9月10日(1句)
★桔梗の見ゆる花束売られおり/廣田洋一
花束が売られており、その花束のなかに秋の七草のひとつの桔梗がはいっているのが見えた、というのである。七草が一つ入っているんは、うれしいことである。因みに、七草の朝貌は、桔梗とされている。(髙橋正子)
9月9日(1句)
★朝顔の残花垣根を登りつめ/上島祥子
朝顔も終わりに近づいたが、それでも涼しくなって、まだまだ花が咲き続いている。それを残花と言って哀れみがあるが、その残花が、垣根を登りつめて健気である。「末」の魅力を感じた。(髙橋正子)
9月8日(1句)
★稔り田の窓に明るし臥しおれど/柳原美知子
具合が悪く臥してはいるが、窓からは、外の明るい稔田がひろがりが見える。臥しているけれど、稔田の明るさが楽しめるのは、なによりの慰めになる。(髙橋正子)
9月7日(1句)
★秋空や詩の下りてくる気配かな/友田 修
「秋空」には「澄んで高く大らかな」本意がある。そんな秋空をみると、いい俳句が生まれてきそうな予感がするのだ。この句には「や」と「かな」の切れ字が二つあり、一句に切れ字は一つの基本原則からはずれているが、現代俳句では「や」と「かな」の同時使用は許されている。「秋空」への詠嘆と「気配」の詠嘆ふたつがゆるやかに結ばれ、一つの詠嘆となっている。(髙橋正子)
切れ字について以下を参考にしてください。(copilotより)
🌿「や」と「かな」の併用は許されるのか?
はい、許されます。ただし、以下のような注意点があります:
• 伝統的には避けられる傾向がありました。理由は、「や」「かな」どちらも強い詠嘆を伴うため、一句の中心が二つに分裂する恐れがあるからです。
• しかし、現代俳句ではこの制約は絶対ではなく、句が分裂せず、詩的な統一感が保たれていれば、併用しても問題ないとされています。
加藤楸邨は「句が分裂しなければ、別にこだわる必要もない」と述べており、実際に「夕顔や 秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな」といった例もあります。
🍁では「や」と「けり」や「かな」と「けり」は?
これらの併用も理論上は可能ですが、さらに慎重な構成が求められます。
• 「けり」は断定や過去の叙述を強く響かせる切れ字であり、「や」「かな」との併用は句の調べや意味の重心がぶつかりやすいため、非常に高度な技術が必要です。
• 実作ではほとんど見られませんが、詩的な必然性があれば挑戦する価値はあります。
(髙橋正子)
9月6日(1句)
★輸送機の夜間飛行や月さやか/上島祥子
意欲的な俳句。夜空を見上げるとさやかな月と、人や物を運んで飛行機が飛んでいる。この句は、作者の詩的な世界を「輸送機」「夜間飛行」という言葉を使い、あざやかに表現している(髙橋正子)
9月5日(2句)
★旅立つ子見送る駅に秋の涼/上島祥子
旅立つ子を駅に見送りに来てみると、駅にはすっかり秋の涼しさがあった。秋の涼しさも、旅立つ子を見送る淋しさを感じさせるものになった。(髙橋正子)
★みそはぎや門ある庭の家ばかり/多田有花
門構えの家ばかり並ぶのは、古くからの代々の家がならんでいるのだろう。そういう家には、盆花用に家の傍に、ときには前が川になっていたりして、みそはぎが植えられていることも多い。古びながらも、しっとりした情景がいい。(髙橋正子)
9月4日(2句)
★朝顔や空の青さを集め咲く/多田有花
「朝顔」の色が「空の青さ」と響き合って、一つの明るい世界ができているのが、すばらしい。(髙橋正子)
★空色のトーンを落とし九月来る/川名ますみ
「空色のトーンを落とし」は、視覚的でありながら、心理的であり、夏の高揚から秋への沈降を感じさせている。空の色の変化から季節を感じ取る感性がいい。(髙橋正子)
9月3日(2句)
★何もかもくつきり見ゆや涼新た/桑本栄太郎
「何もかも」と目に見えるものすべてが、涼新たになり、世界が一新され感じがしているのがいい。(髙橋正子)
★籾殻を払いし林檎香り濃し/廣田洋一
籾殻に埋められた林檎の籾殻を落とすと、濃く林檎の匂いがした。
皮自体にも微細な芳香成分が含まていて、取り出されたばかりの林檎の濃い匂いが新鮮さを保証している。(髙橋正子)
9月2日(2句)
★月光のきらめく流れ墨田川/廣田洋一
「墨田川」には江戸の情緒が今に残るところ。光にきらめき流れる墨田川はまた特別感がある。(髙橋正子)
★つくばいに風の径有り秋の涼//上島祥子
つくばいがあるところは、風が通る径になっている。秋の涼を一番に感じるところとなっている。(髙橋正子)
9月1日(1句)
★八月の最後の花火打ちあがる/多田有花
夏の間あちこちで花火が打ち上げられ、楽しんだ。だが、打ち上げられた花火もいよいよ八月最後の花火となり、夏の終わりの一抹の寂しさも湧いた。(髙橋正子)
正子先生
「八月尽風入る部屋で昼寝する」にご指導をいただきありがとうございます。
八月尽について、私が普段使っている「新日本大歳時記」(1999/講談社)には
八月尽が季語として載っております。
「八月尽の赤い夕日と白い月/中村草田男」が掲載されています。