曇り
杉木立つくつくほうしの声ひびき 正子
葛の蔓地にのび今宵の月を待つ 正子
冷えびえと風よく吹いて無月なり 正子
●曇り空で名月は見られなかった。ちょうど真夜中、中天に昇った月が雲の隙間から一瞬見えた。夕方からは風がよく吹き、うすら寒さを覚える。
●日吉駅まで歩いて金蔵寺の横から山路を越えいった。左の腰が固くなって違和感があるので、歩けるか心配だったが、歩いているうちに違和感がとれた。杉の多いところでは、つくつく法師がまだ鳴いている。山がかりのところに、無患子の実生が育ち、葛が、葉のない蔓をコードのように地面に伸ばし、一番先に若い芽が出ている。初め何の蔓かと思ったら、葛で小さい花が2つついていた。
●ブックカバーを句美子の小学生のときの残り布で縫った。これで3枚縫ったことになる。今日縫ったのは、『リルケ詩集』用。『マルテの手記』には、モリスのいちご泥棒の絵柄。詩集、マルテには、水をこぼして、本の紙が伸びてうねっている。そのためにカバーを縫った。あと一枚は文庫本用フリーサイズ。
●『源氏物語』若紫を読む。物語の筋もだが、風景描写を丁寧に見る。
●『詩を読む人のために』(三好達治著/岩波文庫)「千曲川旅情の歌」についての文章で、
<要するにこの詩一篇は、通じていって、――すべての芸術がそれに向かって憧れるといわれる、「音楽の状態」に最も近いものであります。文芸作品としては、もっともそれに近いものの一つといって過言ではありますまい。>が注目できる。
これは誰の言葉かというと、19世紀イギリスの美術批評家・文芸評論家 ウォルター・ペイター(Walter Pater) によるものだ。
「すべての芸術は音楽の状態に憧れる(All art constantly aspires towards the condition of music)」は、。彼の代表的な評論集『ルネッサンス』(The Renaissance: Studies in Art and Poetry, 1873年)に登場する。
ペイターは、音楽が他の芸術よりも抽象度が高く、感情に直接訴える力を持つことから、絵画や文学などの芸術がその「状態」に憧れると述べた。つまり、芸術が言葉や形を超えて、純粋な感覚や感情の領域に達しようとする理想を「音楽の状態」として表現したのだ。
この思想は後の象徴主義や印象主義の芸術家たちにも影響を与え、音楽的な構造や感覚を他の芸術に取り入れようとする試みに繋がった。
これを、俳句に置き換えると、どんなことになるか。俳句は意味をもたなく、言葉により五七五とされに細かい音律で感情に訴える。季語は読者と作者の共通基盤として必要思う。
俳句の音律と感情
五七五という定型は、意味を運ぶ器ではなく、感情の波を整える枠。意味を削ぎ落とし、音の配置によって感情を響かせる。
曇り
どんぐりはもう拾わない木の実ふる 正子
青蜜柑暑さいまだに残りたり 正子
さつまいも値札貼られて貴重なり 正子
●今朝、2時半に目覚め、ブックカバー文庫本サイズ1を枚縫う。句美子のホビーラのデージー柄の残り布なので、若い子向き。欲しい人がいるかも。それに丸いキャンディー袋も縫う。これも若い子向き。昼前、ユザワヤでモリスの端切れとファスナー、裏地を買った。アネモネとハニーサックルの柄。
●『源氏物語』の帚木巻の光源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞の四人の雨の夜の品定め。今読んでみれば、なかなか的を得て鋭い。
●このごろ、よく聞く。「方向性が違うので」。この言葉を使うと、議論できない。多様性が重要視されるからだろうけれど、「方向」が違うものにはさわらないし、何も言わない。こういう態度をとる人を、立派と言っている。これは困ったことではないのだろうか。
曇り、小雨がばらつく
木の葉髪気づけばいつも身に添える 正子
秋山の黒ぐろ暮れて太鼓の音 正子
すすきの穂はらりと開きみずみずし 正子
●3時に目覚め、自由な投句箱。昨日の分の選と秀句を選ぶ。その後、5丁目の丘へ散歩にでかけた。
●周囲では、『源氏物語』を読むのが流行っている。「夕霧巻」の景色をたしかめるために、文庫本の『源氏物語 若い人への古典案内』(秋山虔著/社会思想社)を開いた。そのなりゆきで、今日は『源氏物語』の桐壺・帚木・夕顔を読んだ。残念なことに字が小さくて裸眼では読めなくなっている。この間までは読めていたと思うが。木の葉髪とやらは落ちて来るし。
●『小西昭夫句集』(ふらんす堂/2025年10月刊)
花綵列島5句
わが影の棒立ち秋の日を負ひて
硝子一枚隔て激しき雪となる
満月や音なく匂ひなき空に
落ちてくる雪に思はぬ速さあり
父といて焚火に枝をつぎ足しぬ
ペリカンと駱駝1句
間引き菜の色鮮やかに捨てられる
小西昭夫句集6句
こんなにも青田があって鉄工所
逆さまに吊すにわとり雪の山
大雪や最後にひろう喉仏
浮力あるごとし桜の小学校
雪だるま星の時間を生きるべし
初雪の積みそうもなし給料日
小西昭夫句集以後8句
鶏頭のとなりに石を置きにけり
上流の水も下流の水も澄む
落鮎に落ちゆく流れありにけり
頂上に野菊の咲けり握り飯
冬の薔薇母よお疲れ様でした
かく群れてかく静かなり赤とんぼ
鳥獣の気配が少し冬の山
春の野に座るのによき石二つ
お礼状を出す。
●日本の総理大臣に初めて女性がなる。かなり右。土井たか子氏の時にチャンスがったのに、あれから何年経ったのか。遅すぎた。
晴れ
吾亦紅・菊・鶏頭を束ね売り 正子
パソコンを使ういかにも夜なべめき 正子
青蜜柑うんどう会のころ思う 正子
●「若竹」の会員のK氏に拙句鑑賞のお礼の葉書きを出す。
●「バガテル」25章(終章)まで書き終える。約5万字、400詰めで125枚。ひょっとしたら、50から70枚ぐらいがいいと考える。
●「現代俳句」10月号(No.722)に草田男とデューラーの関係について美術史家の元木幸一氏の評論がある。デューラーは文人によく取り扱われる。その名前も文学に似つかわしい感じがする。デューラーの何がよくて、なのだろうか。以下AIの分析。
文人にとってのデューラーの魅力
• 線の精神性
デューラーの銅版画や木版画には、線の緊張と沈黙が宿っています。これは俳句の「切れ」や「間」に通じるもの。草田男の句にも、言葉の奥に沈黙があるように、デューラーの線には語られぬものが潜んでいます。
• 象徴と寓意の深さ
『メランコリアI』や『騎士と死と悪魔』など、デューラーの作品は象徴に満ちています。文人はその象徴を読み解き、詩的な解釈を重ねることができる。草田男の句における自然や季語もまた、象徴として機能します。
• 名前の響きと文学性
「デューラー」という名には、どこか詩的な響きがあります。硬質でありながら、柔らかく、ドイツ語圏の文芸的な香りを漂わせる。文人がその名に惹かれるのは、音の詩性もあるでしょう。
• 自画像に宿る内省性
デューラーの自画像は、まるで文人の肖像
晴れ
萩咲いて月がぼんやり浮いている 正子
夜目におなじ白き芙蓉と白木槿 正子
●ゆうべの雨が残って、道路が濡れていた。きのうより起床は遅かったが、散歩に出かけた。坂は歩きたくないので、平坦なところを探して歩く。保育園のビオトープに、とちかがみの白い三弁の花が咲いていた。
今朝開いた花は、レースのような透明感がある、2センチもないような花。一日でしぼむらしい。昨日は、雨だったので蕾んでいて、白いビーズのようにしか見えなかった。
紅萩の花は昨日も見たが、今朝の方が開いている。銀杏が数個落ちているが、木には青い実がある。銀杏の実は、葉が青いうちに熟している。これは想像と違う。黄葉して熟すイメージだったが違っている。秋がたしかに進んでいる。
●俳壇より原稿依頼。「編集室の風景」のタイトルで11月10日締め切り。2026年1月号に掲載される。同人会長の有花さんに相談し、承諾することにした。10月になり、周りが動き出して、忙しくなりそう。
●「俳壇」8月号(2025年/本阿弥書店)「梅雨の月」の髙橋正子の俳句が、「若竹」10月号の「一句一会」に掲載されました。
手につつむ蛍のあかり指をこぼれ 髙橋正子
「俳壇」八月号「梅雨の月」より
俳句の調べ、と言うことを考えるとき、やはり五七五のリズムを言葉の意味とどう結びつけるか、ということが勝負なのだろうと思う。そういう意味では掲句は、下五を「指こぼれ」と「を」を抜かして詠んでも意味は
通じるし、五七五にも収まる。しかし、「指をこぼれ」と「を」を入れて
六音にすることで、蛍のあかりが、ふっとこぼれるような、こぼれたあかりを見る作者も、はっと驚いたような、そんなニュアンスを感じさせる。リズムと言葉の関係性の魔法がある。(川嵜昭典)
晴れ
●朝夕は涼しいが、昼間は蒸し暑い。
●『小西昭夫句集』(現代俳句文庫II -3/ふらんす堂 2025年10月1日刊)が送られて来る。一通り読む。
●ようやくコッズウォルズの3村について書けた。今日はストウ・オン・ザ・ウォルドを書いた。
●阪急の八百屋で買った、さつまいものシルクスウィートを蒸かした。実入りもよく、甘くて十分美味しかった。最近おいしいさつまいもに出会っていなかったので、幻滅して、さつまいもは買わないようにしていた。店を選ぶといいのかもしれない。
晴れ
葛の花夜雨降り出し降りやまず 正子
バス降りてすぐ数本の曼殊沙華 正子
歳時記の秋の名草はみな親し 正子
●ハート内科定期受診。動脈硬化度の検査をした。血管年齢が50代後半だと言う。去年は、年相応だった血管が若返るとは、信じられない。一度固くなったものが復元するとは。何でも入れる味噌汁とご飯という粗食のせいかもしれない。このごろは、ほとんど独りで過ごしている。眠くなったら、昼寝をする。これは一日2回のときもある。夜、寝床で本を読まない。酷暑でほ2か月ほどは、ほとんど歩いていない。血管若返りの理由は不明だが、おそらく、マイペースの独り暮らしのお陰。そろそろ歩かねばと、帰りは1キロほどの道を歩いて帰った。自分では絶対買わない、母の形見のぺらぺらのブラウスを着ていたせいで暑くなかった。
「ウィンダミアの風」と「紫陽花は古色をたたえ」を推敲し、書き直す。「ウィンダミアの風」はうまく書けたと自信があったが、「紫陽花は古色をたたえ」の方が中身が濃くなった。これは読み手にあきさせないために書いたが、結構、核となる話となった。書いてみないとわからないものだ。
晴れ
朝夕はすずしかったが、昼間は暑さがもどった。
晴れ
昼の虫一匹鳴けるわが住まい 正子
月見まんじゅう小さきものが五個並び 正子
秋彼岸菊のお香をくゆらしぬ 正子
●みよさんの俳句にコメントを書くために、「源氏物語 夕霧巻」を読む。源氏を読むのは久しぶり。以前読んだときより、切実に感じる。こういうことが読み取れるようになったということか。
●今書いている、「こんなにさびしい山々が」のために、漱石の『三四郎』を読む。三四郎の一場面を確認するため。初めの方にあったので、たすかった。『三四郎』は六年生の時に初めて読んだ。その時の印象がまだ残っていて、その場面を確かめるためだった。日常のことを言葉にし、それを読めるようにするには、「胆力」がいるらしい。「胆力と繊細さ」を持ち合わせねばならないと言う。
今日は、一つ書き進めて、「紫陽花は古色をたたえて」を書いた。昨日書いた「ウィンダミアの風」を手直し。昨夜「ピーター ラビットのお話」を12巻読んだ。農夫の「マクレガー」の名前を忘れていた。
●朝夕はめっきりすずしくなった。センター北へ買い物。秋刀魚1尾580円。これはよく太ったもの、痩せたのは、2尾で780円。それにしても高い。太刀魚が旬を迎えているので、太刀魚にした。
●ユザワヤによって、端切れ2種類かった。一つはモリスの苺泥棒、もう一つは、灰色が買った水色に青いバラの布。苺泥棒は好きと言うわけではないが買った。
曇り、ときどき小雨
九月はや夜長となりぬ独りの灯 正子
虫の声まわりにありて独りの灯 正子
●日中の気温も下がってきた。暑さ寒さも彼岸までのことわざ通りになるのも不思議と思うが、これは夜の長さが永くなって気温が下がるというものらしい。