NEW9月2日(火)

晴れ
  ゆうまくん二句
秋の蚊のさしあと赤く児がねむる 正子
寝返りがあそびで暑き日が暮れる 正子
秋暑しラッシュアワーに乗合す  正子

●朝の日が少し斜めに差すようになって、秋めいてきた。角川の自選5句のについて、美知子さんからメール。「谷水を啄み鶺鴒水の上/美知子」の句について、好きな句なのだが、すこしもわっとした感覚が残るのはなぜか考えた。「啄み」が説明になっているのだ。「啄む鶺鴒」とすれば鶺鴒のイメージがはっきりする。そこなんだと気づいた。

●かなりリルケに頭が侵されている。夜中、イタリア語講座を見ていた。語学よりも文化的なものを伝えてくれるので面白いから見ていたのだが、講師の男性の一人が髭を生やしたリルケの似顔絵によく似ているのだ。

最近では、髭を蓄えた男性が目につくようになった気がする。私の父親も戦地で軍馬に乗り、髭を生やした姿で写真に収まっていた。これは第二次世界大戦中のこと。最近では、テレビの広告に「どうする?GOする」に出て来る髭の男性も魅力的だし、某企業の社長の髭は文豪の誰かのようだ。某社長は、たまごサンドが外国人に人気なので、これの世界展開を考えていると、一見ミニマムでありながらも世界規模の話を自然な日本語で話した。わたしはてっきり、彼を日本人と思い、「日本人の髭もジェントルマンらしくなった」と感想をもったのだ。ところが、字幕に出た彼の異国人らしい名前に思い込みが外れた。「日本人の」は、行き場を失った。

髭を生やした男性について。私は旧知のある方を若い時しか知らないでいる。ところが最近、ウェブサイトを検索中に、偶然にその方らしい写真をネット上で見て、思わず息を呑むほど驚いたのだった。本当にその方かどうか確認したかったが、二度とそのサイトが出てこなかった。その方の若い時のイメージからは、決して想像できない変化なのだ。その写真は現役時代の講演の時の写真らしかった。夜ねむりながら、その方のイメージを作り直していた。その口髭は、彼の地位を表し、彼の人生の成熟の現れなのか、彼はお洒落を楽しむ余裕があるのかなどを思い、口髭を蓄えたその方を静かに受け入れた。その方の若い時、わが家でみんなで食事した時の楽しそうな会話を思い出した。そうだ、その方にはそういう一面があったのだと思い直した。それは多分、その方の色気というものであろうと。時の流れをまとい、成熟と余裕が滲むような魅力とでも言おうか。

I seem to be quite possessed by Rilke lately.
Late at night, I was watching an Italian language program—not for the language itself, but because it conveyed something more cultural, which I found fascinating. One of the male instructors bore a striking resemblance to a bearded sketch of Rilke.
Recently, I’ve noticed more men with mustache catching my eye. My father, too, once rode a warhorse during World War II, and in the photograph from that time, he wore a mustache. These days, even the bearded man in the “Dō suru? GO suru” television commercial seems charming, and the CEO of a certain company sports a full hair reminiscent of a literary giant. That CEO spoke in fluent, natural Japanese about expanding the popularity of egg sandwiches among foreigners—a seemingly modest topic, yet he spoke of global ambitions. I assumed he was Japanese and thought, “Even Japanese beards have become gentlemanly.” But then his foreign-sounding name appeared in the subtitles, and my assumption collapsed. The phrase “Japanese beards” lost its place.
As for bearded men—I’ve only known a certain acquaintance from his youth. But recently, while browsing online, I stumbled upon a photo that seemed to be him. I gasped in surprise. I wanted to confirm it was truly him, but the site never appeared again. The transformation was unimaginable based on my memory of his younger self. The photo seemed to be from a lecture during his professional years. That night, as I drifted to sleep, I began reconstructing his image. I wondered: was that mustache a symbol of his status, a sign of his maturity, or simply an expression of his refined taste? Quietly, I accepted this bearded version of him.
I recalled the cheerful conversation we once shared over dinner at my home in his youth. Yes, he did have that side to him. Perhaps that was his allure—an elegance shaped by time, a charm steeped in maturity and ease.  (the translarion by me and copilot)

●俳句日記を8月1日にWordPressに移転してはじめてUSAからアクセスがあった。
Thank you for visiting and viewing my Haiku Journal. This is the first time someone from the USA has accessed it since I opened the journal on August 1st on WordPress.

9月1日(月)

晴れ
朝の餉に朝顔二輪を摘んで来し   正子
青葡萄供えて厨子のあかるかり   正子
パンと食ぶ葡萄の粒のつゆけくて  正子

●句美子の家へ。梅ジュースが出来たので持って行く用事、句美子の誕生日祝いの焼き菓子を持って行く用事、角川の俳句年鑑の原稿のことを連絡する用事。これらが主な用事なのだが、梅ジュースを持って行くのを忘れた。玄関のチャイムは鳴らさず入ることになっている。なかなか寝ない侑真くんがすぐに起きるから。今日も部屋に入るとぐっすりと気持ちよさそうに眠っている。しばらく見ていると目をこすって欠伸をしてうん?というような顔をして目を覚ました。私の顔を見ている。誰だろうかと思っているふうだが、顔を左右にふったりすると、声を出して笑ってついに完全に目を覚ましてしまった。20分しか寝ていないそうだ。なかなか楽しい子なのだが、遊び飽きると抱っこしてもらいたいらしく、悲しそうな顔をしてぐずる。抱くとすぐにこにこ。現金なというか自由なというか。

6時頃、句美子が暗くなるといけないから帰っていいというので、従う。この時間帯は通勤ラッシュ。新横浜行がきたが満員なので、後の電車に乗ることにした。5分ほどして日吉行が来たが、前の電車より混んでいる。もういいわ、とこれに乗ると徐々に降りる人が増えて座れるまでになった。日吉に着いた時は老女はさすがに疲れた。

●夜は、「リルケの俳句世界」(柴田依子著)の論文を読み直す。可なり読み込んだと思ったが、その時必要のないところを忘れていた。そして「ヴァレの四行詩」18番から数篇書き写す。

8月29日(金)

晴れ
空色の朝顔氷水に挿す 正子

●今朝は涼しい風が吹いていたので、窓を開けて風を入れた。朝顔の色が今日は空色で咲いた。「青雲」という名前の朝顔を植えたが、これは青色だが、毎日青の色が違っている。「違っている」のではあるが、それは「違って現れる」と言ったほうがいい。

●「以下に示すのは、リルケ晩年の風景詩に対して、俳句による「詩返」を試みる一考察である。詩返とは、詩に詩で応える営みであり、単なる翻案ではなく、詩的精神の対話である。ここでは、熊谷秀哉氏およびベダ・アレマンの研究を踏まえ、俳句による応答の可能性を探る。」

「リルケの最後期の風景詩」について
リルケは『ドゥイノの哀歌(悲歌)』、『オルフォイスへのソネット』という彼の二大詩篇を書いたあとに、1924から1926年に「最後期の作品」を書いている。フランス語で書かれた『果樹園付ヴァレの四行詩』も、最後期の詩群に挙げられる。これらのたくさんの詩群を大作を書いた後の余技的なものと見るか、最後期の一群の詩作品として位置付けるかの二つの考えがある。この最後期の作品についてはようやく研究が進みつつある状況にあるようだ。俳人の立場にいる私は、余技ではなく、詩群としての位置を与えた立場に立ちたいと思う。これは私情による評価ではなく、詩的本質に基づく判断である。

さて、『果樹園付ヴァレの四行詩』が「風景詩」と呼べるのかの疑問があるが、岐阜聖徳学園大学の紀要に「最後期のリルケにおける風景詩について」(熊谷秀哉著)が載っていた。この論文から、『果樹園付ヴァレの四行詩』は風景詩であることが確かめられる。この論文からリルケの風景詩についての部分を要約すると以下のようになる。。

リルケ晩年の作品には「魔術的言語」の詩群と、平明で軽快な詩行を特徴とする風景詩群に分けられていて、『果樹園付ヴァレの四行詩』は、後者の風景詩群に分類される。これは、一見穏やかで親しみやすい印象を与えるが、実は深い抽象性を内包してる。 風景の描写は、単なる視覚的再現ではなく、精神的な「乗りだし」—つまり、既存の安定した状態から新たな存在の地平へと踏み出す姿勢—を象徴しています。これはリルケの人生観や詩作の根幹にも関わる概念である。

つまり、リルケの風景詩は、単なる自然描写を超えて、彼の精神的探求や存在論的な問いを映し出す鏡のようなもので、晩年の作品群には、スイス・ヴァレー地方の山間の風景に触発された詩が多く含まれ、そこには静謐さと抽象性が共存している。

この立場に立って「ヴァレの四行詩」に取り組むことになる。私は「ヴァレの四行詩」に自分で造った「詩返」という言葉を使って俳句で応えようとしている。俳句で応えるとき重要な心構えとして、熊谷秀哉氏が指摘しているリルケの風景詩の重要な部分が関係してくる。再度引用すると、「一見穏やかで親しみやすい印象を与えるが、実は深い抽象性を内包してる。 風景の描写は、単なる視覚的再現ではなく、精神的な「乗りだし」—つまり、既存の安定した状態から新たな存在の地平へと踏み出す姿勢—を象徴しています。これはリルケの人生観や詩作の根幹にも関わる概念である。」
この文章にある「抽象性」は、俳句の季語のもつ「象徴性」で解決をできる限り図る。季語が明確に使えない場合は、季感(季節感)で埋め合わす。「乗りだし」については、これは俳句を作る態度として内面・内部への精神の集中と新境地への展開や飛躍を考慮にいれて出来る限り解決を図る。

またリルケの詩に対して「詩返」という俳句の短詩形式で応えてよいかという重要な問題がある。そのことについては、同じ論文にアレマンの「時間と形象」についての考察があった。

ここでアレマンの「時間と形象」についてのべると次のようである。

アレマンの「時間と形象」
「Zeit und Figur beim späten Rilke(晩年のリルケにおける時間と形象)」は、スイスの文学研究者ベダ・アレマン(Beda Allemann)が1961年に発表した重要な詩学研究であり、このタイトルは、リルケの晩年の詩作品において「時間(Zeit)」と「形象/人物(Figur)」がどのように詩的に構築され、意味づけられているかを探るものである。

「Zeit(時間)」の意味
リルケの晩年詩には、時間が単なる連続や過去・未来の流れではなく、心の深層に垂直に立つものとして描かれる。たとえば彼は「消えゆく心の方向に垂直に立つ時間(Zeit, die senkrecht steht auf der Richtung vergehender Herzen)」と表現し、時間を存在の深みと関係する詩的・哲学的な次元として捉えている。

「Figur(形象/人物)」の意味
「Figur」は単なる登場人物ではなく、詩の中で時間や空間と交錯する象徴的な存在です。リルケの詩では、人物や物体が「動き」や「曲線」として描かれ、それが詩人の内面と外界の関係を象徴するのである。たとえば、鷹の飛翔やボールの放物線などが「Figur」として詩的空間を構成する。

この研究の意義
アレマンの研究は、それまで空間(Raum)に偏っていたリルケ研究に対し、時間という詩的構造の重要性を強調した画期的なものです。彼は、晩年のリルケが「世界内面空間(Weltinnenraum)」を詩的に構築する中で、時間と形象がいかに深く絡み合っているかを明らかにしたことにある。

では、このアレマンのリルケ研究が俳句とどう関係しているかを考察すると以下のようになる。

「見る人」としての共鳴
アレマンはリルケの詩における「時間」を、単なる流れではなく、存在の深層に沈み込む凝縮された時間として捉えた。これは、俳句において「観照」や「呼吸」(詩は呼吸であるーー正子)を重視し、事物が内面に沈み込む過程に共鳴がある。

また、リルケが「見ること」を「集我(しゅうが)」——つまり、対象が自己の内部に沈み込む精神的営みと捉えたように、俳句において、「観照」は、主観を交えずに冷静に見つめ、内的洞察を深めるという詩的姿勢の重要性をもっている。

「時間」と「形象」の詩学
アレマンは、晩年のリルケが詩の中で「時間」と「形象(Figur)」を交錯させ、詩的空間を構築する方法を明らかにしたが、俳句もまた、自然や事物の一瞬を切り取りながら、その背後にある根源的な時間や存在の気配を捉えようとする。たとえば、臥風先生の句「若葉蔭砂うごかして水湧ける」は、時間の凝縮と形象の動きが一体となった詩的瞬間であり、アレマンが論じたリルケの詩的構造にも通じるものだ。

以上のような理由からリルケの風景詩に「詩返」としての俳句で応えることは、俳句の一在り方として許容されるものと思える。

 

 

 

8月27日(水)

晴れ
街中にほてい葵を咲かせたり 正子

●朝顔が、二十ほど咲いている。咲き始めたときは濃い青だったが、今は薄い青色。栄養が足りないのかもしれないが、微妙な青で青い雲の印象。伸びに伸びた蔓に困っているが、花はその蔓に咲いている。

出汁を取った後の昆布を冷凍しているのが溜まったので、二センチ角に切って、佃煮風に炊いた。今日も危険な暑さで熱中症アラート。料理していたとき、ふらっとしたので十分注意。「こんなはずはない」と思う一方、まさかの、年寄りの脱水状態かも知れないと思った。

●今読んでいる「ヴァレの四行詩」を「風景詩」と呼んでいいのかどうか悩んでいる。ネットを探し、「最後期のリルケにおける風景詩について」(熊沢秀哉著・岐阜淑徳大学の紀要)があったのでダウンロードして印刷。最後期がどの詩にあたるのか、論文を読んでみないと分からない。自分でそうだと思っても学者が言ってくれないと、「風景詩」という一言が使えない。

『リルケ詩集』(富士川英郎訳/新潮社)にリルケの「風景詩」の説明が載っているか探した。詩集には「ヴァリスのスケッチ七篇」があった。「ヴァリス」は「ヴァレ」のドイツ語の言い方。この七篇が「ヴァレの四行詩」が「ヴァレの四行詩」あるか確かめたが、なかった。では、土の詩集にあるのか。これを調べなくてはいけない。『果樹園』なのかもしれない。

●それにしても気になるのが、WPのコメント欄に書き込めない人がいること。なぜ書き込めないのか、エラーの出るケースを注意書きとして書いているのに、なぜかだ。
パソコンが本格的に家庭に浸透しはじめたのは1995年。そのころ、通産省の外郭団体からシニア情報アドバイザーの資格をもらっていた信之先生と私は、パソコンの電源の切り方をシニアに教えるのに苦労した。ほかにも、マウスを自然な手の形でにぎれない。キーボードがスムーズに打てないなどは例外としてあったが。一般の電気製品を使う感覚でスイッチをいきなり切ってしまう。

今回のWPの場合、何のためにエラーが出ているのか、その意味の理解がない。専門用語、英語が使われるので、直観的に理解しにくい。あるいはユーザー側の問題をこちらでくまなく把握するまでの技術的知識が私にない。例えば、Cookieの設定、JavaScriptの有効化、ログイン状態などが関係しているなどがあげられるが、これを本人に伝えてもそれがわからない。けれど、当の本人は泰然として、いままでパソコンを使ってきたのだら、出来ないはずはない。こちらの設定の不備を言ってくる。ウィンドウズ開始世代の何割かは、技術のバージョンアップについていけなくなっている。日常使うパソコンが、専門用語と英語だけで語られる不便さ。パソコンが一般に開放された時、慶応大学のSFCの教授は学生だった息子に「6歳から90歳までが使えるものでなくてはならない」と強く言っていたそうだ。そうであって欲しいがその理念はどこへ行った。

8月26日(火)

晴れ
松手入れ枝の切り口きりりとし     正子
朝顔のうす青ばかり雲に似て      正子
プランターに旱というものありにけり  正子

●夕方、今日は5時過ぎに外を見ると陰ってきたので散歩に出た。風が吹いて、昼間の暑さは和らいでいた。近所を歩いて、新しくできたスーパーに入ってみた。少しずつ歩く距離を伸ばそうと思う。昨日1キロ。今日、1.2キロ3000歩ほど歩いた。

●角川年鑑2026年版への原稿依頼が来る。まだ届いていないものもあるので、少し様子を見る。夕方郵便受けを覗いたが、届いていなかった。
事務手続きの問題か、郵便事情なのか、このどちらかなのだが、この区別がつきにくいのがこの頃の事情。

●美知子さんから電話。角川俳句年鑑の事など。それと、先日出した、もういつか忘れたが、郵便の届いたお礼。『マルテの手記』の第53フラグメントにあった、組み紐の栞のこと。それに似たものを郵便に入れて置いたら、きれいだと喜んでいた。祥子さんの郵便にも入れたが祥子さんも喜んでいた。三つ編みの糸にすぎなくて、屑箱直行となっていいものなので、人にあげるにはどうかと思っていたのも。色合いがきれいというだけのもの。

8月25日(月)

晴れ
トラックの疾駆す青萱吹き上げて 正子

●夕方6時過ぎ、URの中を散歩した。暑すぎて2か月半ぐらい散歩に出ていなかったが、陽が落ちてから風が吹いているようなので出かけた。歩くと涼しい風が吹いている。今日の気温はかなり高かったが、夕方の風のすずしさには救われる。1キロほど歩いた。

●リルケを読むとき、いつも頭にちらつくのだ。緻密な、私を畏れさせるリルケ研究があることが。いつも不安な思いで読んでいる。どれひとつ安心して読めない。そうしたなかで、ここに記すのは、読んだことを覚書として書いておくだけのことの文章なのである。今日は『果樹園付ヴァレの四行詩』について書く。

リルケの最後期にフランス語で書かれた『果樹園』という短い詩の詩集がある。『果樹園』の詩は墨絵のような詩だと言われている。「墨絵のような詩」に魅かれて読んでみたくなった。「墨絵のようなとは?」の好奇心からである。フランス語の原詩も見てみたいが、『果樹園』の出版のいきさつから(リルケの亡くなった翌年の1927年、フランスで出版され、のちドイツのインゼル書店からリルケ作品集の補遺として出版された)、日本の一俳人にすぎない私がフランスやドイツのネット書店から原詩を手に入れるのは億劫なことである。日本語訳をネットで探して『果樹園付ヴァレの四行詩』(片山敏彦訳・人文書院/1957年刊)の古書を見つけた。堀口大學訳の文庫本も古書もあったが、片山敏彦訳を選んだ。早速注文し、三日後に届いた。「ヴァレの四行詩」の存在を、この『果樹園付ヴァレの四行詩』を手にして初めて知ったのだ。届いた本は、表紙の真ん中に「RMR、」だけ書いてある。おそらくリルケのサインをどこからか、持ってきたのだろう。筆記体の真面目な字で、RMRの終わりに「、」が打ってある。『果樹園』の詩はネット上で2篇読んでいたので、『果樹園』から読むつもりだった。ところが「ヴァレの四行詩」は俳句を意識して作ったと言われていることを知り、緻密なリルケ研究のある事を忘れて、この詩集から読み始めた。一つの詩は、四行を1連として、2連~3連からなっている。こういった詩が、36篇ある。

訳書は1957年の初版本なので、経年劣化はやむを得ず、数日読んでいるうちにページが一枚抜けた。もとに嵌めようとするが、もとにはもどらない。これ以上ページを落としたくないので、繰り返し読むために、別の紙に書き写すことにした。必要な時、必要な詩を2,3篇ずつ書き写している。さしあたっては、A5のブルーの横罫の便箋を縦書きに使って。書き写していると、翻訳者になって一語一語言葉を生んでいる感覚になった。こうして書いたんだろうな、と訳者の机上が思い浮かんだ。

「ヴァレの四行詩」は、スイス、ヴァレ地方の風景、鐘の音や水の音、塔や山々を、リルケは、ヴァレへの挨拶のように詠んでいると私には思えた。日本の俳句も挨拶の要素をもっていて、四行詩を読んだときに、俳人である私はそれに応える俳句を自然に作っていた。この俳句は普段私が作っている俳句といくぶん違った風にできた。西洋の詩と日本の俳句との二つの間にあるものではないかと思えた。四行詩に触発されてできた俳句は、季語があるものも、季語はないが季節感があるものもある。定型であるものも、字余りや破調の句もある。出来た俳句は緻密なリルケ研究から見れば、全く的をはずれたものかもしれない。だが、リルケの詩にふれて、詩として俳句を詠んだことは確かだ。これはリルケを詳しく知らない私が、それでもリルケの詩に触れるのに、いい方法となった。

そうしてできた俳句のことをいつも「リルケの詩にふれて、その俳句」というのは、長すぎる。それを呼ぶ、適当な言葉がない。私はこれに「詩返」(しへん)という言葉を造った。この俳句は、リルケの詩の解釈でも、詩への共鳴を詠んだものでもない。「詩返」を定義づけるとすれば、次のようになる。<「詩返」とは、詩に触れた感興から生まれた俳句であり、単なる解釈や 共鳴ではなく、詩との倫理的・詩的対話を志向する応答のかたちである。>

「詩返」という名前まで付けたのにはもう一つ理由がある。花冠7月号(No.373)を送ったお礼の返事をいただいている。この号には、「髙橋正子の俳句日記」に、リルケの初期の詩からインスピレーションを得て俳句を作った経緯を記した箇所がある。ここについて、N先生から、「興味深い」との葉書をいただいた。N先生には信之先生の「水煙」時代からずっと「花冠」を送らせていただいている。この度も、お忙しいにもかかわらず、私が書いたものを、丁寧に読んでくださっての返事だった。

先生からの「印象的」「興味深い」という返信の言葉は、私への最大限のほめ言葉であり、励ましであると思っている。私はこの言葉を「花冠」をお送りした返事の中で、何度か拝読している。同じ言葉であるが、その指す内容はその度に違っている。今回の7月号の返信にもこの言葉を拝読した。そして、「興味深い」という言葉に、今回は特に「何らかの意味がある」と感じた。先生の言葉は平明ながら含意が深く、返信を読んだあとに「読み落としていることがあるのでは」とふと思ったり、時には、一度しまった葉書きを確認のために読み返すこともある。

今回、私が返信に感じた「何らかの意味」は、すぐには思いつかなかった。「いったい何なのだろうか」と考えていた。そして思い至ったのが、それは先生の意図ではなく、私の単なる取りようなのだが、 私が名づけた「詩返」を、詩論として、また俳人としての倫理のかたちとして、きちんと位置づけるべきではないか——そんな思いに至ったのだ。

「詩返」は、どんな形態で、効果的に公表するかが難しい。原詩や訳文の提示が不可欠であり、著作権の壁は避けて通れない。引用の範囲や方法を慎重に見極めなければ、詩への敬意を損なうことにもなりかねない。こういう問題を孕んでいる。この理由で「詩返」は一度はあきらめた。しかし、先生の言葉に、私は俳人としての倫理的な応答の可能性を見出し、『詩返』を詩論として位置づけることに、もう少し頑張ってみることにした。この「詩返」の考えには多くの議論がある事は容易に想像できるが、あえて現代の俳句の一在り方として示したい。この一在り方は私にとっては楽しい在り方なのだ。「詩返」は、「届かないものへ」それでも「魂を届けようとする」詩人の試みなのだ。それはとりもなおさず、私の詩の源泉なのだ。

このように、詩返とは、詩的精神の応答である。では、リルケの晩年の風景詩に対して、俳句による詩返は可能なのか。以下に、その試みを記すことにする。
(2025年8月25日)→(8月29日へ続く)

8月24日(日)

晴れ

●「ヴァレの四行詩」(リルケ作・片山敏彦訳)にふれ、俳句的共鳴として俳句を作った。それぞれの詩の引用は第1行目だけを引用した。第1行目だけへの共鳴という意味ではなく、訳詩にまだ著作権があるための制約からである。「ヴァレの四行詩」はリルケが俳句を意識して作ったといわれる。四行詩(Quatrain)だが、四行だけではなく、四行を一連として2連~3連の詩となっている。俳句の本質から言えば、4行で収めてほしいところだが、西洋詩の構造からいうと、すくなくとも2連は欲しいのだと思う。俳句の前の番号は詩番号で、題名はない。

(一)   小さな滝つ瀬
滝つ瀬の奔りて己が水まとい  正子
  リルケ作・「ヴァレ四行詩」(片山敏彦訳)第1行目
水の精(ニンフ)よ 裸身にさせるそのものを

(二)
初夏(はつなつ)の空へ空へと地や教会    正子
  リルケ作・「ヴァレ四行詩」(片山敏彦訳)第1行目
山の路の中ほどに 地と空とのあいだに

(三)
夕翳のワインやきららに葡萄園       正子
 リルケ作・「ヴァレ四行詩」(片山敏彦訳)第1行目
光の薔薇、それは今 こまかく砕ける一つの壁 ―

(四)
塔々に影さし光の葡萄園         正子
  リルケ作・「ヴァレ四行詩」(片山敏彦訳)第1行目
昔ながらの国 いくつも塔はやはり立っている

(五)
ポプラ立ち山羊いる路の遠く行く     正子
  リルケ作・「ヴァレ四行詩」(片山敏彦訳)第1行目
常春樹(きづた)に添うてつづくやわかな弧線(カーブ)

●WPのブログのコメント欄に書き込めない人のために、21スタイルの掲示板を使うことにして、昨日夜開設した。これは元俳句添削教室としてつかっていたもの。万一のときのために、費用は掛かるが残しておいた。災害などがあった場合、一つだけにしておくのは危険。オール電化の家で、停電した時のことを考えればわかる。どこか電気を使わなくても稼働するものをのこしておかないと。

 

 

 

 

8月23日(土)処暑

曇りのち晴れ
受難曲ずっとつづけり処暑の午後 正子
処暑の陽が百日草の葉に影を   正子
朝顔の連なり咲けり蔓が伸び   正子

●マタイ受難曲(リヒター指揮)を「オペラ対訳プロジェクトの日本語訳」で聞いた。字幕を見ながら聞くと、ドイツ語がここまでにというほどはっきりしている。3時間20分ほどの全曲を聞いたが、たいくつなとこもあったが、イエスの死体を埋めるあたりから終わりにかけては聞きやすかった。想像以上によかったので、最後のほうだけ、今度はコンセルトヘボウでヨッフムのを聞いた。ふっと思い出したが、いつも夏のおわりごろ、「マタイ受難曲」全曲を聞こうとしていた。途中で止めたりもしたが。なぜだろう。今年は、いいと思えた。

●片山敏彦訳でリルケの『果樹園付ヴァレの四行詩』を読んでいて、これにインスピリエーションをうけて俳句を四句作っている。我ながら上出来だと思う。もし、これを花冠にのせるのに、訳文が必要だとしたら、著作権を考えないといけない。リルケ自身の著作は死後100年になるので、大丈夫だ。自由に使っていいのだ。遅れてからリルケを読む感じでいたが、著作権の事を考えれば、今がちょうどいいのだと思った。

それからすると、リルケのドイツ語の原文を使うのが一番安心なのだ。ここで計画を変えなければいけない。そもそもフランス語の原詩が手に入らないから、訳詩ですまそうとしたのがいけなかった。訳詩に惚れ過ぎていたことでもある。これでまた信之先生が遺したルケ作品集にもどってやり直すことにした。それが別に俳句に関係なくてもいい。俳句にこだわるのはよくない。そもそもリルケの本質がなにかしらをひらめかしてくれればいいのだ。それには、少し読みかけている初期の詩がいいだろう。片山敏彦の翻訳詩と自分の作った俳句の兼ね合いに、難しさを感じてていたが、そこだったのかと思った。フランス語の詩は訳文で読むだけにしておくのが安全だ。古書の初版本で手に入ったものだから喜び過ぎた結果だ。

●リルケの詩は手元に日本語訳の詩がなかったので、最初原文で読んだ。そのあと文庫の訳文で読んだ。そういう出会いだったせいかもしれないが、最初から訳文を通してリルケに触れることに難しさを感じている。ドイツ語のリルケは極端に難しいとは感じないのに、日本語のリルケの方がが難しいと感じる。遠ざけられた感覚だ。原文のほうが近い。ドイツをよく知らなくて難しいはずなのに近い。リルケはそんなに格好をつけていないあたたかいし、おもしろい人だ。

8月22日(金)

晴れ
●リルケの『ヴァレの四行詩』から今日までに4句作った。内訳はこの前2句と今日作った2句。今は納得している。来年の1月号に載せたいので、原稿を作りはじめた。翻訳詩を引用しなければ、意味が半分になるので、著作権の問題を考慮して、訳詩を2,3行を出展を明らかにして引用するのがベストと結論付けた。翻訳詩の引用部分を決めるのが大変難しい。この引用で詩と俳句が生きるか死ぬかになってくる。上手く引用できれば、お互いが引き立て合うことになる。

自分が現在進行形中でやっていることは、実はよくわからない。だれかの暗示や、指摘で自分が何をしているのか気づくことがある。7月号、373号の正子の俳句日記にリルケの詩にふれての俳句の、その出来た経緯っを載せた。その箇所をN先生が興味深いと言ってお葉書をくださった。ただ「興味深い」とだけあるので、「なにが興味深い」のか分析したのだ。そして、日記を漏らさず読んでくださっていることは職業柄かも知れないが、それにしても感謝だが、やっぱりN先生は鋭いと感じたのだ。もちろんN先生はだれからみても偉いかたなのだけれど。私がリルケの詩にふれて作った句に興味とともにある意味を感じ取っておられるようなのだ。そのことを実行に移して見ようと今日決心したのだ。そして原稿を書き始めたわけである。

●暑いのシャワーを浴びようとしたとき、汗を流すなら、汗をかいてからのほうがいいとなって、フローリングの拭き掃除。雑巾は汚れたが、水洗いですぐ落ちる汚れですぐに終わった。汗をかくほどではなかった。拭き掃除のあとシャワー。

 

8月21日(木)

晴れ

●自由な投句箱のコメント欄に投稿できない方が3名いて、これががまだ解決していない。ウェブデザイナーの之宏さんにメールし、事情を知らる。IDを発行するなど対策はあるが、それでは済まない問題がある。5日ほど様子を見て最終的に判断すると、伝えた。高齢者だからという簡単な問題ではなく、個人のITリテラシーの問題と思える。常に自己更新をする必要がある。ひとごとではない。昔、パソコンは伝承だとということを聞いた。技術が上の人のするを見て、見様見真似で習うということ。これは今回私も実感している。

●きのう洋子さんに新しいブログのコメント欄の使い勝手について聞いた。話が対長くなって、おおいにハッパを掛けられた。俳句だけでなく、もっと好きに書けということのようだ。もう十分みんなの世話をしたので、自由にしていいと思うというのだ。なかなか優しいと言うか、厳しいというかよく見てくれている。「戦いすんで日が暮れて」ということもある。ふうんとため息がでる。

●リルケのことは、リルケがあまりに偉大すぎるので、ここで降りるかと思うこのごろだったが、そうはいかない感じだ。リルケの事を書いた私の文章は、言葉はむずかしくないけど、言っていることが難しい、だけど、書いて、と。今日は『ヴァレの四行事』から5から7までを書いた。書いているうちに俳句が浮かぶだろうと思ったが、イメージをつかむのがむずかしかった。ヴァレの四行詩は自然を詠んでいて、馴染みやすく、気軽に読んでいた。そう難しくはないだろうと思っていたが、なんといよいよ後期も後期のこの詩は「世界内部空間」の概念の上に書かれたとかいう長崎大学の濱崎一敏先生の論文が見つかったのだ。びびってしまった。頂いた美味しい梨でも食べて気持ちを持ち直すことにした。祥子さんもカードのお礼に入れた私の編んだ糸紐の栞を一つ一つよく見てくれているし。糸くずの小さいものだが、小さいものの方が慰めになる。

●今日一番の値打ちは、『ヴァレの四行詩』を読んで作った俳句に「詩返」という語を作った。「返歌」「返句」にあたるようなものだが、それより現代的でやわらかいと思う。この創作語を今後使うことにした。造語と言いたくはない。これまで誰も使っていない言葉をこれから使う。