曇り、夜雨
老鶯のどこかに鳴いて納骨す 正子
桜の実の熟れている墓地納骨す 正子
青葉して尼僧の読経の一周忌 正子
●信之先生の納骨と一周忌の法事。夏日の予報だったが、曇りでちょうどよい気温。今日のお経は尼さんがあげてくれた。尼さんのお経は初めてだったが、句美子は尼さんの方がいいと言っている。石鎚山に修行でのぼることもあると言う話だった。納骨と法要は40分ほどで終わった。墓所には次を待つ二家族ほどがいた。田舎では考えられないこと。
昼食は私以外は若い人たちなので、麻布十番に本店があるレストランで西洋料理。始めに出されたオニオンスープが美味しかったので、後もおいしいのではと期待したら、その通り。元が車で往復してくれた。帰宅すると、お骨を置いていた場所に今朝白い芍薬を置いたが、満開になって部屋中いい匂いがしていた。正月でもないのに、納骨と一周忌の法事が終わり年を取った感じがする。
晴れ
●図書館の本の返却日。熱心に読んだのは『人間ゲーテ』だけ。一度読み終えてすぐ2度目を読んだ。それでようやくこの本の意図が分かった。ゲーテの入門書だったが、『ファウスト』の一部、二部を曲りなりにでも読んでいて、2回目読んだときはずいぶん納得する箇所が多くて、手元にこの本を置きたくなった。
世界でいちばん美しい抒情詩の一つと言われるゲーテの詩「旅人の夜の歌」(2)が紹介されていた。言葉として、その音を書き留めておきたい気持ち。「この詩には深い意味がある。どこにあるかと言えば表面にある。」とホーフマンスタールが言ったそうだが、それは「色即是空」ではないの、と言いたくなる。そしてゲーテの自然の把握は、峰から梢へと移っている。間違えても梢から峰へ、ではない。この自然の把握も私的には俳句の場合もそうだと言いたい。
Wanderers Nachtlied
Über allen Gipfeln
Ist Ruh,
In allen Wipfeln
Spürest du
Kaum einen Hauch;
Die Vögelein schweigen im Walde.
Warte nur, balde
Ruhest du auch.
旅人の夜の歌
すべての峰に
憩いあり、
すべての梢に
そよ風の
動きもなし、
森には小鳥の歌もやみぬ。
待てよかし、やがて
汝も憩わん。
(訳:小栗浩)
※この詩を理解するために生成AIのCopilotに質問した。①前置詞のあとの格について。?韻を踏むためにスペルの追加があるかどうか、③Walde とWald の違い、balde とbald の違いの3点。AIの答えは、Über allen GipfelnとIn allen Wipfelnはともに3格であること。韻を踏むためにbald ではなく古語・詩語のはbaldeが使われていること。Waldeはbalde 同様、古語・詩語だということだった。
これが正解かどうかわからないが、勘ではAIの答えは正解だと思う。
小雨
●19日の信之先生の一周忌の法事の準備、実際準備してみれば抜けていることがあって、買い物。19日は暑くなりそう。27度の予報が出ている。
●ネット短信No.415を14日に送信したが、受信の確認が取れない人が半数以上。月例ネット句会の反応も速いとは言えない。多分、日常的にはスマホを使い、PCのメールは見ていないのかもしれない。こう思いつき判断するまで、時間がかかったが、No.415に続いて、ネット短信No.416でスマホにメールを送ってほしい人はアドレスを知らせるように連絡した。早速、美知子さんと秀之さんから連絡が来た。
晴れ
街中の古家にほんのり枇杷熟れる 正子
アゲハ蝶飛翔のときは浅葱色 正子
櫟林の山路は昏し卯の花も 正子
●いつも通り目が覚めたと思ったら、まだ4時半。この時間は日差しを気にする必要がないし、鳥も鳴いているだろうと、5丁目の丘へ出かけた。朝靄で、直観でしか見えない富士山の雪嶺が浮いていた。鳥は四十雀がたまに鳴く程度。鳥たちは山に帰っているのか、どうなのか。
●『人間ゲーテ』(小栗浩著)の小さい本を読んでいるが、250年以上前の文豪ゲーテに我々が学ぶところは何かと言う本。この本自体が30年前の本だが、気づかされることが多い。四章に分けられている。3章「ヴァイマル」、4章「詩人としてのゲーテ」よりも、2章「わが存在のピラミッド」はゲーテの本質的なことのようなので、からっぽの頭では理解が難しいが、おぼろげながらわかる。
ゲーテの人間形成に恋愛は大きく影響している。「少女を見、この少女を愛することによって、美しいもの、すぐれたものの世界が開かれたのであった。」(『詩と真実』)「わが存在」のために「ピラミッド」を築く、高みを求め続ける精神が、「高み」への理想主義的希求が重なる恋愛を体験させたのだと思えた。
それよりもゲーテの詩「五月の歌」は、明るくのびやかで好きな詩であるが、これがフリーデリーケとの恋愛で生まれ、「ゼーゼンハイムの絶唱」と呼ばれていることをはじめて知った。高揚した精神で自然を見ればこのような詩が生まれるのか、興味深い。内面的な俳句は内面が触発されることによってできることはわかっている。精神の高みのある状態で自然を見ればどうなるか。「高み」は、「深み」とは反対でもなさそうだ。
ゲーテはマイン河畔のフランクフルトで生まれているが、ゲーテが最初に学んだライプチッヒ大学のあるライプチッヒに比べて言葉が粗野で悩むこともあったようだ。しかし、ゲーテはフランクルトの言葉を愛していたという。フランクフルト読みの発音で韻を踏む詩を作っている。こういう詩を読んでいると、詩は息でできているとさえ思える。
家族のドイツ旅行の時、フランクフルトのゲーテの生家を訪ねた。ゲーテの部屋にも入ったが、写真で見るのと同じ様子だった。家はマイン川のピンクがかったうすい紫色の砂岩でできていて、階段は観光客が踏むためか、擦りへってくぼんでいた。中庭のある生家を訪ねたことはなにがしかゲーテの理解を助けてくれている。
ゲーテの本と一緒にシラーの本も借りて来た。ベートーベンの第九「歓喜の歌」はシラーの詩の大部分が使われているが、「歓喜の歌」はこれまでドイツ語で聞くのに慣れてしまって、シラーの日本語訳の詩がどうしても痩せて思えた。「メーリケ」の詩の翻訳もシラー同様にどうしても痩せて思える。ゲーテの詩は翻訳でもそれほど痩せた印象がない。これはどういうことか。ゲーテは小説ならトーマス・マンに、詩ならリルケに比べれば、その構成、また言葉にゆるさがあるという。これもまた面白いところ。
晴れ
踏み入りし青葉の寺の奥深し 正子
夫の忌も母の忌日も聖五月 正子
梅の実の葉蔭に緑濃く太る 正子
●ネット短信No.415を出す。No.414がちょうど2か月前の3月14日。花冠No.371号への雑詠投句依頼。信之忌ネット句会の案内、大垣全国俳句大会の案内の件。
●クリーニング屋へ行く途中、金蔵寺へ寄る。境内に入ると桜の季節とうって変わって、青葉が寺に輝いている。色はなくひたすら青葉ばかり。めずらしくお参りの人が誰もいない。青梅が太っている。柏葉紫陽花が白と言えず、うす緑に咲いている。
雨
青葉陰小川に添えば水が鳴る 正子
青嵐巣箱のかかる樫の木に 正子
おとといのバラが散りたりこの部屋も 正子
●午前9時過ぎ、五月月例ネット句会の入賞発表。
●夕方、郵便物がどっさり届く。中に「芭蕉蛤塚忌全国俳句大会」実行委員会からの案内があって、力が入っている。「奥の細道むすびの地「大垣」」の主催。普段は全国からの結社誌から主宰の句を一句ずつ紹介したリーフレットを送ってくれる。普段から地道な活動をされていて、大会の時だけではないので協力したい。明日、花冠会員に投句用紙などを送る予定。
●昨日はネット句会で忙しかったが、今日は朝から雨で、今日が日曜日の感じがする。ネット句会の合間に朝顔の種を蒔いたが、今日の雨がかかって芽生えを助けてくれそう。深く蒔き過ぎた気がする。今年は垣根のように仕立てるつもり。支柱はたくさんある。今年はアブラムシが全然来ないし、ミニ薔薇の葉も病気にならないので、それが不思議。ベランダ花壇は順調に育っている。紫蘇も買わなくてよいほどに育った。
晴れ
●5月月例ネット句会。13名参加。
投句
啄木鳥の鳴き声若葉の森深く 正子
夏の蝶遺影の夫の変わらずに 正子
発車して旅に出るごと栃の花 正子
●筋向いの家の2.5メートルぐらいの樫の木に四十雀がよく出入りしている。すぐ上の電線でジュビジュビと鳴いては樫の繁りに入っていく。見れば巣箱が掛けてあって、中に四十雀が入っている様子。鯛ヶ崎公園の巣箱にも四十雀が入っている。このあたり、雀より四十雀が多い感じなので、民家の巣箱にも小鳥が入っている。窓辺の巣箱に小鳥が出入りする現実が目の前にあるはいかにもたのしい。ここに住みはじめて18年目ではじめてのこと。思い返してみれば、引っ越してきた時より、小鳥の種類が増えた感じがする。知らなかっただけかもしれないが。
●句美子が2週間ぶりに来るが、まだ風邪が抜けない様子。仕事が大変忙しい様子。働く時間を少なくできないものなのだろうか。息子は息子で忙しいという。親の私はいつも何か起こらないかと、ひやひやしている。母の日なんかどうでもよくて、子供たちには、元気でいてもらわねば、安心できない。今の社会構造は大丈夫なのかと思う。政治家があれでは、日本がよくなるはずがない。そのしわ寄せが子供たちに来るのでは、親はたまったものではない。
晴れ
白がちは涼しさ呼べりアマリリス 正子
●昨日の日吉に特急が停まる話、今日、日吉駅の時刻表を確かめたら、通勤特急だけとわかった。そうなら、多分ずっと前からなのだろう。知らないのは自分だけだったかもしれない。
●『人間ゲーテ』(小栗浩著)を読んでいて、文豪ゲーテは保守的な人の印象をもった。フランス革命に批判的だったし、独創を誇る詩人が後を絶たないことに業を煮やしたらしいこともある。晩年にミュラーに語った言葉が面白いし、痛快。
「昔のものであれ今の者であれ、詩人が自分のものとして悪いものがあろうだろうか。せっかく花が目の前にあるのに、それを摘むのをなぜはばかるのだろう。人の宝物をほんとうにわがものとすることによってのみ偉大なものが生まれるのだ」(1824年)「真理は発見されてすでに久しい。・・・古くして真なるもの、それをわが所有とせよ」(「遺訓」(1829年))など。
「新しい俳句」をジャーナリズムは好むが、俳句は今のままでも追及され尽くしていないと思う。問題なのは、「ジャーナリズム」がいくら俳句に詳しくて通じていても、ジャーナリズム自身が俳句を作らないことに問題がある。
●薔薇をくれた近所の方に、「お陰で薔薇の俳句が出来ました」と、鳩居堂の葉書に俳句を書いたのを2枚、お礼のつもりで渡す。「駄句ですが、この句はお宅の薔薇のことですよ」と言うと顔を赤くされる。なんとシャイな。
剪りくれるバラを待ちつつバラを見ぬ 正子
二夜咲き真下に散りぬ活けしバラ 正子
晴れ
●横浜のそごうへ。鳩居堂で新しい葉書きを見つける。上下をぼかした和紙で色紙のような感じ。試しに2枚ずつ5種類買う。シルクスクリーンの葉書きはマンネリぎみだし、年齢に合わなくなったように思うので、よかった。
鳩居堂の工房は京都にあるのだろうが、どのあたりなのだろう。鴨川寄りかも。
いろんな団扇や扇子が出ている。夏がきている。
お茶店で静岡茶を買う。店の人の話では、新茶の包装は派手にするのだとか。法事用なので、新茶でないものを買う。
行きは地下鉄、帰りは東横の通勤特急で。菊名で降りて急行に乗り換えるつもりだったが、日吉にも特急が停まるアナウンス。いつから特急が停まるようになったのだろう。これは今日のビッグニュース。見たことのない車両が走ってきた。何線?いつからだろう。