霧の中の「中道派」
髙橋正子
■角川俳句年鑑25年版をめくりながら、「中道」が見えなくなっているのを感じた。26年版角川年鑑の「花冠」の原稿を書くにあたって、25年版年鑑を読みかえした。とりわけ「合評鼎談 総集編 今年の秀句を振り返る」(横澤放川、辻村麻乃、抜井諒一)を読んでいて、ある種の違和感が胸に残った。
現俳壇では、「中道派」と呼ばれる俳句の姿が、まるで霧の中に消えてしまったような印象がするのは確かである。議論の俎上に載せられていないのか、それともその存在自体が忘れられているのかと思ったりする。その微妙ではあるが、存在するものの位置づけが、今回の年鑑では見えにくい。系統の継承と逸脱が見えない。それを語り、書き残すことは、俳句史の深みでもあるはずだ。系統の継承と逸脱を議論に載せることは重要なのではないか。俳壇の主流は「ホトトギス系」「人間探求派」「前衛俳句」などが主に語られ、中道派は明確な枠組みとしては扱われにくい傾向がある。形式や技巧に傾く現俳壇の現状に中道派は意義を示せるのではないか。中道派が完全に水脈が消えたわけではなく、沈潜と変容と取るべきで、抒情と精神性に現代の詩の倫理を加え再命名をしなければならない時が来ていると思える。
そしてもう一つ気づいたこと。愛媛大学の青木克人氏は、俳句界で活躍されている学者である。氏の論考は鋭く、現代俳句の動向を的確に捉えているが、長く見ていると、愛媛の俳句に関して、あえて避けているのではないかと思うことが少なくとも一つある。あるいは、氏の情報源にはその存在がまったく映っていないのかもしれない。
地元の句で、私には重要と思える部分が見えない(見ていない)ということは、俳句の「土地性」が失われることでもある。俳句は風土とともにある詩であり、見えないものを見ようとする姿勢こそが、批評の根幹ではないか。方法論の違いかもしれないが。ずっと不思議に思っている。
(2025年8月19日)
コメント