2月1日(土)

曇り

●今日は雪かと心配したが、雪は明日らしい。中学受験の日なので、昨夜からひとりで気を揉んだ。受験の日が悪天候だったら、それにどう対処するかが、合否にかかってくる。受験シーズンは急に天気が荒れたりする。それでも今日の天気なら、無事に受験できただろうと、これも一人得心している。
●花冠1月号の読後の感想を発行所ブログに書き込んでくれるよう、ネット短信で依頼した。お陰で、みなさんが、活発に書き込んでくれた。フィードバックがあるのは、嬉しいという気持ちの問題だけではなく、文章は読まれて完成すると言うものではなかろうか。

●3時ごろ横浜のジョイナスにボタンを買いに出かけた。創作意欲を掻き立てる手芸店があるというネット情報があったので、期待してでかけた。ネット情報なので、心配したが、案の定その店はなかった。売り場の地図で確かめたが、確かになかった。しかたなく高島屋の手芸店に行って貝ボタンを4個買った。その値段、18mmのも20mmのも、一個200円。本物の貝で作っているからこの値段なのだろう。昭和のシャツは当たり前に貝ボタンだったことからすれば、高い。貝ボタンは貝のパールのような光が気に入っている。貝ボタンよ永遠なれ。

1月31日(金)

晴れ
裸木となりし銀杏に芽が太り   正子
グランドへ飛び込む枯木の鵯は  正子
林檎煮て林檎の匂いの台所    正子

●大垣市の「奥の細道むすびの地記念館」の「共鳴」に「一章に心落ちゆく夜の秋 髙橋正子」(No.372 1月号)が掲載される。この句は自分では大切にしたい句なので、採用されて単純にうれしい。よく採ってくれたと感謝。

●中学の同級生から電話。花冠とお礼の手紙を送ったのが届いて電話をくれたのかと思いきや、そうではないとのこと。彼女も俳句を作っていたけれど、みんな10年選手なので、落ちこぼれて止めたとか、冗談交じりに話してくれた。みんな人生一通りの経験をしていることなどは話してくれた。

石州和紙を漉いている人にひとめぼれされ嫁いだ友達のことも聞いた。ご主人がブータンに紙漉きの指導に行き、帰国してから、国王夫妻から夫婦で招待されブータンに行ったとか。他にも病に病を重ねている友人とか、癌で10年も苦しんで亡くなった才媛の友人とかの話も出た。元気だろうとか、人生順調だろうとか思っていた友人がそうではなかったり、人生複雑。

そう思うと、私など少々薬は飲んでいるものの、普通に歩けて、普通に元気なのは稀かも。帰省中に会ったときは、「言葉は悪いけど、残った者勝ちよ。」と実感から言っていたが、実際そういえばそういうことになる。

●子供のケープがあと少しで出来上がる。少し解いてやり直したので、今日できる予定が明日になりそう。編んでみると糸だけの時より、かわいい感じになった。

 1月30日(木)

晴れ

●ずいぶん乾燥して室内で湿度20%、外は14%ぐらいらしい。加湿する必要があるのかどうか。湿度に気を遣う人もいないし。

●自由な投句箱が賑やかになった。この寒い時期が自我に集中するのには一番いい季節かも知れない。個人的には、寒中はすべてうるさくないので好きな季節。行事は春を待つための楽しそうなものだけ。主婦がこまごま働かなくていい。「下働き」という言葉があったが、最近はさっぱり聞かない。小さいころから下働きはよくした。これはみじめったらしい。下働きがなくなったのはいいことだ。

●3時半ごろセンター北のユザワヤやボタンを買いにいった。この時間帯、電車は下校の高校生で満員である。うっかりしていた。中学生は制服だけなのに、高校生はみんなコートを着ていて、この景色は新鮮。
ユザワヤでボタンを見るが、チャイルドボタンという袋入りボタンがたくさんあった。動物や花、車や星などいろいろあるが、はめにくそう。家にあるボタンを探すか、他の店に行くかしないといけない。ユザワヤの会員証を更新。更新すると、30%オフだというので、子どものケープを編む毛糸を3玉買った。ウォッシャブルの100%ウール。早速編むと糸の滑りが良い。ウールとも思えない。繊維も日進月歩している。

1月29日(水)

晴れ
ピアノソナタ一日聞きつつ毛糸編む  正子
大寒の空の真青に不足なし    正子
独り居に自由に気ままに冬ごもり 正子

●朝、冷え込んでいるので、ハニーレモンに少し葛粉を入れて、葛湯風にして飲んだ。これが温まる。今日の生協の配達でわけあり林檎が届く。蔕のところに1センチほどの切れ目がある。すぐ食べなくてはと思い。割ると蜜がいっぱい。お得感十分。

●郵便物色々出す。まず、句美子に「いには」2月号を転送。次に、中・高の同級生から同窓会の写真をもらったお礼の手紙と花冠を送った。最後に、喪中で新年の挨拶ができなかった人に寒中お見舞いの葉書と花冠1月号を送った。気になっていたことが、一気に片付いた。

●夜、ミントブルーの子供ベストが出来上がる。毛糸だけみると、ミントブルーは少し暗めだが、編みあがるといい色。色違いでもう一枚編むか、どうか。

1月28日(火)

晴れ
 1955年ごろ
夜狐の声に布団のいや重し 正子
 1990年二句
道に出で狸しらっと吾を見る  正子
梅林を雉が歩けりわが先を   正子

●ネット短信No.435とNo,436を出す。一日に二度送信することになった。今回は通信状況を確かめるために、返信必須にしている。返信がない人が5名。明日電話でメールが届いているか確認。

●「いには」2月号に角川俳句12月号から句美子の句の鑑賞文が掲載される。今日俳誌を送っていただいた。明日句美子に転送。

●有花さんから電話。新しい会員を紹介してくれるという。新会員の入会はほとんど期待していないが、いなくなることはないのが不思議。

●子供のベストをかぎ針で編む。小さいのですぐ編めそうだが、減らし目とか大人物と同じよう面倒で、虫眼鏡で編み図を見ながら編んだ。それでもポケットも付けて、閉じ合わせたので、明日は縁を編んで出来上がりになりそう。編み物をしている間、クラウディオ・アラウのモーツァルトのピアノソナタ全曲を聞いていた。モーツアルトのピアノソナタ全曲が一番集中できる。全然飽きない。今年になって全曲を10回以上聞いている。

●朝、仏様用にご飯は炊いたが、昨日焼き残したクレープを焼いて朝食。出汁をとった昆布がたまったので、佃煮風に炊いた。なかなかの一品に仕上がったので、夜のお菜に。出汁を取った後の昆布は冷凍庫に入れて溜まったら炊くことにしているが、あまりたまらない。普段は出汁パックを使っているので、昆布だしをたまにしか取っていない証拠。

1月27日(月)

曇り
水仙の葉の折れがちに倉裏に  正子
千両を活けし玄関開け広げ   正子
麦の芽と思うや矢車草芽生え  正子

●愛媛新聞に花冠1月号から以下の3名の句が載る。
蟋蟀の声のどこから列車待つ/高橋秀之
リツトウの響きの通り冬来る/川名ますみ
出迎えの薄羽きとんぼ市営団地/上島祥子

●花冠の書類の整理。頂いた句集が増え続ける。好きな句を選んで花冠に掲載している。人生の思いの詰まった句集には、句集名もその人らしさが出ていて面白い。

1月26日(日)

晴れ
かわせみのチチと父呼ぶ冬の山  正子
睡蓮を沈めて青き冬の水      正子
寒中の精進れんこんよく食べて   正子
●夕方、句美子の家へ。夕方はやはり寒中のこと、冷え込んでいる。焼き魚の注文に応えて「横須賀漁港」の鰆の切り身があったので、それを買った。厚みがあって生きがいい。焼いている時から鰆の匂いがする。振り塩は帰省の土産の尾道の天日粉砕塩。塊があるので、ぱらぱらと振る。塩だけでおいしそうだ。厚みがあるのでしっかり焼いた。好みはよ香ばしくよく焼いた魚。
●今一番疑問に思っているのが、俳句や詩や散文では、「多義性、曖昧性」が評価されている。現代社会が複雑だから多義的、曖昧になるのはやむを得ないという。その複雑さを解き明かすのが詩人や文学者の務めではないかと思うのがだ、どうなんだろう。実験的な作品に挑むのはそれはそれでいいとしてもだ。読者にたいする親切心が足りない一方で、読者の解釈が大いに許される。私は、恣意的な解釈にイラっとすることもあるが、その恣意的解釈ができるのが、その作品の大きさだと言う意見もある。本当?と聞き返したくなる。ちょっと手を抜いてないですか。もっと思索を深めて核心へ迫った方がいいのではと思うときの方が多い。

「多義性、曖昧性」は自分を隠しているように思える。たいていの場合は著名であれば、その多義性の意味が増大し、無名であればその多義性は否定される現象があるのが現実であろう。文学の不公平性がジャーリズムによって拡大されいるのではないかと思う。
芸術における「多義性、曖昧性」は一筋縄ではいかない問題らしい、と言うことを洗て目て認識した。「一筋縄ではいかない」とわかれば、私としてはすっきりするわけだ。

1月25日(土)

晴れ
かわせみを枝に止まらせ冬の水   正子
冬山に翡翠鳴けばあのあたり    正子
寒椿紅濃ゆければ夫を恋う     正子
万作やまだこれからの蕾なり    正子
●昼過ぎ、四季の森公園へ行った。目的は鴨を見るためだが、北口から入ると目の前にある蓮池の水はしずかで一羽の鴨もいない。しずかな水は寒中とは思えないほど明るい光を返していた。コサギが池の端に風に吹かれながら一羽いた。鴨は鶴見川でも見なかったし、ここにもいない。

蓮池のほとりの木道で公園の管理人さんに会ったので、「鴨は来ていますか。」と聞くと、「ええ、たくさん来ていますよ。」と言う。「何時ごろ?」と尋ねると、「私がきたのが朝の6時半だから、そのときはにぎやかでしたよ。」と言う。6時半はきつい。しかし、一番電車で来て、早朝の池の鴨を見たくなった。

そう言えば、このまえ鶴見川に行ったのも午後、今日も午後なのだ。この時間は鴨はどこかへ行っているのかもしれない。鶴見川の鴨は海へ行っていることも考えられる。ここの鴨はどこへ行くのだろう。信之先生と鴨を見に来たとき、お昼は駅の上のレストランで済ませることもあったから、午前中に来ていたのだろう。
カワセミが一羽、長く伸びた枝に止まっていた。池のすぐ傍の山でときどきカワセミの鳴く声が聞こえる

池のほとりの万作はようやく咲いたのが数花あったが、まだ蕾は固い。セツブンソウのある林縁の丘に目を凝らしたが影も形もなかった。がまずみの実があちこち熟れていて、すっかり枯れた公園では赤色が可愛らしく、目立っていた。

池を巡って葦原に行くと、葦原は景観のために数か所刈り残されているが、湿原が山からゆるやかな段差をつけながら下って広がっているのがわかる。葦のなかに鳥がいて影が動いていたが、一瞬姿を見せたのでアオジのように見えた。睡蓮池には水が青くたまっていて、睡蓮は水の中で睡眠中と思われ、池が二段になっているのがわかる。

畑には菜の花とヤグルマギクがびっしり芽生えていた。春が楽しみだ。そして、たいして風もないのに山の木が触れ合ってギーギーと鳴る。ぶらぶら歩いて公園を出た。3キロほど歩いているだろう。

1月24日(金)

晴れ
寒ぬくし桜若木のすくすくと    正子
午後の墓地供花にも石にも日脚伸ぶ 正子
寒ぬくし祈れば祈りきりもなし   正子

●墓参。午前中に行くつもりだったが、お昼を回った。今日はあたたかくて、いい天気なので出かけるのにはいい。お墓には珍しく誰もいなかった。線香をあげたり、お花を立て替えたりするのも慣れてきた。日脚が伸びて、墓域全体が明るく、きれいに見えた。枯れた供花は取りのぞかれて、パンジーやアリッサムなどを花壇のように植えた墓もいくつかある。お墓に貼られた芝生はまだ枯れたまま。桜の冬芽が太っていた。

帰り、駅前に小田急OXがあるのに気づいたので、入ってみた。お花も売られていた。生きがいいし、値段も手ごろ。次からは買って来なくてもここで買えばいいと思った。ようやくお墓のある鶴川の街の様子がわかってきた。

●お墓から帰ると5時を過ぎていた。夕飯は思いつかないので、冷凍の浅利飯にした。冷蔵庫から茹でキャベツやトマトと卵を取り出し、みそ汁を作って終わり。食後には、はれ姫。今日はなにもしない日にした。「自由な投句箱」の選とコメントは朝早く済ませたので、しなければいけない仕事はない。

●花冠1月号(No.372)に載せた「リルケと俳句と私」の私の文について感想をいただいた。文面から評価いただいたことはわかるが、それをどう受け止めてよいか悩んでいた。今夜、何もしないでいると分かることがあった。その評価の言葉は「絶大なやさしさ」から生まれたものなのではないか、と気づいた。これまで、私が感覚的に「やさしさ」を把握できるのは、人間の等身大のやさしさでしかなかったのだ。そうではなく、「神の」というものではなく、人にも「絶大なやさしさ」があるのだと気づいた。「絶大な」の代わりに「計り知れない」と言い換えてもいいかもしれない。

1月23日(木)

晴れ
子どもらの呼び合う大声日脚伸ぶ 正子
鴉らの水浴ぶ川に春隣    正子
?梅に川涸れがちに流れたり 正子
●本の整理。最後まで残す本をどれにするか。長く関心を持ってきたことを書いた本は、新しく買った本でも身に馴染んだ感じがするので手放さない。例えば、半年前に買った『ヒューマニズム』(渡辺一夫著)など。著者がどうであるかより、私が著者をどう思っているかをよく考え吟味した。結局は、洋服なら着古して身に馴染んだような服、本も同じ具合になった。

●日が長くなった。夕方の買い物から帰ってから、暖かくてまだ明るいので鯛ヶ崎まで散歩に行った。夕方歩くと脚がむくみにくいらしい。出かけてみると、5時はとうに過ぎているのに広場で子供たちが大勢遊んでいる。「さよなら」を言う子供もいるが、まだまだ遊んでいる子供が多い。日の入りも明日は5時を過ぎるそうだ。
●明日は信之先生の月命日なのでお墓へ。お花は、今日はスーパーで買ったので、菊ばかりの花束。白、黄色、ピンク。今日も暖かかったが、明日も大寒なのに暖かい天気らしい。きのう仏壇を引っ越して居間に置いたばかりなので、勝手になれない。明日は命日香を忘れないように焚かないと。今月は松になっている。