3月26日(土)

宵風の白みて強し犀星忌  正子
犀星といえば、「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」との詩が浮かびます。私生児として生まれ、生後間もなく養子に出されるという複雑な生い立ちは犀星文学の原点でしょう。「白みて強し」にその感覚がうかがえます。傷は裏返せば持ち味であり、強さにもなります。(多田有花)

○今日の俳句
頂の三角点に蝶降りぬ/多田有花
世の中あるいは自然界には、説明のしがたいものの良さが多くある。この句もそのひとつ。山頂の三角点に蝶が留まった。敢えて意味づけると、山頂、三角点、三角形の翅。危ういがしかし確かなピンポイント。山頂の春の日の輝きである。(高橋正子)

○横浜日吉のマンションに家族と住んでいるが、3月の後半、桜の咲く前ともなれば、街の通りは、そこここに季節の花が咲きはじめ、俳句を拾っての散歩が楽しみである。
 住まいの前の通りを西へ百メートル足らずのところに、日吉本町駅という名の地下鉄の駅があって、そこから次の駅で東横線に乗り換えれば、都心の主なところへの直通電車に乗ることができるので便利である。西の方向には、富士山があって、近くの公園からは富士見ができる。
 東へは、徒歩20分足らずで慶応大の日吉キャンパスがあり、その先に羽田空港がある。発着の飛行機が作る飛行機雲を見ることがある。

 味噌汁の芹の香家族いま三人

 1月20日 大寒
 近くの金蔵寺の梅が開いているか見に出かける。郵便局に用のある信之先生が先に出て、そのあと後れて金蔵寺へ向かう。金蔵寺には誰もいない。境内はよく日当たって、ことに水仙の花があちこちに咲いてすがすがしい。梅は小さな木に白梅と紅梅がよく咲いている。剪定されて、風情としては物足りない。いつのまにか、信之先生が現れる。私のあとを付いていたらしいが。境内を出て墓地の入り口の廃家に梅の大きな木があり、それを見にゆくが、蕾みは固い。

 金蔵寺五句
白梅の花びらほどに身の軽し
すっきりと根元より立ち水仙花
蕾固き野梅これから咲くたのしみ
水仙と梅のほかなき寺の庭
寺の戸のぴしと閉められ水仙花

 夜夜月を見ているが、氷る月とはよく言ったもので、氷のような光と色の月が大寒の20日は、満月となる。

 月氷るヨーロッパもかくあるか
 月氷る森よりはるか上に出て
 氷る月見るわが貌の青からむ

 1月30日
 午後から信之先生と探梅に近所を歩く。「うめはまだか~」の都都逸ではないが、梅の花が咲いているのを見つけるのはたのしみ。「探梅」は、冬の季語であるが、そこまで来た春をよく言っている。まず、鯛ヶ崎公園に足を向ける。農家の畑の端の梅、となりの御屋敷の白梅。公園(山なのであるが)の中は垣根として植えられた山茶花。梅はない。公園を出て、竹藪へ出る。竹藪の端には、蕗が葉を出すのでそちらへ曲がる。坂道となっているが、予期せず、民家の白梅が満開。携帯で写真を撮るが、高すぎて、遠目の写真となる。竹藪の端の日当たり抜群のところに、ひとつ蕗のとう。蕗の葉は、ようやく蕗とわかる程度に、霜に焼けた小さい葉がまばらに。蕗のとうも写真に。このあたりの民家は、昔ながらの農家と、新しい世帯の家が混在。農家の庭先によってパンジーを撮る。

 探梅の風の御空に雲淡し
 白梅の満開といい空おおう
 真っすぐな日の差すところ蕗のとう
 たったひとつの蕗のとうがはや花に
 蕗の花まつげあるごとひらきけり
 三色の色をくっきり冬すみれ
 日当たれる平屋の家の花紅梅

 さらに下って、バス通りに出る。コンテナの貸し倉庫がある。この辺りも日吉だが、初めて来た。トラックが行き交う道路に出ると向かいに「ツタヤ」。それに寄る。古本をざっと見る。半額程度と、百円程度が多い。昔ながらの古書店では、古本の値段が、いちいち違っているので、その値段だけ見るのも本の価値が反映されて面白かった。今、日経にコラムを書いている内舘牧子もある。水桜子編の日本大歳時記があったが、これは半額程度の2700円。向田邦子と塩野七生は、読んでもよさそうだ。そんなものを見て、何も買わず、借りずに店を出て帰った。帰宅は3時前。
 年末我が家に登場したホームベーカリーでパンを焼く練習をしている。自動で焼けるとはいえ、これも奥が深そうだ。昨日は夕食後から、普通の食パンを焼いた。バターは本物、砂糖は三温糖。出来上がりはホテルブレッドのようだ。粉はパン専用粉で、調合は自分で。おとといと、さきおとといと二日続けて、フランスパン。これはミックス粉を使う。フランスパンは、よくできている。ただし、仕込みから出来上がりまで6時間半。夕食前後に始めると、出き上がりは夜中0時半。出来てすぐに取り出さないといけないので、眠さをこらえ起きている羽目になった。

 2月5日 土曜日
 6日の立春句会の句を作りに、信之先生と近隣を吟行。一時の寒さが緩んでからは、探梅と称して、住んでいる3丁目から、2丁目、5丁目と歩き回った。土曜日は晴天で、駒林神社、天台宗の西光院、おなじく天台宗の西量寺を訪ねる。2丁目の西光院は、小さなお堂がある、実に小さなお寺。庭には金柑の実があまるほど成って、地に落ちている。一粒いただく。白木蓮の蕾が良く太って、立派な樹である。お賽銭をあげて去る。
 駒林神社の梅を見に寄る。この前来たときは白梅がみずみずしかったが、今日は、はや散りかけている。まだ咲かない梅もあるが、蕾が固い。気をつければ、神社の御手洗の後ろ、本堂の横と、紅梅や白梅がある。かわいらしいのは、同じ境内のお稲荷さんの狐。今日は、お稲荷さんの狐にお賽銭をたくさんあげる。たくさんと言っても知れてるが。鳥居のそばには大きな樅の木。ご神木で幣を巡らしている。

  駒林神社
 歩けばある梅咲くところが登り口
 御手洗に若松紅梅結わえあり
 賽銭を放りて拝む梅の寺

 駒林神社の坂を下ればすぐ、駒林小学校だが、小学校をぐるっと回って、しばらく歩くと高台に墓が見える。墓地の下に、紅梅が終わりかけ。そこが西量寺らしいので、表へ回る。門前に寺の碑があって、階段がある。上ると、さんさんと降り注ぐ春の庭。花が少ないところを歩いたので、庭の水仙、葉牡丹がうれしいほどだった。一メートルほどの池に30センチ足らずの小さな観音様が祀ってある。水掛観音とあって、言われが書いてある。地元日吉の何とかという子供が川で泥石を見つけ、母親が水を掛け洗い清めると観音様が現れ、なお開眼供養をして祀られたというらしい。何度も杓で水をかける。水を掛けると観音様はずぶ濡れで春日に輝く。が、すぐ乾いてもとに。また水を掛けて輝かす。

  日吉西量寺・水掛観音
 水掛けて春水かがやく仏なる
 高台の寺の水仙濃く匂う

小さいお寺だが、お寺の人らしい生活があって、面白かった。
 
 3月6日 日曜日
 一時より暖かくなったので花の写真を撮りに信之先生と鯛ヶ崎公園へ。本町駅裏の藪椿からとり始めるが、遠すぎてズームでもよく撮れない。お屋敷のところまで来ると馬酔木の花。坂道を上るとクリスマスローズが住宅の玄関脇に咲いている。公園の中には、白梅、紅梅が満開を過ぎている。桜が咲き始めていた。ふと足元を見ると、散ったばかりの梅の花が一輪土に落ちている。まだみずみずしいので、それを撮る。公園の階段を上ってしまうと農家の畑があり、菜の花が咲いている。民家の庭に寒桜が満開。ソケイも。5丁目の住宅地の花を見ながら歩く。今日撮る花はもうないだろうと思いながら帰ると、満作がある。ローズマリーが垂れ下がっている。地下鉄日吉本町駅上のいきいき会館によって、屋上の植物を見せてもらうと、今日は暇なのか、受付嬢がずっと付いて来てくれた。アリッサムがかわいいので撮り、自宅へ戻る。

  鯛ヶ崎公園
 正月の子どもが五人じゃんけんぽん
 暮れゆけばピラカンサの実もしずか
 水仙を活けしところに香が動く
 つぴつぴと鳴く鳥声の炬燵まで

 ベランダの花たち
 去年買った雪割草が先日の陽気で花を咲かせた。雲間草も買って、大いに楽しんだが、茂りすぎた雲間草は、夏の暑さのせいか枯れてしまった。雪割草は、葉っぱ3枚を残して、買って来たままのビニールの鉢で夏を過ごし、秋になり、冬になり、春を迎えた。葉は、傷んでいるのか紅葉しているのか、よくわからないがそれでも水やりは欠かさないでいた。先日2月23日修善寺河津旅行から帰って、よい陽気になって、2,3、日後だったろうか水やりにベランダに出て驚いた。雪割草の花が3輪咲いて、蕾もまだある。写真をと、思っているが、鉢があまりにみすぼらしい。似合う鉢が買えないで、1年過ぎているのだ。そして先日花屋で見つけて似合いそうな鉢を買ってきたが、小さすぎた。そして写真はいまだに。

 雪割草のひらく時きて日があふる 正子

▼地下鉄日吉本町駅案内
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E6%9C%AC%E7%94%BA%E9%A7%85
▼鯛ヶ崎公園案内写真
http://takatan.mods.jp/hiyoshi/No2.htm
▼金蔵寺案内
http://soubouwalk.exblog.jp/841165/

◇生活する花たち「れんぎょう・馬酔木・はくれん」(横浜日吉本町4丁目)

3月25日(金)

春の蕗提げしわれにも風が付く  正子
自解:蕗を油揚げと煮る。これは、お惣菜の定番。しかし、茎が1メートルほどの栽培蕗で風情もなくて、つまらないが、それでも季節のせいか、いいおかずになっている。丈の短い、茎の細い蕗。これが本当の蕗。筍もそろそろ。蕗と煮るのも定番。

○今日の俳句
まんまるい蕾もろとも花菜漬け/藤田裕子
まんまるい、黄色も少し見える蕾もろとも漬物に付け込むには、心意気がいる。日常生活が身の丈で表現された句。(高橋正子)

◇生活する花たち「菜の花」(横浜四季の森公園)

3月24日(木)/彼岸明け

らんまんの一花こぼさぬ花強し  正子
咲き満ちて日に輝き、仄かな香を漂わせている桜。風に吹かれて撓う枝に、優美な花がひとつだに零れ落ちることなく戦いでいる。爛漫の花に秘めらた強靭さに驚嘆し、短い花の生命の限りを精一杯輝かせて咲いている、美しくもけなげな桜への愛しさが込み上げてきます。透徹した観察眼と女性ならではの感性の感じられる生命の讃歌に心惹かれます。(柳原美知子)

○今日の俳句
芍薬の芽は紅(くれない)を今年また/古田敬二
芍薬は牡丹とちがって、土よりやわらかに紅の芽ば出る。「今年また」に、喜びが大きい。(高橋正子)

◇生活する花たち「満作(マンサク)」(横浜四季の森公園)

3月23日(水)

コーヒーに水の旨味よ花の朝  正子
自解:この句は、愛媛県久万高原町にある久万中学校での作。映画のロケにも使われた木造校舎。この校長室でいただいたコーヒー。窓には桜が咲き満ち、ひんやりとした山の朝の空気。出されたのは、インスタントコーヒーだが、おいしかったこと。水の旨みを実感した。

○今日の俳句
子が鳴らすぺんぺん草よ野の風よ/後藤あゆみ
野原でペンペン草を摘んで子が鳴らしている。心地よい野の風が吹いてきて、ペンペン草もよく鳴りそうだ。童画のような春の世界。(高橋正子)

◇生活する花たち「木瓜(ボケ)」(横浜四季の森公園)

3月22日(火)/放送記念日

水菜洗う長い時間を水流し
こんな句は、地味なようで、実は派手な句と言えましょう。自分の感動をよく吟味し、工夫して、表現した新しさがあります。(川本臥風)

○今日の俳句
咲き初めし辛夷湖へと枝を張る/黒谷光子
この句の眼目は、景色がよいことである。「咲き初めし辛夷」も、「湖へ枝を張る」も、これからのさらに美しい景色を想像させて、芯にしっかりとした力の強さがある。(高橋正子)

◇生活する花たち「椿」(横浜四季の森公園)

3月21日(月)/春分の日

★春分の日といい空に飛行機音 正子
空に飛行機の音が聞こえ、常とかわりはないけれど今日は春分の日。ようやく寒さもゆるみ始め、桜の開花も待たれることです。(小川和子)

○今日の俳句
湧水の流れに椿一花あり/小川和子
きれいな湧水に一花の椿が落ちてまだ色鮮やかである。水と花のクリアなイメージが美しい。(高橋正子)

○今日は春分の日。彼岸の中日である。俳句の季語では、「彼岸」と言えば、春の彼岸で、秋の彼岸の季語は「秋彼岸」という。季語「彼岸」は、春分の日をはさんだ3月18日から24日までの七日間。寺では彼岸会を修し、先祖の墓参りをする。「暑さ寒さも彼岸まで」というように、このころから春暖の気が定まる。
 信之先生の彼岸六句を紹介。

   松山持田、臥風先生句碑2句
 わが坐り師の句碑坐り彼岸の土
 彼岸の風吹きゆき句碑の石乾く
 涅槃西風寺苑にいっとき騒ぎて止む
 彼岸の雨去りたり寺苑少し湿らせ
 線香の燃え速し彼岸の風に吹かれ
 遍路杖たてるそれぞれバスの席に

 信之先生は、松山にいたころ、彼岸となると恩師の川本臥風先生の句碑を訪ねることが多かった。

 城山が見えている風の猫柳 臥風

 松山の旧制松山高校のグランドの隅に建っている句碑である。旧制松山高校は、松山市持田にあったが、今は愛媛大学付属小中学校となっている。私が大学に入学した時は、旧制松山高校時代の木造校舎が残され、そこでも講義があった。信之先生はそこの教授であった。

 春分の日といい空に飛行機音 正子

 春分の日といえば、親戚の法事などがよく執り行われ、両親は法事の手伝いに出て、子どもたちは、食事を賄ってもらった。法事の客の礼服に築山の紅梅が色を添えていたことを思い出す。
 今年の彼岸は、東北関東大震災で亡くなられた方は、行方不明者を含め2万人を越し、阪神大震災をはるかにこえる災害である。彼岸にあたって、亡き先祖にお参りするように震災の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りする。
 春分の日を挟んだ今年の彼岸は、土、日、それに続く春分の日があり、三連休となった。家には、息子と娘もいて、ゆっくりとした休日である。新聞、テレビ、ラジオ、ネットなどでは、お彼岸の連休といっても毎日東北関東大震災のことで緊迫している。新聞の小記事だが、東京の水道水に微量の放射性物質が検出された。健康に影響ないレベルということである。横浜の水道水は、相模湖から引いていて安全らしい。この放射性物質による汚染は、充分想定したことであってもショックな事件である。信之先生は、3月11日の巨大地震発生、そして、大津波を知っていち早く福島原発からの放射能汚染を危惧していたが、やはりこのような事態になった。そして、日本のリーダーたちの混乱がある。
 私が主宰しているブログ句会では、毎日の投句があるが、日常心を忘れずに、いい俳句を投句いただいている。

 初音して余震の窓を開け放つ/後藤あゆみ
  (高橋正子選評:「窓を開け放つ」になにかしらの安堵がある。「初音」も余震の後だけにうれしい。)

 頂の三角点に蝶降りぬ/多田有花
  (高橋正子選評:世の中あるいは自然界には、説明のしがたいものの良さが多くある。この句もそのひとつ。山頂の三角点に蝶が留まった。敢えて意味づけると、山頂、三角点、三角形の翅。危ういがしかし確かなピンポイント。山頂の春の日の輝きである。)

 揚ひばり榛名の入日まるまると/小口泰與
 (高橋正子選評:「揚ひばり」にまるまるとした入日が榛名を想い起こさせる。いい故郷の風景である。)

 揚ひばり畑ねんごろに打ちにけり/小口泰與
  (高橋正子選評:ひばりが空高く揚がり、のどかな日和。畑の土を丁寧に打ち返す。行いを丁寧にすれば、心の内も平たんになる。また逆も。)

○千葉在住の花冠同人の方からお米が届いた。心配していただき、大変有難く思う。信之先生は、いつものことだが、買占めを嫌うので、買い置きはない。松山に住んでいた以前のことだが、日本の米が店頭から消え、外米を食べた。料理には、苦労もしたが、子どもたちにも美味しく食べてもらった。お米に同封された手紙もうれしかった。この俳句日記の17日を読んでいただいて、「この騒ぎに動じることなく、四季の森公園に行かれたとのこと、大変心強くおもいました。いつもと変わりない生活を送ること、学ぶところ大です。」そして、私たちを見習っていただき、幼稚園児のお孫さんと土手に散歩に行かれたとのこと。小さいこどもに、震災の残酷な光景を見せたり、むやみに怖がらせたりするのは、よくない。

◇生活する花たち「苺の花、黄水仙、パンジー」(横浜日吉本町自宅)

3月20日(日)

花すもも散るや夜道の片側に   正子

○今日の俳句
楤の芽や水ほとばしる湯檜曾川/小口泰與
湯檜曾川は、利根川の支流。「湯檜曾川」という名が楤の芽の芽吹くところをよく思わせてくれる。清冽な句である。、(高橋正子)

◇生活する花たち「いぬふぐり」(横浜四季の森公園)

3月19日(土)

囀りの抜け来る空の半円球   正子
読み手に快い思いを与えてくれるのは、作り手の心が新鮮で、句を楽しんで作っているからであろうと思われます。句が生き生きとしています。(高橋信之)

○今日の俳句
如月の山懐の水清し/井上治代
山に深くしみ込んだ水は、山懐に湧き出て澄んでいる。寒さのなかにも春の兆しが見える如月の静かな明るさが読める。(高橋正子)

◇生活する花たち「辛夷(コブシ)」(横浜四季の森公園)

3月18日(金)/彼岸入り

囀りの抜け来る空の半円球   正子
読み手に快い思いを与えてくれるのは、作り手の心が新鮮で、句を楽しんで作っているからであろうと思われます。句が生き生きとしています。(高橋信之)

○今日の俳句
大空はどこまでも青く辛夷咲く/高橋秀之
真っ青な大空に、花びらをひらひらと崩して辛夷が咲いている。大空の青に対して、自然の姿をよくとどめる辛夷の花が印象的な句である。(高橋正子)

○四季の森公園の春
昨日、3月17日信之先生と四季の森公園に出かける。
10時過ぎに出かけ昼過ぎには帰る予定。グリーンラインは、時間帯による運休が三十分程度ずつ2度あるが、平常運転。空は晴れ。放射能が微量含まれる空のようだ。ベランダの黄水仙がテラコッタの鉢に咲く。

北北西の風のゆすれる黄水仙 正子

中山駅から四季の森公園へは、プロムナードを通って十五分ぐらいで着く。歩き始めると、乙女椿や藪椿。辛夷の花がびっしりと蕾を付けた並木があり、一本はかなり咲いている。薄い雲を入れて、写真に撮る。程なく公園に入る。入口からはすっかり葉を落とした雑木林の起伏がきれいに見える。すぐの蓮池には、鴨が三羽と亀。遠目に黄色い花木が見える。何か咲いているだろうと奥へと歩く。黄色い花はさんしゅ。花は満開で十本以上はあるだろう。フランス絵画に出てくるような石の橋があって、その橋を入れてさんしゅうを写真に撮ったりする。橋の反対側に三椏がこれも満開。数本はある。池沿いを菜の花畑のほうへ道を歩く。山桑が芽吹いて、池の水に触れそうに垂れている枝もある。初夏には、この山桑の実が熟れる。菜の花畑に出会う。丈短く咲いているので景色として何枚か撮る。その菜の花畑の端に山水が流れる小川あり、三椏の花がここにも咲いている。流れを入れて三椏を撮る。さらに歩くと菖蒲田があるが、今は井桁に組まれた木道が目だって、田にはようやくはさみのような芽が出ているだけ。菖蒲田の木道を歩き、横の小道に逸れると、枯木の一部が芽吹いたような木がある。クヌギかなにかだろうと近くに寄ると、まんさくの花であった。まんさくの花のよさは、ところどころに汚らしいとも思える枯葉が一二枚残っていことだ。この風情は捨てがたい。5メートルはありそうな木であるので、全体を写す。小さい花を撮りたいと思い地面に目を凝らしながら歩く。ようやく咲き始めたおおいぬのふぐりが、やはりあった。なずなの花も小さい。たんぽぽが子どもの寝起きの髪の毛のようにに花びらをほぐして咲いている。

辛夷、さんしゅう、三椏、まんさくと、早春の花がとりどり見れた。おおいぬのふぐりのあるところに休憩所があり腰を下ろす。春浅い日差しがなんとも言えない。信之先生が言う。「正子が死んだら、ここに来て、あのときは、いぬふぐりが咲いていたなあ、と思うだろう。」私は「あははは。」と笑う。戦中派の信之先生は、私より年上なので、こういうことを言うのだ。ここに言う「なので」は、「だけれど」ではない。戦中派というか、とある個人は「自分が死ぬ」と考えないか、「死んでたまるか」と考えるかであろう。ある癌患者の方が癌とわかり、医者に「それでは、これからどのように暮らしたらよいのでしょうか。」と聞いたら、医者は「癌ではないと思って暮らしてください。」と言われたそうだ。こういう考え方も面白いと思ったことである。これこそが春浅き日の自然の意思とも思えるのである。

帰宅後、写真を見ると、カメラが良くなったせいか、少し、自然の表情が出ているのでは、と思った。

◇生活する花たち「山茱萸(サンシュユ)・三椏(ミツマタ)、満作(マンサク)」(横浜四季の森公園)

3月17日(木)

わさび田の田毎に春水こぼれ落つ   正子

○今日の俳句
春鳥の飛び去り棒の揺れるのみ/祝恵子
たとえば、畑に突っ立っている棒に、鳥が飛んで来て止まり、
辺りを見たり、鳴いたりして、飛び去る。飛び去るときのはず
みで棒が揺れる。春になると特に小さな生き物がいきいきと動
き始める。春らしい景色。(高橋正子)

◇生活する花たち「馬酔木・ノースポールデージー・アリッサム」(横浜日吉本町)