5月4日(土)みどりの日

晴れ
水つかう吾の近くへ夏の蝶    正子
夏蝶の影のもつれが地に映り   正子
夏の蝶遺影の夫の変わらずに  正子

●お昼前、丸善へまっぷるの『横浜』を買いに。金蔵寺の横から山道を歩いて行く。日陰を選んで歩くが日陰がとぎれると、日差しがきつい。日傘をさすべきか、どうか、日傘をリュックから取り出すのがめんどうなばかりに、ずっと考えながら歩いた。結局、 冠っている帽子で済ませた。

●本屋から帰って、天気がいいので今日も押し入れの布団干し。窓ガラスを拭いてベランダを洗っていると、黄アゲハがよく飛んでくる。もう夏になっている。

●この連休、街のなかに住んでいながら、森の中に暮らしているような気分。誰も訪ねてこないから、暮らしは快適。朝は起きようと思わなくても普通に目覚める。本が読みたければ読む。本に飽きたら、レース編みをする。電車に乗って出かけたいときには、小さい街まで行って花や緑や川のある所を見つけて歩く。珈琲ゼリーが欲しくなったら作る。夜は、レース編みの続きをいろんなことを思いながら編む。信之先生が亡くなっても私や娘に心を寄せてくださる方がおられる。そのことを思うと、尊敬と感謝しかない。

レースは編みあがったら、夜中でも糊付けをして外に干しておく。クラッシックを朝から夜まで聞いていたのに、読みたい本を図書館から借りて読むようになって、目も悪くなった気がするが、クラッシックをあまり聞きたいと思わなくなった。それに世の中はもういい、と言う気持ち。

5月3日(金)憲法記念日

晴れ
青アゲハ飛べば生まれるうすき影  正子
卯の花は上総地層に咲かむとす  正子
ハルジオン優しすぎれば淋しさに 正子

●6日からは曇りか雨の予報。押し入れのお客用の布団を干す。朝、5丁目の丘へいくと、アゲハ蝶が足元からふらっと飛び立つ。今年初めて見たアゲハは、黄アゲハも青アゲハもいる。気のせいか、少し小さい感じがする。

●『人間ゲーテ』(小栗浩著/岩波新書・評伝選)を借りて読み始めた。ゲーテについてよく知らないので書くことはないが、壮大な人物の印象をもつゲーテの人間性の魅力はなんだろう。聖俗あわせもっている印象。19世紀を下るにつれて壮大な人物がいなくなっていることは科学的に(社会科学的に)証明されているとのこと。ゲーテの時代読者は男性が対象と思っていたが、ゲーテは息子の嫁に『ファウスト』の原稿を読み聞かせている。こう見ると男性だけを対象に書かれたのではないようだ。『ファウスト』も研究者のようには読めないが、いい加減に読んでも面白い。
現代の日本の本、なんとなく、いまだに男性対象に書かれている気がする。読んでいてよくわからない疎外感を感じる。
リルケの
いま住む家のない者にもはや家はなく
いま孤独な者はいつまでも孤独でいるでしょう
の2行に共感。

5月2日(木)

晴れ
せせらぎの流れてくだる若葉陰   正子
夏近し遠きに浮かぶ観覧車     正子

●図書館の本を返却。駅前のナチュラルガーデンが夏らしい雰囲気。そのあと、駅の右手の瀟洒なビルの続きがどうなっているか見たくなってビルの端まで歩く。そのあたりから青もみじなどの落葉樹の小道があり、小さいせせらぎが流れている。そのまま歩けばセンター北駅に行きつきそう。晴れているので、緑道を心地良い風が吹きぬける。思わぬところで、ハイキングを楽しむことになった。せせらぎで烏が水を飲んでいる。反対側から歩いてきた人に「この道はどこに出ますか」と聞くと「百メートルほど行ったら川に出ます」と。お礼だけ言ってそれ以上聞かなかった。
このあたりで川とは鶴見川の支流の早淵川。早淵川に行き当たれば、土手を歩いてセンター北駅に出れる見当はつく。土手は日差しがきつく、日傘をさす。土手を行くとセンター北の阪急百貨店の観覧車が見える。それを目指して大通りを歩くと赤いマロニエの花が咲いている通りに出た。いつもはセンター北駅を中山行の電車の窓から見えるマロニエなのだ。この花に安心感を覚える。通りの突き当りが駅構内となってエスカレーターで上がると駅の改札口広場に出た。いつものところが初めてのように思える。例のJAの直売所で紫蘇の苗2本を買って電車に乗った。
●借りた本は、『はじめて学ぶアメリカ文学史』『はじめて学ぶイギリス文学史』『人間ゲーテ』(小栗浩著・岩波新書)『シラー』(内藤克彦著・清水書院)。

5月1日(水)

小雨
ふっくらを大切にして柏餅    正子
柏餅いろは朽葉と青きいろ     正子
レース編五月の空に吊るし干す  正子

●ゆうちょ銀行の調査書類を整える。句美子に見せて連休明けに返送する。

●『ファウスト』二部のはじめ「気持ちのよい高み」をなんどか読む。「高み」が実際どういうことかを言葉で伝えるのは難しいが、このように詩の形式なら、おおよその感覚がつかめる

愛大俳句会に入会したばかりの10代のとき、部長の学生が「いたどり」主宰で愛大俳句の前身の旧制松山高校の「星丘」俳句会を指導した独文学者の臥風先生の俳句について、「臥風先生の俳句はどこがいいのかわからない」と言ったことがある。感覚的には素晴らしいとわかるが、どこがいいかと問われれば、答えるのがむずかしい。今思えば、「高みの心境」を詠んだ俳句だと分かる。こういうと、逆に「深み」のある俳句はどういった俳句か説明を求められると、これも難しい。

『ファウスト』を敬遠していたが、2度目に読むころから、面白みにが少しわかってくる。これまで全然思わなかったが、こういった本の読者は男女を問わない中性的な人間ではなくて、男性を想定して書かれているのではと思いだした。なんとなく。

4月30日(火)

曇り
花いばら看取りし夜のありありと  正子
おがたまの花の一樹に風薫る    正子
立葵夫を立たせて撮りし写真    正子

●「俳壇5月号」の「名句のしくみと条件/⑰草田男の名句」(坂口昌弘著)
を読んで思ったこと。
蟾蜍長子家去る由もなし  草田男
の句について、秋櫻子が「真面目でも意味のわからない俳句は困る」と言ったという。

鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨
楸邨は人間探求派という名前が生まれるきっかけとなった座談会で、それまで、俳句の方向性から、生活からの声を表現する技術をもっていなかったことを背景に「現在の自分が、自分の生活から出てくるもので捨てかねて居るやうなものを出す時に、わかりにくいところが出るかも知れないが現代に活かしてみたい」と発言している、と言ったこと。

季語と季語以外の言葉が切れている場合は難解となる。草田男と楸邨の句で、切れているのか、切れていないのかよくわからないと、坂口氏は言う。

昨今は、季語の孤立、「切れ」が「切れ」ているほど良いと言う傾向がある。それを「飛躍」という。難解な句が高次の句とは納得できないが、どうもそうらしく、そこに面白みや現代性を見る。しかし、短い俳句では、飛躍がありすぎると、難解というより、解釈がどこまでも恣意的になるのではないだろうか、と思う。作者はみんなの解釈をなにやら「ほくそ笑んで」聞いている格好だ。人が悪いと思う。まるでメフィスト。

また、楸邨の言葉、「わかりにくいところが出るかも知れないが現代に活かしてみたい」は、実験の段階、チャレンジと思える。それが名句となって、解釈がいろいろできるということ。実験は成功したのか。

草田男の場合は、寓意的と読める。この寓意はゲーテのようでもあるような気がする。

●私は、季語と季語以外の間には不即不離の関係がなければならない、と教わった。季語が孤立してはいけない、と言うこと。切れすぎてはいけないということ。要するに、今どうすべきか。多々ある考えから、今の自分のスタイルを貫くしかない。そのスタイルにむしろ人間性が出ると考えて、おのおの良きように、ってことか。

4月29日(月)

曇り
  A氏のFBから連絡があり見ると、たくさんの桜貝
てのひらにのせてあまたのさくら貝  正子
昭和の日弾けないギターをつま弾けり 正子
昭和の日家居のわれにシャボンの香  正子

●辞書など置いている本棚の整理。子供たちが使った同じような辞書が何冊もある。一種類ずつ残す。この本棚から落款用の彫刻刀と石とスタンプができてきた。これも探していたもののひとつ。信之先生がドイツに行く時に持っていった住所を書いた小さい手帖もでてきた。ウィーンやフランクフルトやミュンヘンに住んでいる人たちの住所。しかし、肝心の信之先生の大連の写真がでてこない。

●『ファウスト』二部、難解だと言われているが、あまり考えないで読んでいる。ほかの人はどんな風に読んでいるのか知りたくなって、ネットで探すと壮大な西洋古典をよく読んでいる方のブログがあった。あらすじと感想が書いてある。ファウストと同じような年齢の方のようで、あらすじがよくまとめられていて、読むのに助かる。

世界がファウストとグレートヒェンだけなら、グレートヒェンは子殺しをしなくて済んだだろう。このことは、宇宙へ人間が行くようになっているのに、全然解決されていない。何を進歩と言ってるんだろう。

4月28日(日)

晴れ
朝掘りの竹の子たっぷり散らし寿司   正子
竹の子寿司だれも居ぬのにたっぷりと  正子
人形の服を洗えば春暑し        正子

●この前の朝掘り竹の子。それを竹の子寿司にして句美子に持たせる予定だったのに、句美子は風邪。「冷凍にしておいて」というので、すこし冷めたところで冷凍。竹の子をもう一度買って、今度は木の芽焼きと木の芽和。

毎年竹の子を何より楽しみにしている。子供のころの楽しみは、春は家の藪でとれる竹の子と、秋は家の山でとれる松茸だった。竹の子は藪に掘りに行く父について行ったが、松茸は山なので、現場にいったことはないが、籠にシダを敷かれて持ち帰られた松茸を見ると、子供心にもうれしかった。母が濡れ新聞紙に包んでかまどの熾火で焼いてくれる。それが一番おいしかった。

●ぬいぐるのうさぎ二匹と子熊を中性洗剤をぬるま湯で薄めて拭いてみた。あまりきれいにはならなかったが、少しさっぱりした。洗った洋服を着せて身近に置いておくことにした。リシーちゃん(Lissi)人形はホルトスさんのプレゼントで、30年以上たっているのに、白いレースのエプロンも水色の洋服もきれい。グレーがかった金髪の髪はカールがとれかかっているが、細くてたっぷり。櫛を入れてとりあえず、ポニーテールに結った。ドイツのリシーちゃんはふっくらした青い目の女の子の眠り人形。

4月27日(土)

曇り

夕暮れを歩くやすけさ若葉時  正子
啄木鳥の鳴く声若葉の奥深く  正子
 郭公の声を砥部の家で一度聞いてそれから聞いていない。そのことを思えば
郭公の声と別れてそれっきり  正子

●これこそ捨ててよさそうなものがある。富士登山をしたとき、五合目で信之先生が買った赤いペンキを塗ったような団扇。本来は渋団扇なのだろうが、昨今のこと渋ではない。お世辞にも上手とは言えない「白い富士山」の絵に、黒く「富士山」と書いた団扇。端が傷んでいるが、筆立に立ててある。多分、今年も捨てない。下手な絵と字、やすっぽいペンキのような赤。このせいで捨てられない。
●『ファウスト』第二部を読んで、飽きたらレース編みをして、どこにも行かない。
夜、天袋の整理。信之先生の書や書の入った額が引っ越しの時のまま出て来た。しまいっぱなしの句美子のぬいぐるみや人形の洋服を洗濯。探していたクリスマス飾りが見つかる。

4月26日(金)

曇り、ときどき晴れ

新緑の大いなる木が鳥を抱き    正子
仰ぎ見て花アカシアは白き翳     正子
新緑の暮れて灯れるログハウス    正子

●今詠んでいる句に、夏の季語が混じってきた。アカシアの花は夏の季語。それなのに立夏の前に散ってしまいそうだ。新緑も若葉も夏の季語。

●『枯野』(伊藤強一著/俳句アトラス出版)を俳句アトラスより贈呈いただく。お礼の葉書きを林誠二さん宛てに出す。
永き日や遠く聞こえるかくれんぼ
節分や早く帰りて鬼の役
秋の蚊の残りの命賭けて来る
七十路の妻の陰翳白日傘
何となく斜めなりしや秋簾
ごしごしと敬老の日の眼鏡拭く
●図書館で借りた『アーサー王と聖杯の物語』は、読み終えて、すぐまた二度目を読み直すと言う始末。二度目を読み終えた。

4月25日(木)

晴れ

●広島で被爆した92歳の方が、いままで一度も語らなかった被爆体験を語り始めた。このごろのガザへの攻撃、ウクライナへの侵攻などあまりにひどい惨状に、突き動かされたからという。そんな気持ちにさせられるのは92歳のこの方だけではないだろう。平凡に暮らす私にも何か腰を浮かしそうになる日々だ。独裁者の忌まわしさを日々感じる。

●今日は7月の気温になる予報が出ている。早朝、5丁目の丘へ。崖っぷちの公園に着くと、雨の後の雲が晴れていくその下に青い山々が見え始めていた。その山の奥が南アルプス。雲が晴れる様子を見ていると、木を叩く音が聞こえる。欅の大木にアオゲラがいて幹を叩いている。下から見ると灰色の鳥に見える。きゅっ、きゅっと鳴く。飛び去った後を見ると幹に丸い穴があけられている。鵯より大きく見えて、くちばしの先が鋭くとがっている。新緑の公園は、つつじ、さつき、満天星(どうだん)つつじが満開で、しずかないい匂いがしている。

公園出てすぐの林を見ると、アカシアの白い花が咲いている。仰ぐと白い花房が垂れている。見逃してしまうところだった。

鴬も四十雀もオナガまでもが鳴く。先日四季の森で出会った植物や野鳥に詳しい人は、アオゲラの姿はなかなか見れないと言っていた。今朝は、アオゲラが飛び去り、また舞い戻るところ、木を叩くところ、枝に横向きに止まっているところなど、まるごと観察できた。外に出ると、いつもなにか新しいことが一つは見つかる。広葉樹の森は魅力でいっぱい。

いつも何気なく見ている垣根からいい匂いがするので、見るとおがたまの花。
「おがたま」は、あの小ささで学名にマグノリアが入っている。小さい花びらの質感はマグノリア。古い言葉で、「おがたま」は「小さい花」と言う意味らしい。広島や愛媛でおがたまの花は見たことがない。また、白れんはよく見たが、辛夷は見たことがなかった。こちらでは、辛夷はいたるところにあるが、白れんはほどんと見ない。ここは、北の国の印象で、淋しいではないか。