「リルケと俳句と私」(三)

〇日本の「見る」と西洋の「見る」
「リルケと俳句と私」(二)で私は「見ること」と「事物の人」について述べた。そこでは、対象を見る、凝視することが単なる観察ではなく、存在そのものに触れる営みであることを確認した。ここではさらに、日本的な「見る」と西洋的な「見る」の違いを明確にしたい。

一、西洋の「見る」
西洋における「見る」は、対象を把握し、意味づけ、概念化する方向に傾く。リルケの詩においても、薔薇や天使は単なる事物ではなく、存在の深みを象徴する「理念」へと昇華される。見ることは、事物を超えて普遍的な意味へと到達するための契機である。
見る=対象を「解釈」する行為
見る=理念や象徴への道

二、日本の「見る」
一方、日本の俳句的「見る」は、対象をそのまま受け止め、余白を含んだまま提示する。事物は理念へと昇華されるのではなく、季語や写生を通じて「その場の余韻」として残される。見ることは、対象を「そのままに置く」行為であり、意味を過剰に付与せず、沈黙を尊重する。仏教では、観照ということである。自我を取り払った、すなおな観照態度でものを見ることが重視される。(ちなみに、俳句で「写生」ということが言われるが、これは近代俳句の改革者の正岡子規が、中村不折ら洋画家から強い影響を受け、西洋美術の写生技法を俳句に取り入れたものである。)
見る=対象を「そのままに置く」行為
見る=余白を含む提示

三、両者の交差
リルケの「見る」は象徴化へ、日本の俳句の「見る」は写生と余白へ――この差異は文化的背景に根ざしている。文化的背景とは、西洋の哲学的伝統と、日本の仏教思想的観照(空や無の思想)である。西洋の「見る」は「意味の過剰」を抱え、日本の見るは「沈黙の余白」を抱えている。両者の交差が、意味と余白の緊張関係を生み、人間存在の普遍的営みとしての『見る』が、両義をもって開示される。――「理念化」と「余白提示」の二つのまなざしが交差するところに、私がこれから述べる、「詩返」や現代俳句の新しい可能性が立ち上がると考えられる。
例えば、リルケの薔薇が「理念」へと昇華される一方で、日本の俳句は「薔薇そのもの」を沈黙の中に置く。この二つの「見る」が交差すると、薔薇は理念であると同時に、現場の余韻でもある詩となるはずだ。。

四、私の立場から
かつては、西洋のものの見方と、日本のものの見方は、違っていると、その差異が強調されたように思う。しかし両者は断絶ではなく、リルケが俳句に関心を示したように、互いに、補い合う関係にあると思える。リルケの凝視は俳句に思想的な深みを与え、俳句の余白はリルケ的象徴を沈黙の中に響かせる。ここに「「象徴化」という言葉がでてきたが、俳句の深みは、この象徴化によって、決まると言っ てよい。芭蕉の俳句がすぐれているのは、単なる写生ではなく、対象が象徴化されているのである。
近代詩人の一人、三好達治は、『詩を読む人のために』のなかで「象徴とは、把握と摘出である。」と言っている。「把握と摘出」は、俳句を作るときに、私が出会うことである。漫然と物を見ていることもあるが、俳句を作ろうとする作業には「把握と摘出」が伴ってくる。
本号の巻頭言として、信之先生の「私の文学」を掲載している。そのなかに、芭蕉の「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ(三冊子)」と、一遍上人の「華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲にとヘ、一遍はしらず(一遍上人語録)」がある。私意を離れ、対象に迫り、対象そのものから習うことである。それには、「見る」だけでなく、五感が必要になる。俳句では、この五感が重視されるのである。身体すべてでもって俳句を作るが、それは私意を離れていなければいけない。つまり、俳句は身体的経験そのそのものであり、その心境なのだ。これは日本の思想であり、西洋の思想と違っている。西洋では、五感は全体感覚として意識され、そのなかで視覚と聴覚が特に重視されたという(『近代美学入門』・井奥陽子著)。
さらに、信之先生の提唱された「明るくて、深い現代語の俳句」は、明るいことと、深いことが同時に存在する俳句である。「そのために、何を。」ということである。私は、リルケが、俳句の本質を詩人の直観から見抜いていたところに注目している。それは、同じように俳句に関心をもった詩人グループのイマジストたちとは、俳句の見方が、根本的に違っている。私は、リルケの詩を読み始めて、リルケに、親和的なものを感じているが、俳句が深みをもつためには、言葉の象徴性が大事なのだろうと思い始めている。
ここで、断っておきたいが、私がリルケを読み始めたのは、老年の七十七歳のときである。六十年近く俳句を作り、「俳句とは何か」が、ほぼ、ようやく分かった段階である。それだけに、リルケへの接し方は、若い時にリルケに接した人たちとは違っていると思える。私は俳句を書くとき、日本的な「見る」を基盤としながらも、リルケ的な「見る」を意識するようになった。事物をそのままに置きつつ、その背後に潜む存在の深みを感じ取る。つまり、写生と象徴の両立を試みるのである。ここにおいて、俳句は単なる写生を超え、世界文学的な広がりを獲得するのではと思いながら、少し前を見ている。私がリルケを読みながら、感じたことを、次に述べたいと思う。

〇『果樹園付ヴァレの四行詩』と俳句による「詩返」
(一)詩集を読む契機
この夏は、『マルテの手記』だけを読んで、終わるつもりだった。『マルテの手記』は断章形式で書かれていて、ストーリーを追うものではない。内容をまとめて把握するのは難しい。自分の理解を助けるために、断章ごとに番号を付けた。これは、内容を思い起こすのに、役立っている。そして、何度か繰り返し読むうちに、この本は「詩人のバイブル」ではないかと思えたのだ。私の少ない読書経験からだが、詩について書いた本は多くあるが、、それ一冊で足りていると思ったことはなかった。しかし、『マルテの手記』を読めば、私の「詩とは何か」がはっきりするような気がしたのだ。
これだけで夏が過ごせることになっていた。ところが、リルケの晩年に、フランス語の詩集『果樹園』があることを知り、信之先生の遺した『リルケ作品集』から探した。しかし、それにはなかった。『果樹園』は、その後、補遺として出版されているからだ。
『果樹園』は「墨絵のような作品」と、解説があり、すぐにも読みたく思った。ネット上から四十番の「白鳥」の詩を見つけた。その日本語の訳詩とフランス語の原詩を読んだ。フランス語の原詩は、グーグルの翻訳ツールの朗読の音声でも聞いた。すると、はっきりしたイメージができ、その詩に応えて、次の句を作った。

白鳥のすべる水澄み影二重   正子

こんなことから、詩集『果樹園』の翻訳本を手にしたくなり、古書を探した。訳書は数種あったが、ドイツ文学者であり、フランス文学者でもある詩人の片山敏彦の訳書にした。一九五二年人文書院刊行の初版本である。届いた古書を見て、その装丁に、時代の雰囲気を感じ感激した。これには、「ヴァレの四行詩」の三十六篇が付いており、これがさらに、私に詩集を読む気にさせたのだ。

(二)『果樹園付ヴァレの四行詩』の位置づけ
(片山敏彦訳の『果樹園』には、ヴァレの四行詩が三十六篇付いているので、他の訳書と区別するために、ここでは、『果樹園付ヴァレの四行詩』と表記する。)
『果樹園』は、リルケの最後期にフランス語で書かれた短い詩の詩集である。『果樹園』の詩は墨絵のような詩だと言われている。この『果樹園』は、リルケの亡くなった翌年の一九二七年、リルケの詩仲間であったフランスの詩人ちが中心になり、フランスで出版された。のちドイツのインゼル書店からリルケ作品集の補遺として出版された経緯を持つ。
日本語訳を探して、『果樹園』(片山敏彦訳・人文書院一九五二年刊)の古書を見つけた。それには「ヴァレの四行詩」が付いており、その存在を、この『果樹園』を手にして、私は初めて知ったのだ。届いた本は、表紙の真ん中に「RMR、」だけ書いてある。おそらくリルケのサインであろう。筆記体の真面目な字で、RMRの終わりに「、」が打ってある。『果樹園』の詩はネット上で一篇読んでいたので、『果樹園』の詩から読むつもりだった。
ところが「ヴァレの四行詩」は俳句を意識して作ったと言われていることを知り、緻密なリルケ研究のある事を忘れて、この詩集から読み始めた。一つの詩は、四行を一連として、二連~三連からなっている。こういった詩が、三十六篇ある。
ここで、四行詩について簡単に説明すると、四行詩は、ヨーロッパの詩において最も一般的なスタンザ(連)形式で、英詩や民謡、讃美歌などに広く用いられている。押韻があるが、それにはいくつかバターンがある。このような四行の詩を連ねているものが、四行連詩(quatrain))と呼ばれている。
四行詩の魅力としては、短さゆえの凝縮、余白の美、音楽性が挙げられる。これは俳句の特徴や魅力にも通じることだ。日本にも都都逸があり、近代詩人の島崎藤村、中原中也、三好達治なども四行詩を用いて作品を書いている。
リルケが俳句を意識して詩を書こうとするとき、四行詩を用いたのは、受け入れやすく、短い詩には、かなっている思える。

(三)「詩返」という言葉を思いつく
片山敏彦の訳書は一九五二年の初版本なので、経年劣化はやむを得ず、数日読んでいるうちにページが一枚抜けた。。これ以上ページを落としたくないので、繰り返し読むために、別の紙に書き写すことにした。必要な時、必要な詩を二、三篇ずつ書き写している。さしあたっては、A5のブルーの横罫の便箋を縦書きに使って。書き写している.そんなことをするせいか、翻訳者になって一語一語言葉を生んでいる感覚になった。こうして書いたんだろうな、と訳者の机上が思い浮かんだ。
「ヴァレの四行詩」は、スイス、ヴァレ地方の風景、鐘の音や水の音、塔や山々を、描いている。リルケ晩年の作品は、重厚な印象を与える「魔術的言語」の詩群と、平明で軽快な詩行を特徴とする風景詩群に分けられる。『果樹園付ヴァレの四行詩』は、後者に属し、穏やかで親しみやすい印象を与えつつ、深い抽象性を内包している。風景描写は、単なる再現ではなく、既存の安定から新たな存在の地平へ踏み出す「乗りだし」を象徴している。(「乗りだし」はリルケ研究者の言い方)
リルケは、「ヴァレの四行詩」を、ヴァレへの挨拶のように詠んでいると私には思える。日本の俳句も挨拶の要素をもっていて、四行詩を読んだときに、俳人である私はそれに応える俳句を自然に作ろうとした。この俳句は普段私が作っている俳句といくぶん違った風にできた。西洋の詩と日本の俳句との二つの間にあるものではないかと思えた。四行詩に触発されてできた俳句は、季語があるものも、季語はないが季節感があるものもある。定型であるものも、字余りや破調の句もある。出来た俳句は緻密なリルケ研究から見れば、全く的をはずれたものかもしれない。だが、リルケの詩にふれて、詩として俳句を詠んだことは確かだ。これはリルケを詳しく知らない私が、それでもリルケの詩に触れるのに、いい方法となったのだ。
そうしてできた俳句のことをいつも「リルケの詩にふれて、その俳句」というのは、長すぎる。それを呼ぶ、適切な言葉がない。私はこれに「詩返」(しへん)という言葉を造った。この俳句は、リルケの詩の解釈でも、詩への共鳴を詠んだものでもない。「詩返」を定義づけるとすれば、次のようになる。
〈「詩返」とは、詩に触れた感興から生まれた俳句であり、単なる解釈や 共鳴ではなく、詩との倫理的・詩的対話を志向する応答のかたちである〉。

ここで、一つ問題を孕んでいると気づいた。「詩返」は、どんな形態で、効果的に公表するかが難しい。原詩や訳文の提示が不可欠であり、著作権の壁は避けて通れない。引用の範囲や方法を慎重に見極めなければ、詩への敬意を損なうことにもなりかねない。この理由で「詩返」は一度はあきらめた。しかし、いつも花冠をお送りしたお礼のはがきで、私を励ましてくださるN先生の言葉が思い浮かんだ。そして、なんとか、俳人としての倫理的な応答の可能性を見出し、『詩返』を詩論として位置づけることに、もう少し頑張ってみることにした。この「詩返」の考えには多くの議論がある事は容易に想像できるが、あえて現代の俳句の一在り方として示したい。「詩返」は、「届かないものへ」それでも「魂を届けようとする」俳人の試みなのだ。それはとりもなおさず、私の詩の源泉なのだ。

(四)「詩返」は可能か
このように、詩返とは、詩的精神の応答である。
では、リルケの晩年の風景詩に対して、俳句による詩返は可能なのか。以下に、その試みを記すことにする。
次に示すのは、リルケ晩年の風景詩に対して、俳句による「詩返」を試みる一考察である。詩返とは、詩に詩で応える営みであり、単なる翻案ではなく、詩的精神の対話である。ここでは、熊谷秀哉氏およびベダ・アレマンの研究を踏まえ、俳句による応答の可能性を探る。

  • 「リルケの最後期の風景詩」について
    リルケは『ドゥイノの悲歌)』、『オルフォイスへのソネット』という彼の二大詩篇を書いたあとに、一九二四年から一九二六年に「最後期の作品」を書いている。フランス語で書かれた『果樹園付ヴァレの四行詩』も、最後期の詩群に挙げられる。これらのたくさんの詩群を大作を書いた後の余技的なものと見るか、最後期の一群の詩作品として位置付けるかの二つの考えがある。この最後期の作品についてはようやく研究が進みつつある状況にあるようだ。俳人の立場にいる私は、余技ではなく、詩群としての位置を与えた立場に立ちたいと思う。
    さて、『果樹園付ヴァレの四行詩』が「風景詩」と呼べるのかの疑問があるが、岐阜聖徳学園大学の紀要に「最後期のリルケにおける風景詩について」(熊谷秀哉著)が載っていた。この論文から、『果樹園付ヴァレの四行詩』は風景詩であることが確かめられる。これは、一見穏やかで親しみやすい印象を与えるが、実は深い抽象性を内包してる。 風景の描写は、単なる視覚的再現ではなく、精神的な「乗りだし」—つまり、既存の安定した状態から新たな存在の地平へと踏み出す姿勢—を象徴している。これはリルケの人生観や詩作の根幹にも関わる概念である。
    つまり、リルケの風景詩は、単なる自然描写を超えて、彼の精神的探求や存在論的な問いを映し出す鏡のようなもので、晩年の作品群には、スイス・ヴァレ地方の山間の風景に触発された詩が多く含まれ、そこには静謐さと抽象性が共存している。
    この立場に立って「ヴァレの四行詩」に取り組むことになる。私は「ヴァレの四行詩」に自分で造った「詩返」という言葉を使って俳句で応えようとしている。俳句で応えるとき重要な心構えとして、熊谷秀哉氏が指摘しているリルケの風景詩の重要な部分が関係してくる。再度引用すると、「一見穏やかで親しみやすい印象を与えるが、実は深い抽象性を内包してる。 風景の描写は、単なる視覚的再現ではなく、精神的な「乗りだし」—つまり、既存の安定した状態から新たな存在の地平へと踏み出す姿勢—を象徴しています。これはリルケの人生観や詩作の根幹にも関わる概念である。」
    この文章にある「抽象性」は、俳句の季語のもつ「象徴性」で解決をできる限り図る。季語が明確に使えない場合は、季感(季節感)で埋め合わす。「乗りだし」については、これは俳句を作る態度として内面・内部への精神の集中と新境地への展開や飛躍を考慮にいれて出来る限り解決を図る。
  • リルケの詩に俳句で応えてよいか
    またリルケの詩に対して「詩返」という俳句の短詩形式で応えてよいかという重要な問題がある。そのことについては、同じ論文にアレマンの「時間と形象」についての考察があり、俳句における「今」を考える上で、また、リルケの詩を読む上で興味深かった。アレマンの「時間と形象」について、ウィキペディアであらましを知った。(『時間と形象』は、翻訳で手に入らないため。)

    アレマンの「時間と形象」は、次のように言える。

*アレマンの「時間と形象」
「Zeit und Figur beim späten Rilke(晩年のリルケにおける時間と形象)」は、スイスの文学研究者ベダ・アレマン(Beda Allemann)が一九六一年に発表した重要な詩学研究であり、このタイトルは、リルケの晩年の詩作品において「時間(Zeit)」と「形象/人物(Figur)」がどのように詩的に構築され、意味づけられているかを探るものである。

*「Zeit(時間)」の意味
リルケの晩年詩には、時間が単なる連続や過去・未来の流れではなく、心の深層に垂直に立つものとして描かれる。
たとえば彼は「消えゆく心の方向に垂直に立つ時間(Zeit, die senkrecht steht auf der Richtung vergehender Herzen)」と表現し、時間を存在の深みと関係する詩的・哲学的な次元として捉えている。

*「Figur(形象/人物)」の意味
「Figur」は単なる登場人物ではなく、詩の中で時間や空間と交錯する象徴的な存在です。リルケの詩では、人物や物体が「動き」や「曲線」として描かれ、それが詩人の内面と外界の関係を象徴するのである。たとえば、鷹の飛翔やボールの放物線などが「Figur」として詩的空間を構成する。

*この研究の意義
アレマンの研究は、それまで空間(Raum)に偏っていたリルケ研究に対し、時間という詩的構造の重要性を強調した画期的なものです。彼は、晩年のリルケが「世界内面空間(Weltinnenraum)」を詩的に構築する中で、時間と形象がいかに深く絡み合っているかを明らかにしたことにある。
では、このアレマンのリルケ研究が俳句とどう関係しているかを、私は考察してみた。

『見る人」としての共鳴
アレマンはリルケの詩における「時間」を、単なる流れではなく、存在の深層に沈み込む凝縮された時間として捉えた。これは、俳句において「観照」や「呼吸」(詩は呼吸であるー正子)を重視し、事物が内面に沈み込む過程に共鳴がある。
また、リルケが「見ること」を「集我(しゅうが)」——つまり、対象が自己の内部に沈み込む精神的営みと捉えたように、俳句において、「観照」は、主観を交えずに冷静に見つめ、内的洞察を深めるという詩的姿勢の重要性をもっている。

「時間」と「形象」の詩学
アレマンは、晩年のリルケが詩の中で「時間」と「形象(Figur)」を交錯させ、詩的空間を構築する方法を明らかにしたが、俳句もまた、自然や事物の一瞬を切り取りながら、その背後にある根源的な時間や存在の気配を捉えようとする。たとえば、臥風先生の句「若葉蔭砂うごかして水湧ける」は、時間の凝縮と形象の動きが一体となった詩的瞬間であり、アレマンが論じたリルケの詩的構造にも通じるものだ。
「消えゆく心の方向に垂直に立つ時間」は、リルケの最も集我の時であり、俳句の「今の瞬間」をとらえた最も充足した「点」であると言えよう。
以上のような理由からリルケの風景詩に「詩返」としての俳句で応えることは、俳句の一在り方として許容されるものと思える。

(五)詩返の実作
「ヴァレの四行詩」は、四行を一連(スタンザ)とし、数連からなっている。リルケが晩年を過ごした、スイスのヴァレ地方の自然が詠まれている。この四行詩に出会って、さまざまなことが、思い浮かんだ。この四行詩は、「ベートーベンの小品のバガテルのようである」とか、「風景詩しとしてなら、俳句と深く関係がある」のではないか、とか。
読んでいると、詩に触発されて俳句ができた。自分のなかで、身体内部から生まれるように作る。リルケの詩を自分のもののようにしてしまう。この作業ができるのは、俳句の師の川本臥風先生の、「俳句の読み方」の指導によることが大きい。
私が指導を受けた俳句の読み方は、「俳句を作った本人の気持ちになって、俳句を読む」ことである。本人に寄り添うのではなく、「本人になって」、ということだ。個人的には、この俳句を読む訓練により、リルケの四行詩の風景詩に身を置くことが、かなりできるようになっているのではと思っている。
ヴァレの四行詩を毎日のように詠み、詩に応えるように俳句をつくっていると、それが、リルケの詩との対話と言えるような感じがしてきた。こうしてできた俳句を、詩に対する応答として「詩返」の言葉を造ったことは先に述べた。
はじめ「ヴァレの四行詩」は、自然を詠んでいて、馴染みやすく、気軽だと思った。そう難しくはないだろうと。やはり、リルケの詩である。言葉の抽象性は、最後期の余技とは言わせないものを持っている。芭蕉は俳句で最後に至る境地を「軽み」と言ったが、私は、そのようなものを感じている。ヨーロッパの詩人に「軽み」のような境地があるのか、どうかわからないが。

次に実作の「詩返」五句を示したい。翻訳の引用は、『果樹園付ヴァレの四行詩』(片山敏彦訳)からである。引用は、著作権があるので、第一行だけにした。「ヴァレの四行詩」には、題名があるものと番号だけのものがある。

(一)小さな滝つ瀬
水の精(ニンフ)よ 裸身にさせるそのものを

滝つ瀬の奔りて己が水まとい          正子

(二)
山の路の中ほどに 地と空とのあいだに

初夏(はつなつ)の空へ空へと地や教会      正子

 (三)
光の薔薇、それは今 こまかく砕ける一つの壁 ―

夕翳のワインやきららに葡萄園         正子

 (四)
昔ながらの国 いくつも塔はやはり立っている

塔々に影さし光の葡萄園            正子

五)
常春樹(きづた)に添うてつづくやわかな弧線(カーブ)

ポプラ立ち山羊いる路の遠く行く        正子


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