ESSAY
「リルケと俳句と私」(一)
髙橋 正子
リルケは二十世紀を代表するドイツ語の抒情詩人である。「現代の吟遊詩人」とか「愛や孤独」の詩人と呼ばれている。一八七五年オーストリア=ハンガリー帝国のプラハに生まれ、一九二六年に五十一歳で亡くなった。日本では島崎藤村や柳田国男とほぼ同じ年代の人で、その作品は世界中で多くの人々の共感を得ている。 そのリルケが一九二〇年、四十五歳のときに日本の俳句に出会い、フランス語とドイツ語でハイカイを作っている。そのことを少し掘り下げて考えてみたいと思うのである。かと言って、私がリルケについて書けることは何もない。リルケについて何も知らないからであるが、それなのに、俳句を作る私が、二十世紀を代表するヨーロッパの、オーストリアの抒情詩人リルケの俳句のことをなぜ書こうとしているのかを話すことから始めたい。
(一)リルケと私
≪夫、信之の蔵書『リルケ作品集』≫
去年、二〇二三年五月に夫の髙橋信之が亡くなった。遺された蔵書の中にドイツのインゼル書店から出版された『リルケ作品集』(四巻)がケースに入ったまま本棚にある。大切そうな感じで本棚に収まっている。注釈付きの本で、一、二巻が詩、三巻が散文と戯曲、第四巻が文学と芸術の書簡となっている。古書店に売り払われることもなく、松山から横浜へ引っ越してきて、ずっと本棚のよく見えるところにある。夫が亡くなってみれば、この本は、自然に私のものになった。しかし、リルケの本が本棚に大切にある本当の理由がよくわかっていない。夫は愛媛大学でドイツ語ドイツ文学を長年教えていた。トーマス・マンの研究者であった。よく、「クノーテン・プンクト」と言っていた。結節点のことだ。「中間のイデー」ということも言っていた。後には、外国語俳句との出会いや実際の交流があって、比較文学を研究するようになって『比較俳句論序説』(青葉図書昭和五五)を表した。その内容はそばで手伝ったから大体知っている。多岐にわたっているが、リルケのハイカイの考察や、リルケの日本四季派の詩人への影響などについても書いてある。それを書くのに、リルケをこれほど大切にするか、と思うのだ。研究者とはそういうものと言うのかもしれない。そう思ううちに、リルケの四巻の本を見るほどに、この本がリルケの存在の実存的意義を、象徴しているのだと思えて来たのだ。
今年、夫の一周忌と納骨式がすむと、遺された本に風を通さなければと思い始めた。本に風を通しながら、子どもたちはもうリルケの本は読まないだろうと思った。夫は、私に読めと遺したわけでもないだろう。読むとすれば、私しかいない。私しかいない、と言って読めるわけではないが、多少でも関心があるのは、私だけということだ。しかし、私は今日まで、柄でもないからとリルケを意識的に避けていた。リルケだけでなく学生時代に流行したカフカを読めば、読み終えるころには虚脱感に襲われた。今度は、目の前にかの抒情詩人リルケの本を置いて、読まないで死ぬのにあきらめがつかなくなった。そして、一日一篇の詩を読むつもりで、辞書とパソコンを頼りに読み始めた。夫の恩師、故信岡資生先生が編纂した辞書をたよりに、そしてパソコンをたよりに、家にあるあり合わせのもので読み始めた。少しの不安と期待があった。わからない時、グーグルの翻訳で英訳すると、別の観点から考えられ、ひとりで読み進めることへの安心につながった。詩をグーグルで翻訳するのは問題ではあるけれど。
≪リルケの初期の詩を読む≫
リルケの初期の詩を読み始めたことで、彼の目と、自分の俳句を読む視点が全く違うものではないと気づいた。。第一巻の扉を開けた。最初と二番目に置かれた詩「古い家で」(IM ALTEN HAUSE)と「小さい地区」(AUF DER KLEINSEITE)を読み終わったとき、リルケ二十歳の一八九五年のこれらの詩が、霧の粒子のように私の体に沁み込んで来るのを感じた。「古い家で」は、リルケが生まれた街プラハを詠んでいる。古い家のガラスの向こう側に、曇って見えるニコライ堂の緑青色のドームや尖塔は、どんなにか印象的だったろう、あるいはその威風に圧迫されてはいなかったろうか、とか。「小さい地区」では、街の切妻屋根の間から見える小さい空は、どんなにかきれいで深かっただろうとか、想うのが楽しくなった。私は短い詩を読むと、それを俳句にしたくなる。私なら俳句でこう読むだろうと。「古い家で」からは、バロック様式のニコライ堂の威風を感じさせて、
「緑青のドームを霧のすりガラス 正子」
の句を、「小さい地区」からは、
「切妻の屋根の切り取る秋深空 正子」
の句を詠むだろうと。実際、今ここに詠んだ。二篇の詩は、私が俳句を詠む視点に重なると思えた。若いときの作品は詩人の生来の感性が伝わり、親しみが感じられる。
≪星野慎一・小磯仁著『リルケ』≫
また同時に、私は『リルケ』(人と思想)(星野慎一・小磯仁著・清水書院)を読んでいた。そのなかで星野慎一氏がリルケのハイカイの解説をしているのだが、私と同じ思いや考えであったので、驚きもし、また嬉しくもあった。リルケが読めそうな気がしたのだ。
≪卒論に紹介したリルケの俳句≫
そしてもう一つ、一九六九年に、私は、愛媛大学の卒業論文に「Haiku in English」を提出した。このなかにリルケのフランス語のハイカイを紹介しているのである。どの場面かといえば、俳句は今や世界中で、それぞれの国の言語で書かれている。英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などで書かれていることを紹介した箇所だ。
リルケのフランス語の俳句は、カナダのトロントで、一九六八年発行の「HAIKU」Vo.2 -No.3に英訳をつけて紹介されていた。私は当時カナダやアメリカで発行されている俳句雑誌を購読していたので知ったのだ。リルケの俳句は、アメリカやカナダで知られていたことになる。因みに、カナダの雑誌には、リルケの次のフランス語の句が紹介されていた。
Entre ses vingt fards
elle cherche un pot plein;
devenu pierre. (R,M,Rilke)
Among her twenty paints
she searches for a full pot;
turned to rock (tr.by Hian)
このリルケのフランス語俳句には、次の日本語訳がある。
あまたの美顔料の中から
彼女のもとめるものは、満ちてゆたかな壺、
石のようにたしかなもの。 (星野慎一訳)
英訳者のHian(ヒアン)氏は、のちにアメリカ俳句協会の会長になった故ウィリアム・ヒギンスンのことである。彼は髙橋信之が毎週発行していたHAIKU SPOTLIGHT に第二号から積極的に投稿してきた。松山にも来たことがある。
HAIKU SPOTLIGHTは、髙橋信之が一九六八年九月から一九七〇年五月の七十号までウィークリーで発行した。それははがきに印刷したものだった。総句数三三五句で、五十七人の外国俳人が参加している。アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、イスラエルから投句があった。日本人は川本臥風(正子の翻訳)、髙橋信之、藤田正幸、学生として遠部正子ほか四名が参加した。学生は当時、信之の指導で活動していた愛媛大学英語俳句研究会の者たちである。
≪リルケの俳句へ≫
俳句を作る私にとって、リルケが俳句に関心をもち、俳句を作ったこと、それも単に日本趣味でなかったことは、大きなよろこびであった。 カナダの英語俳句の雑誌を通してリルケの俳句を知ったことで、リルケへ近づきやすくなった。リルケの詩は難しくても、俳句については具体的に知りたいと思うようになった。夫の信之は『比較俳句論序説』でリルケの俳句や日本四季派の詩人たちのリルケ理解や影響について書いている。世紀末のヨーロッパでのジャポニスムの影響も、西村雅樹先生編訳の『世紀末ウィーンの文化評論集』や、西川智之氏の「ウィーンのジャポニスム(前編)」「ウィーンのジャポニスム―パリとの比較(後編)」でより具体的に知るようになった。そうなると、さらに実際的に創作の現場でどうなんだ、と思うようになった。つまり、私が俳句の創作者であるからだ。幸い、インターネット上に「リルケの俳句世界」(柴田依子著「比較文学」Vol.35-1992年)の論文を見つけた。また、星野慎一氏の『リルケ』清水書院)は、はじめ図書館で借りて読んでいたが、手元に置きたくなり買った。 そして、『髙橋正子の俳句日記』に二〇二四年九月七日から十月十九日まで、リルケの俳句についての私の考察の過程を、訂正が必要な個所があるかもしれないが、包み隠さずそのまま書いた。落ち込んだこと、喜びとなったことなども書いた。一つの本を読み、次の本を読んで訂正し、次の論文を読み、また訂正しを繰り返した。「リルケと俳句」にまっすぐに辿り着いたわけではなかった。回り道をしたがそれも面白かった。あとで役立つだろうとも思えた。なんとか一区切りがついたと思えたので、この度、整理し、まとめて花冠の誌面に載せることにした。 ネット上に公開されているゲルマ二ストの先生方の研究論文や、また著作などを拝読し、理解を深めることができたことに感謝する。
≪リルケがもっとも関心を持った日本の俳句≫
リルケと俳句のことは次回の第二部紹介したいと思っている。リルケは晩年にあたる一九二〇年、四十五歳のとき、クーシューの日本の俳句のフランス語訳で、俳句を知った。なかでも、次の上島鬼貫の俳句に特に感銘を受けている。鬼貫は東の芭蕉、西の鬼貫と並び称された人だ。その俳句は
咲くからに見るからに花の散るからに 鬼貫
である。この句の「からに」は古語で「~するとすぐに」の意味。クーシューの訳では、
Elles s’ épanousissent, alors
On les regarde, – alors les fleurs
Se fletrissent,- alors..
彼女たち(花))は咲く、そして
人は彼女たち(花)を見る―そして花々は
しおれる―そして.. (正子直訳)
である。クーシューの訳では、花を桜と解釈していない。フランスの俊秀クーシューが日本に来たのは二十四歳のときである。リルケはこのフランス語訳に「その短さにおいて言いがたいほどの熟した純粋な形の翻訳」(「リルケと俳句世界」柴田依子著)と言い、鬼貫の句を、「ただこれだけです! 甘美です!(rien des plus! C’est delicieux!) 」(同著)と言っている。
リルケのこの言葉からは、啓示を受けたような喜びを感じる。鬼貫の俳句は、「一瞬の閃きのうちに、万象の途切れることのない流れと、仏教の無常が三行の内に集めており、未完成が、表現の驚く以上のものとなっている。感覚的な世界のイメージそのものなのだ。」のクーシューの解説がつけられていたのである。たった三行の未完の詩による感覚的イメーージの詩に感嘆したのである。
リルケは俳句を知ってのち、二大詩篇と言われる『ドィノの哀歌』『オルフォイスへのソネット』を成している。。またその後、フランス語の短い詩をいくつも作り、表現は、内面への深い探究と反比例して、平明に透明感を増しているという。これは読んでいないので、これから読むのがたのしみである。また「核となる言葉だけの詩」を作りたいとも言っている。
リルケのドイツ語の俳句を髙橋信之先生の訳で、次に紹介する。信之先生は詩人リルケらしくない俳句だと言っている。そのことを認めながら、リルケ研究家の星野慎一氏は。この句は、リルケの世界観を言い表わしていると言う。「死と生がつながっている世界」のことである。
黄楊から出る蛾のよろめきつつ
この夜息絶え、知ることもなかろう
春でなかったのを。 リルケ
蛾は小春日和に迷い出て、夜の寒さで死んでしまったが、まだ春が来てなかったことをついに知らないだろう、と言う意味。そのほかにも甘い抒情を排して事物に実存の意味を置いた詩集など、俳句を作るものに、俳句を考えるヒントを与えてくれているのが、リルケの一面にあると思う。 (花冠三七三号、第二部「リルケと俳句」へ続く)
コメント
手始めに正子のエッセイ「リルケと俳句と私」をのせました。