★跳躍の真紅の花のシクラメン 正子
シクラメンの花は、翼にも炎にも似て、美しいダンサーのようです。特に真紅のそれは、この真冬によくぞ咲いてくれた、と拍手をおくりたくなるほど。その姿から「跳躍」という言葉を見つけられた、正確さに驚きつつ、共感いたします。(川名ますみ)
○今日の俳句
冬晴れて登ることなき山のぞむ/川名ますみ
冬晴れに高い山が望める。その山に自分は決して登ることはできないが、その山の姿のすばらしさに、登ることはかなわないが、せめて心だけでも登ってみたい思いや憧れがある。
★南天に日はうららかに暮れにけり 正子
○今日の俳句
水仙の目線にあれば香りくる/祝恵子
目線の位置から、すっと真っ直ぐ水仙のいい香りが届く。香りがたゆたわず、すっと真っ直ぐ届くところが、水仙の花らしい。
○南天の実
冬が来ると、縁側にふれそうに南天の実が色づいた。その南天は私の記憶では、一間(1.8メートル)ぐらいの高さで、大きくもならなかった。築山のほかの木が剪定されても南天はそのままで、正月用にその実も葉も残されていた。年末のごみを焼くけむりにも巻かれていた。これは、広島の生家の話であるが、南天はどの家にもある。「難を転ずる」の意味で植えられるらしい。松山の家の庭隅にも、植木屋さんが勝手に持ってきて植えてくれて、正月料理や赤飯にその葉を飾りに使ったりした。一枝切って、正月花にも使った。今住んでいる横浜の日吉本町を散歩すると、農家の藪のようなところにも木の姿は乱れているが、たわわに実を付けている。もう年末だな、もうすぐ正月が来るな、と思う。そう、正月が過ぎて、雪が降る日があると、赤い実が雪を冠り、かわいいのだ。雪うさぎの目にもなったりする。墨彩画に書かれたものも実だけが赤くて面白い。書きだせばきりがないほど、南天は身近にある。
生活する花たち 冬①
○現代俳句1日1句鑑賞
12月31日
★去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子
「去年今年」の季語であまりにも有名になった句である。虚子は、客観写生を唱えたが、虚子自身は、大変主観の強い人間である。去年が今年となっていく時を「棒の如きもの」と主観の強さで把握した。太い棒のような時は、虚子の一貫した人間の太さや力とも言えよう。(高橋正子)
12月28日
★身にまとふ黒きショールも古りにけり 杉田久女
防寒にショールをまとう。ショールは、防寒の用だけでなく、気に入ったお洒落なものをまとう楽しみもある。買ったときは華やかに身を包んでくれたショールも、年々使って古びてしまった。ショールが古くなることは、つまり自身から、若さや華やかさが失せることでもある。うだつの揚がらない田舎教師の妻として、境遇を思う悲哀がある。(高橋正子)
12月27日
★許したししづかに静かに白息吐く 橋本多佳子
許しがたく憤ることがあって、昂ぶっていたが、考え、時間が過ぎてみると、次第に「許したし」の心境に落ち着いてきた。憤りを静めるように、意識して静かに吐く息である。寒い折、その息は白くなって、自分の目に、静まって行く気持ちが確かめられる。多佳子らしい感情が出ている。(高橋正子)
12月26日
★冬霧やしづかに移る朝の刻 谷野予志
霧に包まれた冬の朝の静かな時間を、作者自身の静かな行為の中で詠んでいる。霧が深く立ち込める情景は、空間も時間も動かないというほどに、「しづかに」動いているのである。(高橋正子)
12月25日
★足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女
久女は女子高等師範学校を卒業した秀才であるが、絵描きの田舎教師の妻となった。夫の将来に夢を託していたが、凡々と暮らす夫に不満が募り、そうかといってイプセンの「人形の家」の主人公ノラのように家を飛び出していくこともせず、もんもんとして、足袋の破れをつぐような生活を送る日もあった。女性の自立を問う句であることに、今も変わらない。(高橋正子)
12月24日
★冬の海越す硫酸の壺並ぶ 谷野予志
船に載せられて運ばれる工業用の硫酸だろうが、硫酸とは、ただならぬ。その硫酸が壺に入れられて並べられているのを目にした。冬海が荒れれば、硫酸は壺のなかで揺れる。いかなる事件が待ち受けているかもしれない危険がある。そういったことを予測させて、ミステリーが始まるような鋭い句。(高橋正子)
▼現代俳句1日1句鑑賞
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★山茶花の高垣なればよく匂う 正子
高垣もいろんな木がありますが、山茶花であればこそ、花の香りが漂います。よく匂うので、きっとたくさんの花が咲いていることでしょう。(高橋秀之)
○今日の俳句
賀状書き並べテーブル埋め尽くす/高橋秀之
年賀状を書くときの様子は、まさにこのよう。版画を押したり、絵の具や墨を使ったり、昨今は、パソコンで写真を印刷したりして、思い思いの年賀状を作る。乾くまで重ならないようにすると、テーブルが埋め尽くされていく。新年の挨拶を楽しみながら書く、歳晩の日本のほのぼのとした家庭が知れる。
◇生活する花たち「ブーゲンビリア・ウィンターコスモス・木瓜」(横浜日吉本町)
平成24年2月号作品10句
湖水に向きて
高橋正子
ひつじ田の明るいみどりを疾走す
トンネルを抜けて手帖に差す冬日
十一月のはだらな雪の富士が右
湖北四句
平らかな湖水に向きて冬はじめ
波音の湖に生まるる冬はじめ
胸までの波に浮かびて湖の鴨
栴檀の実の散らばりに湖晴るる
大阪城天守二句
冬がすみ生駒の山の青透かし
六甲も金剛山も冬がすみ
柿の葉ずし車中の冬灯に広げたり
★跳躍の真紅の花のシクラメン 正子
シクラメンの花の形は確かに跳躍しているようです。こうして言葉にしていただくと、確かにそうだ、と気がつきます。まして真紅となれば華やかな跳躍です。(多田有花)
○今日の俳句
石蕗の花はや日輪の傾きぬ/多田有花
句の姿が整っている。暮れ急ぐ日にしずかに灯る石蕗の黄色い花が印象に残る。(高橋正子)
○新聞を読む
日経12月6日付け朝刊「私の履歴書/松本幸四郎」
父は常に言っていた。「弟子は師匠の悪いところを真似(まね)て、いいところをとらない。自分で覚えろ」と私にあまり教えなかった。芸の伝承の難しさを実感させる言葉である。
日経12月6日付け夕刊「こころの玉手箱/興福寺貫首 多川俊映」
「真言は不思議なり 観誦(かんじゅ)」すれば無明を除く」「真言つまり真理の言葉は、本質を洞察したもの。だから、とりあえずの意味など考えず唱えなさい。そうすれば無明すなわち煩悩は除かれてゆく。理屈っぼい私に温厚な和上がくださった、弘法大師の名句だ。寡黙な父も同じことを教えてくれていたのだと後年、気が付いた。」
偶然にも同じ日に内容の同じような記事が掲載された。松本幸四郎の父の言葉には、とくに感じ入った。
先日若い俳人と称される人たちが俳壇の外で、ネットを使って読者を広げているという紹介があったが、今日の二つの記事を読むと、「真理」とは程遠い、伝統文化とはほど遠い、愚にもならない若者俳人である。