晴れ
秋蝶の晴れし空より吾にくる 正子
秋晴れに玄関洗う水たっぷり 正子
ひと枝の金木犀を仏前に 正子
(蝶や金木犀が、単なる季語や風物ではなく、記憶や感情の深層から摘出された象徴として機能しているように思います。)
●久しぶりの洗濯日和。シーツやカバーなど大物の選択。あさってから天気がくずれそうなので、多分寒くなるかもしれないので、掃除を念入りに。ひとりなので、自分が汚さなければそれほど汚れない。汚れないようにするには。手を抜くことを考える。
●『詩を読む人のために』(三好達治)
蒲原有明の象徴詩について、
象徴詩のいわゆる「象徴」が、単なる比喩以上の広く深い「把握」とその鋭い「摘出」とを意味していることは、以上の諸例(「智恵の相者は我を見て」「霊の日の蝕」「茉莉花」)からも、いくらかの諒解されたことと思います。(p.52)
『俳句の杜2025』の藤田洋子さんの100句の特集をいたします。100句のなかから、好きな句を7句えらび、そのうち2句に感想を、下のコメント欄にお書きください。よろしくお願いいたします。
●好きな句7句
●好きな句7句のうち、2句にコメントを書いてください。
●締め切りは、11月15日です。
以上よろしくお願いいたします。
2025年10月17日
花冠代表 髙橋正子
小雨、時々曇り
●『詩を読む人のために』(三好達治著/岩波文庫)
本棚から、『源氏物語』とついでに、この本を取り出した。詩をどのように読めばいいのかを、話している人は結構いる。詩を読む基本というものがあるのだろうが、それはあるようでない、のではと思う。結局、一篇一篇の詩を、著名な詩人がどのように鑑賞しているかを逐一知り、その読み方を、一篇一篇知っていくしかない、と思える。
「千曲川旅情の歌」は単純に読めばよい。明治38年に上田敏の『海潮音』が発表され、翌年の明治39年に薄田泣菫の『白羊宮』の「ああ大和にあらましかば」は、ずいぶん解釈が難しくなっている。フランスの象徴主義の影響があるというのだ。ちょうど、このころリルケが活躍している。リルケは藤村の時代の人である。藤村や泣菫に深く関わろうとは思わないが、リルケは、共鳴するところがある。これは日本の詩とリルケの間で、何が違うかということである。
日本の俳人が小説を書いた例はあるが、成功していないようだ。その理由は、風景描写は良いが、思想、哲学がないということらしい。したがって、俳人の課題は、思想や哲学をどのように俳句に盛り込むことになるだろう。そのまま入れたのでは、詩のある俳句にはならない。