俳句
風に向かえば金木犀のつんとくる
カーテンを洩れる団地の秋灯
バスを降り大路を吹ける秋の風
○夜中ネットのニュースで、下村脩氏がノーベル化学賞を受賞されたと知る。
オワンクラゲの研究。面白そうだ。研究というのは、気の遠くなるような道を休まず、困難にもあきらめず、辿っていくことらしい。逆に考えれば、自然はそれほどに神秘的に、魅力的に、応えをもっているということか。
○下村先生は森のなかで暮らしておられるとか。インターネット俳句センターが開設されて3年目ぐらいだったか、アメリカの俳人たちが、ウォールデンの森で2週間ばかりを過ごす計画があるが、参加するなら申し込むようにと知らせてきたことがあった。森の哲学者ソローにあやかってのこと。森のしずかな生活にあこがれている俳人もいるようだ。
○母校からノーベル賞受賞者がぞくぞくの敬二さん。名大万歳!!談話室にノーベル賞余聞を書いてくださる。ご一読を!!
http://ehime.net/bbs/suien/index.html
○ノーベル賞で湧いている間に、わが家のベランダではハイビスカスが大きな花を開いた。買ってきたときの蕾は全部取れてしまって、育てるのをあきらめかけたが、夏クーラーの排水が溜まるので、やり続けた結果咲いた花。2花目。あと二つ蕾が付いている。さらに見ると、蕾らしい形が覗いている。いつまで咲いてくれるか。
○午後日吉に買い物に。抹茶とノーベル賞に湧く名古屋の外郎、本日入荷の赤穂の塩味饅頭を買う。少々坂道を歩いたせいで疲れるが、メロンのフレッシュジュースに蘇る。
俳句
ひよどりの一声くらき雨に捨つ
涙なく熱く焼けたる秋刀魚食ぶ
雨。
○今年のノーベル物理学賞に、日本人の三人が選ばれた。日本には物理学の学問のすばらしい伝統があるのだろう。
○秋尾敏氏から句集『ア・ラ・カルト』を贈呈される。主宰誌「軸」の500号記念の出版とのこと。
○水曜日は生協の配達がある。秋刀魚を頼んでいたので、夕食は秋刀魚となる。当来のかぼすを添えて。秋刀魚について、金子兜太氏が、秋刀魚の俳句なら、秋刀魚は、「焼く」か「食べる」かなので、それを詠む次第だ、というのをテレビで聞いたことがある。なるほどであって、おかしくて笑う。今日の俳句は、「食べる」になった。
○朝日の夕刊、このところ、「フェルメールと私」のコラムに、著名人が入れ替わり、フェルメールと私を書いている。先日の谷川俊太郎氏には少なからず驚いた。なにげなく捲った紙面に今度は、西垣通先生。その後いかがお過ごしかと思っていたら、フェルメールで登場された。
著名人もフェルメールがお好きなのか。新聞社のお膳立てであろうが、こう見え透いては、フェルメールも、いやになる。片隅の人のフェルメールを読みたいものだ。どういうときに、フェルメールの何に元気をもらったとか。慰められたとか。昨年新国立美術館でフェルメール1点を見た。今回は見に出かける気がしない。そうは、私が言っても、身近にも海外までフェルメールを訪ねて出かける何人かを知っている。ふと思う、ふわっとした光のようなその名前もいいのかも。
○数年前のこと、K事務所の企画でたぶん「男性の俳句」というアンケート形式の企画があったが、つまらない企画を立てるものだと思いながらも読んだ。それに、残らず著名男性俳人が参加している。こんなつまらない企画に乗れないと断る人もいなかったのか。断るような気骨のある人が、一人ではまずいので、三人いれば、世の中随分変わるだろうなと思った。フェルメールについて書かないと断った人がいたかどうか。そこまで、新聞や雑誌に影響力がないので、気軽に、ちょっとしたお付き合い、というのかも。でも「こぞって」というのが。
俳句
朝もやに混じりて香る金木犀
○今朝、金木犀の匂いがした。うっすらとした靄に混じってかすかに匂う。秋祭りが近い。松山の祭りはもう始まっているのかも。愛媛の秋祭りは、西から東へと移ってゆく。
郷里の農村では、以前、祭りは一斉ではなかった。少しずつ村をずれて行われ、親戚同士、祭りの客を呼び、呼ばれした。よそゆきを着て、自分の村と違う隣村の神社の祭りにでかけるのも、閉鎖的な農村では、新鮮な気分になれたものだ。祭りは、収穫の感謝と慰労を兼ねて、祭礼としてのうやうやしさもあったが、昨今は、祭りというだけのものになっているのだろう。
俳句
朝寒の紅茶薔薇色までならず
○午前中小雨。午後晴れ。
○荘二さん、句集出版の件で来宅。帰りに和代さんのお米をほんの少しおすそ分け。
○紅茶とビスケットというクラッシクなスタイルでお茶を飲む。マリービスケットは久しぶり。固さと凝らない味がいい。
俳句
寝返って虫音遠のくみ空へと
搗きあがる新米の温みをてのひらに
甲斐の山下りきし葡萄濃むらさき
葡萄食む信仰のなき日曜日
○一昨日、新規にブログをつくる。アドレスは、<kakan02>。
○荘二さんの句集に入れる句を読む。
○花冠句会の10月1日~4日(土)までの句の入賞発表。前回に引き続き、和美さんの句が最優秀となった。句に面白いところがある。滑稽ではない。面白いというのは、「ワハハ」や「ケラケラ」ではない。この面白さがわからないと物事面白くない。
○午前中晴れていたが、午後から雨が落ちはじめる。8時ごろから本格的に。今頃は、金木犀が匂うはずなのに、どこからも匂わない。こちらの地方祭りは10日ごろらしい。
○松江の和代さんの新米を八百屋さんにもっていき、10キロ精米してもらう。搗き立ては、ほんのりと温かく、持って帰ってさます。今夜は搗き立ての新米のご飯。信之先生は、新米の玄米のお粥。米を八百屋さんで搗くというのもおかしいが、米屋さんが今日は休みなのでした。搗いてもらいながら、八百屋さんの話を聴く。コシヒカリは、いろんな米が混じっているのでよくわからん。田圃によって米は旨さが違う。乾燥機に入れた米はまずい、など。和代さんの田圃のお米はおいしいのです。
★桜冬芽空にもっともたくましき 正子
○今日の俳句
枯れかれてなお鶏頭の紅かりし/小口泰與
鶏頭の紅さは個性的と言える。枯れてもその紅い色が衰えず残る。色に生命が通う。(高橋正子)
生活する花たち 冬②
◆生活する花たち/高橋正子◆
○侘助
侘助や障子の内の話し声/高浜虚子

侘助は椿と違って、花が開ききらない咲き方をし、花も小さい。お茶花として人気が高いのは、花の姿に品格があるからであろうと思う。松山の郊外の砥部の家には、肥後、乙女などさまざまな種類の椿をたくさん植えていた。花が満開となるときは、地に積み重なるほど花が落ちた。初冬、庭に「初あらし」という白い椿が咲いた。そうして、すぐ横にある柊の銀色の花が高い香りを放つころになると、ぼつぼつと侘助が咲いた。わが家にあったのは、赤い侘助。備前焼に入れるとよく映る。「助」というのは、小僧っ子らしい。そういうほうから見ると、品格だけではなく、滑稽さも感じないでもない。侘助は、何年たっても大きくならなかった。わが家では、椿もあまり大きくならなかったが、唯一2メートルくらいのは、玄関の戸を開けると見える白い椿。この椿は葉が幾分よじれる癖があった。わが家の裏は遊歩道があって、フェンスの向こうは谷になって、谷底を砥部川が流れていた。その川崖の上のほうに藪椿がよく咲いたので、ちょうど手を伸ばせば花に届いたので、時どき、一枝折って籠に活けたりした。普段、侘助を椿と区別して眺めることはない。
○水仙
水仙の香を吸いながら活けており/高橋正子

町内のあちこちで水仙が咲き始めた。正月が近い。
水仙について脳裏にある光景がある。昭和30年代前後、家庭では、着物や布団などを洗って仕立て直していた。洗った布は、糊づけして皺を伸ばすために、板張りや針子張り(しんしばり)にしていた。木綿は小麦粉で作った糊を使うが、銘仙など絹ものは、水仙の糊を使っていた。水仙の葉を切ると、滴る水のような透明な液で良い香りがする。この液にひたして、針子張りにした布が、庭いっぱいにゆれていた。それもなぜか、水仙の花が咲いている時期に限られていたように思う。糊に使うだけの水仙が庭に咲いていたとも言えるが。冬ばれのうららかな日と共に思い出す。
○茶の花
茶の花垣朝の光頬通る/森澄雄

茶の花は、この季節好きな花のひとつ。生家には、道から一段高くなったところに菜園があり、柿の木がありました。その西側にお茶の垣根があって、ちょうど柿が熟れるころ、お茶の花が咲き始めました。お茶の木には、まだお茶の実が残っていて、その独特な形は面白いものです。祖母の話では、戦前までは、家でお茶を作って飲んでいたようです。お茶を作らなくなっても垣根だけは残っていました。白い絹のようなお茶の花とその実には、子どものときから、いい感じで受け止めていましたから、生来好きな花なのでしょう。鉄瓶の蓋の持ち手にお茶の実を模したものがついていたのを覚えていて、いいデザインだと、小学生のときから感心したりしていましたので、多少は骨董眼があったのかもしれないと思うのです。お茶の花の白は、絹のような白で品がありますから、寒くなり始めたころにふさわしい白だと思っています。
○万両
万両の丈伸びて実を輝かす/高橋信之

横浜日吉本町に住んでいるが、百両を見かけたのは、ご近所では一軒だけで、万両は千両と並んで町内の庭先でよく見かける。数年前、町田市の里山に出かけたが、その山に自生の万両を見た。そして、東海道53次の戸塚を過ぎて、藤沢の遊行寺の近くの遊行坂の山にやはり、自生と思われる万両を見た。生家にもあったが、これを父は実のついた万年青とともに大事にしていた。あまり育たず、増えずの感じだったが、横浜では、いたるところで見かける。四国の砥部の家にも万両があったが、いつの間にか、塀沿いに万両が増えて育っていた。実がこぼれたのであろう。
○千両
花束の中より散らばる実千両/平田弘

千両は生家にはなくて、砥部の家の玄関脇に赤と黄色を植えていた。植木屋さんの勧めで植えたと思う。万両は日当たりがいらないが、千両はいると聞いている。間違いかもしれない。正月花に赤い千両を一枝切って入れたいと思うが、一枝切ると間が抜けたような姿になるので、正月花には花屋で買っていた。先日東海道53次の戸塚から藤沢まで歩いたときには、お寺などに千両をあきるほど見た。こちらのお寺は千両がお好きなようだ。
○南天
南天の実も水音もかがやかに/高橋正子

冬が来ると、縁側にふれそうに南天の実が色づいた。その南天は私の記憶では、一間(1.8メートル)ぐらいの高さで、大きくもならなかった。築山のほかの木が剪定されても南天はそのままで、正月用にその実も葉も残されていた。年末のごみを焼くけむりにも巻かれていた。これは、広島の生家の話であるが、南天はどの家にもある。「難を転ずる」の意味で植えられるらしい。松山の家の庭隅にも、植木屋さんが勝手に持ってきて植えてくれて、正月料理や赤飯にその葉を飾りに使ったりした。一枝切って、正月花にも使った。今住んでいる横浜の日吉本町を散歩すると、農家の藪のようなところにも木の姿は乱れているが、たわわに実を付けている。もう年末だな、もうすぐ正月が来るな、と思う。そう、正月が過ぎて、雪が降る日があると、赤い実が雪を冠り、かわいいのだ。雪うさぎの目にもなったりする。墨彩画に書かれたものも実だけが赤くて面白い。書きだせばきりがないほど、南天は身近にある。
秋
○今日の秀句/高橋正子選評
10月19日(水)
★秋潮の蒼さ眩しむ加太岬/津本けい
加太岬は、一般に知られた岬ではないが、作者には愛着のある和歌山市加太の風光明美な岬だろう。岬から眺める紀淡海峡の秋潮の蒼さが眩しい。「秋潮」の動きがあって、句が生きている。
10月18日(火)
★浜風に確と結びし新松子/佃 康水
浜辺の松の枝にしっかりと青い松毬(まつかさ)がついた。古い松毬と違って充実している。それを「確と」が言い当てている。浜辺の青松毬のすがすがしさがよい。
★眠らんとすれば窓辺に降る月光/多田有花
眠ろうと明かりを消せば、窓辺に明るく月光が降り注いでいることに気がつく。この月光に包まれて眠れるのも幸せなことであろう。
10月17日(月)
★うろこ雲球根あまた植えし目に/小川和子
「球根植う」は、歳時記では春の季語。ダリヤやグラジオラスなど夏咲く花の球根を指すが、最近は、秋植えのチューリップなどの球根になじみが深い。この句では、「うろこ雲」が主題。球根を植えた秋の日のうららかさが気持ちよい。
10月16日(日)
★白樺の黄落なおも晴天に/小西 宏
夜の冷え込みと昼間のうららかさを得て、白樺の黄葉がいまもっとも美しい。なおも晴天が続くと白樺の黄落期は美しいまま。
10月15日(土)
★秋の海澄めり真珠筏浸し/藤田洋子
「浸し」が秋海の澄んだ水をよく感じさせてくれる。秋海の澄んだ水に浸され殻を育てている真珠は、美しく輝く珠となることであろう。
10月14日(金)
★赤富士の今や懐かし水の澄む/下地 鉄
「赤富士」は、晩夏から初秋にかけて、富士山が早朝の朝日で赤く染められるのをいう。旅で見た赤富士をなつかしく思い出す今は、水の澄む秋である。早朝の朝日の富士と水澄むが独特の感覚で結びついている。
10月13日(木)
★幾重にも石積みの畑秋高し/藤田洋子
段々畑は、石を積み上げて猫の額ほどの畑を山頂へと幾段も作った。作物にやる水も下から桶で運びあげねばならず、日本の零細農業の象徴のような存在だが、その景観は美しい。秋空を背にして山頂までの石垣がまぶしい。
10月12日(水)
★竹を伐る空に抜けゆく鉈の音/後藤あゆみ
竹を伐るのは、陰暦の九月がよいとされる。竹を伐る鉈の音が空へ抜ける。「抜ける」が澄んだ高い空をすぐ想像させて、快い緊張を生んでいる。
10月11日(火)
★月澄むや長き廊下の消灯す/後藤あゆみ
静まった夜、長い廊下が消灯されて、外には月が澄んでいる。体にずんと染みいるような月明かりである。
10月10日(月)
★虫の音の低く流れて古寺の昼/河野啓一
奈良の古寺の静かなたたずまいが「虫の音の低く流れて」で、よく表現されている。
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