「集我」のためであろう。彼は詩作の場所にこだわっているように私には見える。晩年から亡くなるまで住んだスイスのミュゾットの館は、十四世紀の小さい城で、電気も水道もない、お手伝いさんも逃げ出すほどの寂しさだったという。しかし、庭には小さい噴水があり、丘にあるそこからの眺めはよかったのであろうと思える。詩作の合間を慰めていたのではないかと、私は思うのだ。彼の二大詩の一つの『ドゥイノの哀歌』をなしたドゥイノの館もアドリア海の絶壁に立つ城で『ドゥイノの哀歌』を書き終えた彼は、夜中の二時ごろ外に出て、お城の壁を感慨深く撫でたという。十年かけて完成した詩を創造させてくれた館への愛おしさである。
(二)「事物の人」
「根源俳句」というのをご存じだろうか。「根源俳句」とは、俳句の本質や精神的深みを追求する姿勢を指す言葉で、戦後の俳壇で議論を呼んだ概念である。一九四八年年に山口誓子が創刊した俳誌「天狼」の巻頭言でこの語が用いられ、俳句界に大きな波紋を広げた歴史がある。「根源俳句」は、桑原武夫の「俳句第二芸術論」に対して、俳句の精神性や芸術性を再確認しようとする動きであった。同人たちによっても「根源俳句」の意味は多様に解釈されて個々人が特徴的な俳句を作っている。自然や人間の営みを通して、存在の根源に迫ろうとする。あるいは、 俳句の限界と可能性の探求をしようとしたのが特徴と言えよう。私はここにも多分にリルケ的なものを感じている。
話は変わるが、私が俳句を作り始めて間もないころ、普段は大学の部室する俳句会が、このときは、山頭火の旧居の「一草庵」で行われた。私はお茶係で、お茶や菓子を用意をした。この句会には愛大俳句会の顧問であった信之先生と、「天狼」の創刊同人である英文科の谷野予志先生が出席された。私はまだ俳句をはじめて間もないときなので、知っている俳句と言えば、教科書にあった、芭蕉、蕪村、一茶の句、それに中村草田男、山口誓子、加藤楸邨などのわずかの句であった。その中で印象に残っているのが山口誓子の俳句である。例えば、
夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 山口誓子
海に出て木枯らし帰るところなし 山口誓子
の句である。
私には子どものわりあい早い時期から、「泣いてはいけない」という子どもなりの美学があった。子どものころから、日本的な湿潤な情に対して一歩引いていた。それが大学生になっても尾を引いていたのだろう。誓子の句に魅力を感じていたのだ。それでできた俳句を句会に出した。今覚えているのが次の一句である。
コーヒーの匙の上向きすぐ冷ゆる 正子
これは、道後の下宿の部屋での作。八畳あった部屋は晩秋ともなると寒々としていた。飲んだコーヒーの匙もコーヒーのシミを残して上に向いていた。その時投句したほかの句も信之先生と谷野先生の選に入ったと思うが、この句で、後日談が生まれることになったのだ。信之先生と谷野先生が「選が一致しましたなあ。」と話している。なんのことかつゆ知らず、その日の句会は終わった。
そのころ、私は谷野先生が天狼派の著名な俳人であるのを知らなかった。谷野先生が翌日研究室で英文の先生方にこの「コーヒーの匙」の句を絶賛されたというのだ。そして、数日も立たないうちに若い英文の森田先生から授業のあとに「谷野先生が、先生の部屋に来るように言っておられます」と伝言された。私はすぐには行かなかった。するともう一度、また授業のあとで、同じ事を言われた。松山より田舎に暮らしていたので、私には谷野先生は、完璧な紳士に見えた。授業中のテキストを持つ手も動じず、立ち姿もどこから見ても隙がなかった。私は勝手に厳しい先生だと思い込んでいたのだ。伺えば、厳しことを言われるだろうと想像していた。後輩の話では、谷野先生は、全く、そんなことはなかったと言うのだ。私は、とうとう行かなかったが、そのとき伺っていれば、「コーヒーの匙」の句のことも、ほかのためになることも話していただけただろうと思う。今になってはどうすることもできないが、ここで視点を変えて、参考までにAIによる分析を書いてみると、次のようなことである。
【★谷野予志さんは、物や現象を通して“無言の感情”や“感性の共鳴”を重視する作風でも知られています。その視点から見れば、この句はまさに「もの」に語らせ、「もの」の在りようで人間の感覚を浮かび上がらせています。冷たさは感情の冷えではなく、現象のなかに潜む美しさです。
★この俳句は繊細さと即物性の美が際立っています。句の魅力の核心は、視覚と触覚の融合、匙の「上向き」という微細な所作に、ただならぬ静けさと美意識が宿っています。読者は視覚的な情景だけでなく、「すぐ冷ゆる」という触覚の感覚に引き込まれます。時間の微細さ、「すぐ」という語が、冬の空気や金属の冷たさを一瞬で伝え、季語のような働きさえします。何も説明せず、ただ現象に寄り添うことで、余韻を生んでいます。
★静物性と禅的含意、動きが最小限に抑えられ、句の世界が止まって見える。その停止した瞬間にこそ、谷野氏が感じ取った「詩」があるのでしょう。 予志氏の美学との響き合い合いがあります。】
私は、谷野先生の俳句では次の句を覚えている。いわゆる根源俳句と言われる俳句である。 第一句目は口語俳句であるが、新しさへの展開であろう。
くらがりに傾いて立つ炭俵 谷野予志
冬の海越す硫酸の壺並ぶ 谷野予志
水澄んで遠くのものの声を待つ 谷野予志
こうした谷野予志先生の俳句に見られる物が語りだすような静謐な世界をリルケの「毬」の詩にも見出せるのではないだろうか。
ここで、リルケの事物詩と言われる『新詩集』(Neue Gedichte)から、「毬」(Der Ball)の詩を取り上げてみたい。四連からなる詩であるが、引用してみよう。
毬
まるいものよ 双手(もろて)から温(ぬく)もりをうばって
それを無造作に まるで自分のもののように飛び立ちながら
上空に解き放すものよ もろもろの事物のなかに
とどまっていることができず
事物であるためには軽すぎて まだ事物というには足らぬ
しかも外界(そと)に居並ぶあらゆる事物のなかから
突然、眼に見えずわれわれのなかへ辷りこむ
その限りでは十分に事物となっているもの それが今
お前のなかに忍びこんだ お前 上昇と落下の間で
なお踊っているものよ お前が立ち昇るとき
まるでそれを伴(つ)れて昇ったように
お前はいま投擲を運び去り 解き放し
―そして自らは傾きながら
一瞬 立どまって あそんでいる子供たちに
突然 上の方からあたらしい位置をさし示し
彼等を整頓して まるで舞踏のような姿勢をとらせる
それからみんなに待たれ 望まれながら
お前はす早く 無造作に なんの技巧もなく まったく自然の姿で
高くさしあげられた双手(もろて)の杯(さかずき)のなかへ落ちてくる
(『リルケ詩集』富士川英郎訳・新潮社より)
この詩の「事物であるためには軽すぎて、 まだ事物というには足らぬ」ものは、毬に残っている手の「熱」のこと。普通に思う詩とは趣が異なっているが、深い観察や見方に、読者は、おそらく楽しい気持ちにも、物理の時間のような心持にもなるだろう。
ほかのテーマについては次号で述べたい。
{「花冠」三七四号(二〇二六年一月号に続く)