8月25日(月)

晴れ
トラックの疾駆す青萱吹き上げて 正子

●夕方6時過ぎ、URの中を散歩した。暑すぎて2か月半ぐらい散歩に出ていなかったが、陽が落ちてから風が吹いているようなので出かけた。歩くと涼しい風が吹いている。今日の気温はかなり高かったが、夕方の風のすずしさには救われる。1キロほど歩いた。

●リルケを読むとき、いつも頭にちらつくのだ。緻密な、私を畏れさせるリルケ研究があることが。いつも不安な思いで読んでいる。どれひとつ安心して読めない。そうしたなかで読んだことを日記に自分の覚書として書いておくだけのことなのだ。きょうは、『果樹園付ヴァレの四行詩』について書く。

リルケの最後期にフランス語で書かれた『果樹園』という短い詩の詩集がある。『果樹園』の詩は墨絵のような詩だと言われている。「墨絵のような詩」に魅かれて読んでみたくなった。フランス語の原詩も見てみたいが、『果樹園』の出版のいきさつから、日本の一介の俳人にすぎない私が手にいれるのは難しいと思えた。ネットで探して『果樹園付ヴァレの四行詩』(片山敏彦訳・人文書院/1957年刊)の古書を見つけた。堀口大學訳の文庫本も古書もあったが、片山敏彦訳を選んだ。早速注文し、三日後に届いた。「ヴァレの四行詩」は、この『果樹園付ヴァレの四行詩』を手にして初めて知ったのだ。届いた本は、表紙の真ん中に「RMR」だけ書いてある。おそらくリルケのサインをどこからか、持ってきたのだろう。筆記体の真面目な字である。『果樹園』の詩はネット上で2篇読んでいたので、『果樹園』から読むつもりだった。ところが「ヴァレの四行詩」の風景詩は俳句を意識して作ったと言われていることを知り、緻密なリルケ研究のある事を忘れて、「ヴァレの四行詩」を読み始めたのだ。一つの詩は、四行を1連として、2連~3連からなっている。こういったのが、36篇ある。

訳書は1957年の初版本なので、経年劣化はやむを得ず、数日読んでいるうちにページが一枚抜けた。もとに嵌めようとするが、もとにはもどらない。これ以上ページを落としたくないので、繰り返し読むために、別の紙に書き写すことにした。必要な時、必要な詩を2,3篇ずつ書き写している。さしあたっては、A5のブルーの横罫の便箋を縦書きに使って。書き写していると、翻訳者になって一語一語言葉を生んでいる感覚になった。こうして書いたんだろうな、と訳者の机上が思い浮かんだ。

「ヴァレの四行詩」は、スイス、ヴァレ地方の風景、鐘の音や水の音、塔や山々を、リルケは、ヴァレへの挨拶のように詠んでいると私には思えた。日本の俳句も挨拶の要素をもっていて、四行詩を読んだときに、俳人である私はそれに応える俳句を自然に作っていた。この俳句は普段私が作っている俳句といくぶん違った風にできた。西洋の詩と日本の俳句との二つの間にあるものではないかと思えた。四行詩に触発されてできた俳句は、季語があるものも、ないもののある。定型であるものもないものもある。出来た俳句は緻密なリルケ研究から見れば、全く的をはずれたものかもしれない。だが、リルケの詩にふれて、俳句を詩として詠んだことは間違いない。これはリルケの詩にふれるのに、いい方法となった。

その俳句のことをいつも「リルケの詩にふれて、その俳句」というのは、長すぎる。それを呼ぶ、適当な言葉がない。私はこれに「詩返」(しへん)という言葉を造った。この俳句は、リルケの詩の解釈でも、詩への共鳴を詠んだものでもない。「詩返」を定義づけるとすれば、次のようになる。<「詩返」とは、詩に触れた感興から生まれた俳句であり、単なる感想や 共鳴ではなく、詩との倫理的・詩的対話を志向する応答のかたちである。>

「詩返」という名前まで付けたのはもう一つ理由がある。花冠7月号(No.373)を送ったお礼の返事をいただいている。この号には、「髙橋正子の俳句日記」に、リルケの初期の詩からインスピレーションを得て俳句を作った経緯を記した箇所がある。ここについて、N先生から、「興味深い」との葉書をいただいた。N先生には信之先生の「水煙」時代からずっと「花冠」を送らせていただいている。この度も、お忙しいにもかかわらず、私が書いたものを、丁寧に読んでくださっての返事だった。

先生からの「印象的」「興味深い」という返信の言葉は、私への最大限のほめ言葉であり、励ましであると思っている。私はこの言葉を「花冠」をお送りした返事の中で、何度か拝読している。同じ言葉であるが、その指す内容はその度に違っている。今回の7月号の返信にもこの言葉を拝読した。そして、今回の「興味深い」という言葉に、深い意味があるように感じた。先生の言葉は平明ながら含意が深く、返信を読んだあとに「読み落としていることがあるのでは」と、時には、しまった葉書きを再び取り出して読み返すこともある。

今回、私が返信に感じた「深い意味」は、すぐには何か思いつかなかった。「いったい何なのだろうか」と考えていた。そして思い至ったのが、それは先生の意図ではなく、私だけの取りようだが、 私が名づけた「詩返」を、詩論として、また俳人としての倫理のかたちとして、きちんと位置づけるべきではないか——そんな思いに至ったのだ。

「詩返」は、どんな形態で、効果的に公表するかが難しい。原詩や訳文の提示が不可欠であり、著作権の壁は避けて通れない。引用の範囲や方法を慎重に見極めなければ、詩への敬意を損なうことにもなりかねない。こういう問題を孕んでいる。この理由で「詩返」は一度はあきらめた。しかし、先生の言葉に、私は俳人としての倫理的な応答の可能性を見出し、『詩返』を詩論として位置づけることに、もう少し頑張ってみることにした。この「詩返」の考えには多くの議論がある事は容易に想像できるが、あえて現代の俳句の一在り方として示したい。この一在り方は私にとっては楽しい在り方なのだ。「詩返」は、「届かないものへ」それでも「魂を届けようとする」詩人の試みなのだ。それはとりもなおさず、詩の源泉なのだ。
(2025年8月25日)