3月14日(土)

晴れ
大甕に小桜ほちほち咲き初むる  正子
大壺のさくら花枝の張り詰める  正子
風のパンジーひと花びらも疵つかず 正子

●太宰治賞の落選について考える。
私の作品は断章小説と言う形式をとっている。そして、内容は、私信としての、献呈(Widmung)としての文学である。この小説の落選が意味するものは次のようなことである。
私信として書いたので、宛先に渡って意味があるが、直接渡すのは、内輪すぎて、直接過ぎて、重すぎる。それが、落選と言えども、一度、賞のふるいに掛けられ、外の光にあたったことで、別の相に移ったという意味が付与された。その意味を価値という。さらに、落選によって、私の精神の深層が守られたことは大きい。賞というのは、制度に合っていること、審査員の好みあっていること(審査員の好みに迎合すること)、締め切りに合わせる。これらは、自由であってはいけないことなのだ。これからすると、私は大変な自由人ということになる。自分ではいつも窮屈な思いをしているが、まっとうな自由人だ。そしてそれから派生して、「自由は本質である」と言えるのだ。「迎合しない、熟慮を切り上げない、権威に媚びない」ことを本質と言うのである。これは発見であった。私の作品が世間から守られ、落選と言えど、外光にさらされたことで、「落選した文学としての価値」がついたことは、応募してよかったのだ。これを結論とする。

●句美子の家から帰宅後、クッカーで餡を炊いた。2時間半かかるので、出来上がりは深夜を回る。別の部屋で、原稿を書いていると、誰か女性が訪ねて来たような気配。誰かが声をかけているようだ。真夜中の声。気味が悪いので、何度読んでも出ていかなかった。インターホンにも出なかった。あっと気づいた。クッカーが、「残りの材料(砂糖)を入れるように」言っていたのだ。かなり気味の悪いできごとだった。声の気配が、しばらく耳の奥に残っていた。

 


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